私、暗殺者やってるけどターゲットが可愛すぎて殺せません。
「失礼する」
短く言って室内へ入り込むと、そこは書斎のような空間だ。
奥には大きなデスク。窓は背にしてそこへ座り込む焦げ茶のスーツの男を護衛する目的で、両サイドには黒スーツサングラスの男たち計六人がいた。
組織へ加入し幾ばくか経つが、未だ確信的なまでの信用は勝ち取れずにいる。護衛役が置かれていることが、その証明だ。
そこまでせずとも、この忠誠は揺るがないというのに。
「この女を始末しろ」
開口一番、焦げ茶が言った。
護衛役の一人が素早く書類を手渡してくるので確認すると、今回のターゲットはまだ十代の少女であるらしい。
「こんな子供を、殺すのか?」
純粋な疑問だったが、すぐにこの界隈ではそんなこともあるだろうと思い直す。
私とて子供だ。今でこそ裏社会で暗殺者として一定のネームバリューを持つが、ほんの数年前まではスラムで飢えていた、なんてことない幼子だったのだ。
子供一人が、社会のパワーバランスを崩すことだって、時としてあり得る。
予想していたことであるが、焦げ茶は表情声色一つ変えずに受け流した。
「お前が理由を知る必要は無い。言われるがままに遂行る。それがお前の存在する意味であり、コードネーム・キサラギの使命だ」
「……その通りだとも」
拾われた私は、組織に身も心も魂も差し出したも同然。
意思のある殺人マシーン。けれど、リモコンが他者の手にあれば、それは意思がないのと同義だった。
「これより、このキサラギは任務を遂行する」
機械じみた抑揚のない声でそう宣言すると、「認める」と短く肯定された。
これが私。これがキサラギなのだ。
****
編入手続きが済み、私は晴れて国立ヴィーナス学園の制服に身を包んだ。
この学園の、それも同じ教室に今回のターゲットがいる。
同い年で同性とは、皮肉な縁である。
「初めまして、シャルロット・ブルートゥスと申します。この度は、家庭の事情により––––」
暗殺とは容姿さえ時として武器になる。従って組織に外面を書類面でも直接的な面でも磨かれた私は、一躍全校生徒内でも力ある存在として扱われるようになった。
「……で、あるからして」
今更国立の学園で習う程度の知識など、一々真面目に授業を聞くまでもない。
そのうち授業中は窓の外を眺めることが多くなっていたが、成績は上位に入り込んでいるため、咎めようとするものもいなかった。
「シャルちゃーん、授業聞こうよぅ」
ただ一人を除いて。
「なんだ、文句でもあるのか。私はきっちり自宅学習で結果を残している。何か言われる筋合いはないぞ、無能」
右隣の席から掛けられた声にぶっきらぼうに答えると、その少女––––シエラ・ミネルヴァは頰をぷっくりと膨らました。
「もっ、すぐそうやって理屈っぽく! シャルちゃん頭いいんだから、授業も真面目に聞けばもっと成績上がるって思わないの??」
ミネルヴァはやかましい女だ。金髪碧眼に幼さの残る顔立ちと、その感情的な性格。それなりに男連中には人気があるらしい。
何故か編入したその日に彼女に気に入られてしまった私であるが、それは面倒でも好都合でもあった。
「思わないな。この学園の授業は何の為にもならない」
何故なら––––、
「しゃーるーちゃーんー!! それじゃあ学校来てる意味ない!」
「ミネルヴァ、いい加減静かにしないと授業の迷惑になるぞ。皆この授業に真剣なんだ」
「言ってること無茶苦茶だよぉ!」
––––彼女が、私のターゲットその人だからだ。
編入から一ヶ月。
「それに、私はお前に会えるからこの学園に毎日通っているんだ。ミネルヴァがいなければ、この施設になどはなから興味はない」
「ふぇっ……そ、それって……!?」
「黙秘する」
「しゃーるーちゃーんんんっ!!」
私は、着々とミネルヴァの情を勝ち取り、『その機会』を吟味していた。
****
ミネルヴァは無防備である。
友人と言って差し支えないレベルで彼女と学内で行動を共にする私だが、けれどその無防備さを暗殺に転用することが出来ずにいた。
彼女は本当によく話しかけられる。それも、男連中に。
それはつまり、監視の目が学園内の至る所に張り巡らされているも同義だ。
迂闊に殺ってしまって誰かに目撃されたなら、私の人生はそこで終了する。組織からもお払い箱だ。
コードネーム・キサラギの数々の所業は、全てその用意周到さから成立している。
誰にも見られていない、その、決定的な孤立の瞬間を、的確に刺し突く。
どんな人間だろうと必ず存在する一瞬だ。
どれだけの時間をかけようと、私はそうして人を殺めてきたのだ。
「シャルちゃんは、真面目なのか不真面目なのかよくわかんない」
恐ろしく甘そうな学食のパフェを一人で食べ進めながら、ミネルヴァはじとりとした目で言った。
「テーブルマナーはキッチリしてるし、授業聞かなくても大丈夫なくらい自宅学習してるって言うし。おうちの人、厳しい?」
「……ほう」
無能なようで、案外考えているんだな。無能ルヴァとコッソリ陰で呼んでいたが、撤回した方がいいかもしれない。
しかもズカズカと無神経に踏み込んでくる。そこまで私が心を許しているように見えるのか。能天気なやつめ。
お前はそのうち、私に殺されるというのに。
「私の家はそこまで厳格ではない。たった一つ、言われたことを守ればそれだけで褒められもする。今は……まぁ、友達を大切にしろ、とでも言われているかな」
表向き、私とこいつは友人関係を結んでいるし、いつも隣にいる。案外嘘にも聞こえないだろう。
間抜けなミネルヴァは、キラキラと目を輝かせ、パフェそっちのけで私にずいっと近づいた。
「わっ、その友達って、私のこと? ね? ね?」
嬉しそうな顔をしやがって。こいつ個人に大しては、私は何の感情も抱いていない。
「黙秘する」
「しゃーるーちゃーんっ! 素直じゃないよぅ!」
そうして咎めるような声。これはもう一連の流れと化していて、奴の次の言動は90%言い当てられる。
今ではこいつの好き好みも把握するまでになっていた。
そう遠くないうち、チャンスはやってくるだろう。
その日までは、せめてミネルヴァに人生を楽しんでいてほしいと、何故か柄にも無く私は考えていた。
心の伴わない友人と共にいて、楽しめるわけがないだろうに。
****
「キサラギ、お前らしくもない」
そう切り捨てられ、私は混乱していた。
「お前の衣類には、漏れなく監視機が付いていることは知っているだろう。その映像から判断して、先月ターゲットを殺める機会は、述べ五十回は下らないほどに存在した。何故、実行しなかった?」
「そん、な、はずは」
確かに奴とはこの半年でこれ以上なく親しくなったと言えよう。この頃のミネルヴァはよく笑う。
あいつが屈託無く笑うと、胸の奥が温かくなり––––。
そこまで考え、私は正気に戻った。
何だ今の感傷は。いくらなんでも腑抜けが過ぎるぞ。
「あったんだよ。まさか、任務中に考え事でもしていたのではあるまいな。……気を引き締めろ、今回は、まだ上に報告しないでおいてやる」
まだ、という部分を強調しつつも、焦げ茶は恩情を見せた。
それは優しさであり、この稼業に生きる者への侮辱でもある。失態を受け入れてこそ、一流なのだから。
「……すまない。恩に切るぞ、キサ……こ、焦げ茶」
屈辱と立場を天秤にかけて、私はまだ立場をとる。腕は超一流と評されようと、その内面は未だ未成熟な子供のままだ。『組織』に捨てられたら、その先どうすればいいかなど検討もつかない小童。自分で進む道も定められない無能者。
「……コードネーム・ブラックティーだ、二度と間違えるな」
いつもは無表情な焦げ茶の顔には、念押しするような『間違えるな』という文字が、書き込まれていた。
何に対しての『間違えるな』なのかなど、明白だった。
覚悟を、決めるしかなかった。
****
「シャルちゃん、最近は授業もちゃんと聞いてるよね。シャルちゃんがまじめにノート取ってて、私も嬉しいよぉ。長々と注意し続けた甲斐があったね!」
裏庭の、人気がないその場所で、隣に座ったミネルヴァは言った。
「お前の場合、板書を写すのが遅いから私のノート見せてもらいたいだけだろ」
「あっ、ひどい! 私はちゃんとシャルちゃんに道を踏み外して欲しくないから注意してただけで……きゃうんっ! いったぁ……なにするの!」
「つい」
中々本性を現さないので、私はデコピンをお見舞いした。涙目で額を抑えている姿は、なんとも被虐心を煽った。
もちろん力はセーブしている。本気でデコピンすれば頭蓋骨を砕いてしまいかねない。
「……素直に言えば、いくらでも代筆してやったのに」
小声で呟き僅かに肩を竦め、私は弁当のおかずをつついた。
「というかお前に––––シエラに言われたから授業を聞いているだなんていつ言った? 思い上がるなよ無能め」
「! 私のこと、やっと名前で呼んだ!」
呼称が変わった程度の些細な変化なのに、何故この間抜けはここまで過剰に喜ぶのか。
……理解しかかっている自分が、憎らしい。
「お前が、煩いからな」
「お前じゃないでしょ、さっきみたいにシエラって呼んで?」
「……お前」
「し・え・ら」
「……間抜け」
「しゃーるーちゃーんっ!!」
「うるさい。ノウナシエラ・マヌケルヴァ」
「私そんな変な名前じゃないよぉ!」
やかましいやつめ。
私はギャーギャー喚くミネルヴァから視線を外し、手に持っている弁当に目をやった。
『私がシャルちゃんのご飯毎日つくってあげる! 勉強はダメダメでも、お料理は得意だからね!』
三ヶ月前だかに、ミネルヴァの自宅で勉強を教えてやった際にそう言って、彼女が寄越すようになった、私の昼飯だ。
……何故、私はあの時了承したのか。
「馬鹿馬鹿しい」
短く小さく言い捨て、私は視線を上げた。
「? シャルちゃん、どうしたの?」
「シエラ」
「は、はいっ」
「目を、私がいいというまで閉じてろ」
「え? う、うん……?」
語尾を沈めて疑問符を浮かべながら、けれどミネルヴァは私の言われたままにした。
同じ時間を共有した賜物だ。今のミネルヴァならば、私がどんなに荒唐無稽なことを口走ったとしても、信じるだろう。
仮初めの、信頼だ。
「……」
瞳を強く閉じたミネルヴァ。
素直に、可愛いやつだということは認めてやろう。
白い肌はきめ細やかだ。金色の長髪はサラサラと艶やかだ。顔立ちは愛嬌がある。嫌いじゃない。
やかましい性格だって、私のことを大切に扱ってくれて、嫌いにはなれない。
そっと、首元に手を伸ばした。
「ひっ、ぅ……」
指先が掠ったからか、ミネルヴァは短く息を呑んだ。頰が真っ赤なのは、照る日差しが暑いからだろう。
この手。
この、人を殺し慣れた手を、血濡れた手を、その繊細な首にやったら。
私は呆気なく、この女をあの世に送ることができるだろう。
「しゃ、しゃるちゃ……」
声が揺れている。不安か? あぁ、不安だろうさ。
今から何をされるやもわからない恐怖。絶対の信頼を寄せようと、決して隠せない恐怖。
「……私、シャルちゃんのこと……大好きだから。いい……よ?」
「っ」
馬鹿な。間抜けなこいつが、私の目的に勘づいていたというのか。
いいや、あり得ない。きっとこいつは、私が何をしようとしても受け入れると、そう言っているのだ。
……本当に、馬鹿な、やつで。
「……もう、開けていいぞ」
「ふぇ?」
私は、手を引いてしまった。
ここまで来て、あと一歩のところで。ミネルヴァを––––シエラを、本人の同意も相まって、簡単に殺められるというところで。
「……なんでもない。なんでも、なかったんだ」
「……シャルちゃん?」
「すまない。少し、一人にしろ」
人には情がある。一流になりきれない暗殺者にも、当然それは組み込まれていて。
操作されるがままだった殺人マシーンは、初めてリモコンに逆らった。
たった一つ、親友への想いを理由に。
****
「隠しようがないぞ」
主語のない始め方だったが、言わんとすることはわかる。
いつもは六人いる護衛役が、特に忠誠を誓っているという一名のみで、この話題はやはり隠されるべき事柄なのだろう。
コードネーム・キサラギ。組織内で暗殺者と聞けば、真っ先に名が上がる凄腕の暗殺者。
彼女が、命令に背いたと。
「上への報告をせねばいけない。お前がいつまでも任務を遂行せず、ターゲットと仲良しごっこをしていたとな」
隠しようがないぞ、とはつまり一度は隠そうと尽力してくれたということだ。
ここまで来ても恩情を見せる焦げ茶は、私の拾い主であるとはいえ、優しすぎるように思えた。
「否定のしようがない。キサラギは……私は、情に流された」
シエラを好いてしまった。共にいたいと、思ってしまった。
そして何より、彼女の幸せを願ってしまった。
「お前には、2つ選択肢があるぞ」
焦げ茶は表情1つ変えずにそれを提示した。
「1つは、キサラギとしてターゲットを殺し、組織内に留まる。もう1つは、『組織』を秘密裏に抜け出すことだ。それも、俺の手1つではあまり悠長にしていられないがな」
「それ、は」
「俺は暗殺者に向かない人間だ。だからコードネームを継承し、お前に人を殺める道を提示した。情に流されやすい俺に育てられたお前もまた、情に弱くなってしまったということだ。ただ、それだけのことでしかない」
いつになく饒舌に語る焦げ茶。彼は優しい人間であり、愛してしまったターゲットの為に依頼主を裏切り、今の組織に収まったという。
「お前が決めろ、キサラギ。俺の名を、受け継ぐ暗殺者」
私は、『組織』を抜けることにした。
****
「シエラ、お前に話がある」
私はそう言ってシエラを連れ、いつもの裏庭へとやって来た。
「話って?」
当然彼女は怪訝な顔をしていた。
大事な、話をしなければいけない。
「私は、また転校することになったんだ」
「……ぇ。な、なんで?」
何故と狼狽える彼女。なんの前触れもなかったのだから、当然だろう。
『組織』を抜けるのならば、身を隠さねばなるまい。
この先どうすればいいかは未だ定まっていないが、しばらくはシエラを影から守れるように、後任の暗殺者を潰さねばならないだろう。そして、彼女が暗殺されることになった理由を探り、他に抜け道がないか考える。
どうあれ、もうシエラの隣にいるわけにはいかない。
共にいたいだけではない。それ以上に私は、彼女に幸せになってほしい。
だから、私は何食わぬ顔で続ける。
「家の都合でな。かなり離れた土地へ行くことになる。お前とも、もう会うことはないだろう」
「そんな……そんなの急すぎるよ! お手紙は? 出しちゃダメなの?」
「手紙が届かないくらい遠くに行くんだ、そこで––––」
そこまで言って、私は正面に立っていたシエラが、思いの外近くにいることに気づいた。
彼女はそっと、私の手を握って。
「なんで、目を見て話してくれないの?」
「なに……?」
「シャルちゃん、おかしいよ。なんでいつもみたいにハキハキ喋ってくれないの? 何か、隠し事してるよね?」
「な、なにを言っている。だから今、その隠し事を明かして」
「遠くへ行っちゃうって、嘘?」
「っ」
つい、短く息をのんでしまった。
シエラにとってはなんて事はないカマかけだったろう。いつも尻尾を見せないでいる私ならば、引っかかってはくれないと確信しているカマかけ。
まさか、こんな初歩的な話術に掛かってしまうなんて。
私が嘘を言っていると悟った彼女は、顔を歪ませた。
「どうして……どうして嘘つくのっ!? 遠くに行っちゃうっていうのも嘘なの!? 私のこと嫌いになったの!? だからそんな、私のことなんて遠ざけようとして、そんな嘘をっ……ひどいよ……!」
案の定シエラは怒り狂った。嘘をつかれた。親友だったはずなのに、隠し事をされた。そんな些細なことでも、導火線に火をつけるには十分で。
「そ、それは悪いと思っている。お前と私は親友同士で、私は、お前と過ごすのを楽しいとたしかに思っていて」
「……それも嘘なの?」
「違うッ!!」
「じゃあ何を信じればいいの!?」
「私なんて嘘ばかりだ。お前に本当のことを話した数の方が、偽りを述べた数より少ない」
「っ」
「それでも、お前のことが大事なんだ」
「そんなの……信じられないよ……」
「好きだ、シエラ・ミネルヴァ」
信じてもらえなくても、それだけは真実だった。
「私だって、好きだよぅ……好き、だけど……」
煮え切らないのは、無条件に信じることができなくっているから。
けれどもせめて、この気持ちだけは信じて欲しくて。
「どうすれば信じてもらえる?」
「ならもう、私に嘘は吐かないで」
「そんなことでいいのか」
案外呆気なかった。その程度なら、いくらでも。
気の抜けた声で尋ねれば、シエラはぷくりと不機嫌そうに頰を膨らました顔で私を射抜いた。
「シャルちゃんにとってそんなことでもっ、私には大事なことだからっ……」
「……わかった。もう、私は自分を偽りはしない」
「じゃあもう、遠くに行くなんて言わない?」
「それは……」
それは、難しかった。
「側にいてよ……やだよ、どこにもいかないで」
腕を回され、抱きしめられるが、どうしようもなかった。
どうしようもないが、ほんの少し希望がある道筋もあるにはあって。
「わかった、側にいる」
「うん……!」
私の胸元を涙で濡らしていたシエラを撫でて、そっと決意する。
––––もう一度、『組織』へ向かおう。
赦しを乞い、罰を受け、また『組織』へ入れてもらえるように懇願する。
どんな苦痛を受けようと、シエラの側にいられるように。
****
「どの面を下げて戻ってきたんだ」
焦げ茶の元へ向かうと、案外簡単に通してもらえた。
これなら『組織』へ戻ることも、もしかしたら。
そう考えていたところへ、先の冷たい声がかかった。
「『組織』に、いさせてほしい」
「ダメだ」
土下座しても、そこにプライドが伴っていなければ大した価値はない。プライドを早くに捨て、ゴミ箱を漁っていたスラムの孤児ならば、なおさらに。
冷たく切り捨てられようと、私は構わず縋った。
「どんな罰も受ける。不正な薬剤の実験台にでもなんでもなってやる。指も臓器も目玉も惜しくはない。だから……シエラを、殺すのだけは……!」
怖くないといえば嘘になる。体の中身をイジられるなんて、考えただけで鳥肌が立つ、が。
『シャルちゃん、だいすき』
シエラの笑顔を思い浮かべれば、手の震えは収まった。
しばらく書斎は沈黙に包まれ、そして焦げ茶は何事か呟いた。
「––––聞きましたか、ボス」
「––––あぁ、聞いたともさ、ブラックティー君」
「は……?」
書斎内の、正面とは別の扉が開き、そこから白いスーツの初老の男性が入ってきた。
コードネーム・ホワイト。この限りなく暗い裏社会の中で、『白』を主張する異端者。
『組織』のボス、その人であった。
「君が、シエラ・ミネルヴァに入れ込んでいることはもう把握している。君は、彼女を生かすためなら何でもするというんだね?」
何でも、の定義は人それぞれだが、この組織内に於いては統一して『己の全てを明け渡す』という意味にすり替わる。
そこは呪縛への入り口だ。この先、私に自由な時間は決して戻ってこないだろう。
けれど、躊躇はしなかった。
「……はい。なんだろうと」
「そうか。では、今回のことは不問にする」
「……は?」
変なことを言われた気がして、私はカーペットに擦り付けていた顔をつい上げてしまった。
「ターゲットを殺める必要は、無くなった」
ボスは、笑っていた。
「は?」
「今回君に当てた任務では、シエラ・ミネルヴァ……つまり、かの敵対組織の親玉であるクロス・ミネルヴァのご令嬢を暗殺し、戦意を喪失させ、その間に取り込む算段だった。しかしだね、我が組織の暗殺者が、ご令嬢の友人として側にいると遠回しに脅したら、快く、自分の勢力を明け渡してくれたよ。いやはや愉快なお人だ。娘と親しくしてくれているからと、急にペコペコ頭を下げてくれたね。つまり、かのご令嬢は、殺すよりも生かして君のそばに置くことが有用であると判断された。……ねぇ? シエラ・ミネルヴァの親友さん」
「な、何ですか」
「君が次に裏切ることがあったなら、その時はシエラを殺す。謂わば彼女は人質だ。君が我々に今一度忠誠を誓えば、シエラに手を出すことはないと誓おう。これで、我々はまた契約関係。元どおりというわけさ。どうだい? 君は、それでも『組織』に戻ると?」
私に選択の余地はない。そうわかりきった上で、ボスは私に尋ねた。
シエラが敵対組織の親玉の娘だとか、もう勢力吸収したから用済みだよー、とか。頭の中はパンク寸前で、まともな考えは練り上げられそうになく早々に思考を放棄した。
「……シエラと、ちょっと相談してきます」
結果、それがその場で唯一頭に浮かんだ、私の意思であり妥協案だった。
「うん、それがいい。良い結果を待っているとも」
ボスは、今一度悪魔のように笑った。
****
「シエラ」
裏庭で一人寂しげに昼食を食べているシエラへ、私は優しく声をかけた。
すぐに彼女はこちらへ顔を向け、パァっと花開いたようにいじらしく笑った。
「シャルちゃんっ! シャルちゃんのお父さんって、私のパパとお知り合いだったんだね!」
「は?」
急に謎の話題を振られて、私は困惑した。
シエラにまで、もう話は伝わっているということだろうか。
「パパ言ってたよ! シャルちゃんの引っ越しの件は無かったことになったから、これからも末永く仲良くしなさいって。ね、シャルちゃん。これって親公認ってことだよね?」
「は?」
何だ、私の知らないところでどれほど話が進んでいるというんだ。
しかも親公認とはどういう意味だ? シエラのパパさんは喜んで彼女を人質として委ねると言っているのか? 愛娘だろう? 不安ではないのか?
「大好きだよ、シャルちゃん……だーいすき」
「あ、ああ。私もだ……?」
「ふへへ……じゃあ絶対結婚しようね♡」
「お、おう……?」
何だか話の流れがおかしい気がしたが、シエラが可愛いので別にどうでもいい気がした。
それから彼女は私の人質となり、いつのまにかお嫁さんになっていたのだが、それに関して別段特筆するべき事柄はない。一つ言えば焦げ茶が感極まったように咽び泣いていたのが印象的だった。
『組織』はと言えば無事、敵対組織を傘下に取り込み、勢力を増した。シエラが私の嫁ならばこの先も安泰だという。よく意味がわからない。
そして私とシエラは何事もなく生涯を全うし、二人一緒に幸せに暮らしましたとさ。
「どっちがお嫁さんかなぁ……どっちかというとシャルちゃんは王子様だよね。なら、私がお嫁さん? ふへへ、二人ともお嫁さんでも素敵かなぁ♡」
「何を言っているんだシエラ」
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