逆巻く感情
(…しまった…)
そう思うクーラだが時すでに遅し。しかもそこでまた反射的にしてしまった舌打ちを,エリィは自分へのそれと誤解してしまったらしい。ぴくりと身を震わせる。
重ね重ねの己の迂闊さを呪いながら,クーラはこの望ましくない事態を収束させるべく思いを巡らせようとした。
「…ごめんなさい」
「…!」
だがエリィの次の反応が,クーラを突き動かしたその感情をさらに増幅させる。
(…ちぃっ)
用意してきた幾つかの案は既に使い物にならない。辛うじて使えそうだった幾つかもさっきの失言で吹っ飛んでしまった。
だがどの道エリィのこの有様では,それを使用可能の状態に復旧する事もかなうまい。得体の知れないこの感情のせいでかなり冷静な判断が狂わされているような気もするが,ともかく残る手段は一つだと,そうクーラは判断した。
「これが”純白の舞姫”ですか?全くの腑抜けではありませんか。やはりいつの世も,武勇伝などというものは派手に尾ひれがつくものなのですな」
目いっぱい呆れたようなしぐさを演出しながら,クーラは強い語調で言う。
「えっ…」
ほんの僅かに,驚いたような表情に変わるエリィ。その感情の動きが反転して一層の深みに沈み込んでしまう前に,クーラは畳みかけるように言う。
「まったく…”開祖の再来”だなどと言うものだから楽しみにして来たというのに。とんだ期待外れですよ」
「…」
(反応が薄いか…)
という事は,その自覚は本人にもあり,しかもさして重要ではないという事だ。こうなった原因は他にある。
「舞神流の皆伝として,このような有様でよろしいのですか?同門として嘆かわしいですぞ」
「…」
(これも違う…)
「”風”の評判も地に落ちましたな,いや,もともとそれも誇張されたものだったという事ですかな」
「…っ」
そこでわずかに苦悶の表情を浮かべるエリィ。
(だが違う…)
反応はあったが,おそらくこれは核心ではない。瞬時にクーラはそう判断する。
これはエリィが不調となった原因というよりは,不調になった先の結果だ。不調によって迷惑をかけている事への引け目だ。
しかしここを刺激し続けても効果は薄いだろう。ここが核心ならば,とっくに状況は改善している筈なのだ。
(自身の事よりも仲間の事か…となれば…)
考えられる原因は一つしかない。今ここに居ない”紅き流星”だ。
(結局バクチか…)
ここまでは,諜報部の用意した資料を頭に入れていれば大きな間違いも無く言える事だ。だが失踪して久しい”紅き流星”に関しては,当然何の情報も無い。
(しかし…やるしかあるまい)
初手のしくじりがなくとも,原因がそこにあるのであれば結局は賭けに出るしかない。
「なるほどこれでは,”紅き流星”が愛想を尽かすのも頷ける…」
意を決してクーラはそこへ踏み込んだ。
「!」
大きく目を見開くエリィ。
「なっ…」
「ちょ…」
いや,彼女ばかりではない。ハーディとフレイアも唖然とする。
そのまましばらく,辺りに沈黙が流れる。
「お主っ,戯言も大概に…」
「待て」
我に返ったハーディがくってかかろうとするが,ノエルがそれを制する。
「盗賊の…?」
「…」
目を丸くするハーディへ黙って首を横に振ってみせると,ノエルはちょい,と顎でエリィを指す。
(どうやら,当たりか…)
無言でうつむくエリィ。しかしその気配には徐々に怒りの色が浮かんでくる。
「…あなたに,彼の何が分かるって言うの…」
「分かりますとも」
そうは言っても,実際のところは何も分からない。慎重に言葉を選んでエリィを煽るクーラ。
「分かるはずが無い!彼がどんな気持ちで…!」
顔を上げ,きっとクーラをにらみながらエリィは叫ぶ。
「では貴女ならば全て分かると?それが貴女の思い込みでないとどうして言えるのですか?」
「…!!」
ぎりっ。エリィが歯を食いしばる。
「もう,彼の心はここにはありますまい」
段々と話が見えてきた。流れから考えて,エリィは”流星”を待っている。おそらく二人の間には交わされた何らかの約束があるのだろう。そしてそこには,深い信頼関係が築かれている。
とすれば話は簡単だ。もっとも繊細で根源的なそこを,できる限り無神経に,というよりは狙いすまして的確に,逆撫でしてやれば良い。
「撤回しなさい…私はともかく,彼を侮辱するのは許さない…」
どこからそれほど湧いて出たのか,エリィを満たす怒気が,今度は徐々に殺気に変わっていく。
「ははは…」
軽薄な笑いを浮かべて肩をすくめて見せるクーラ。しかしそれはあくまで表面上の事。さすがに腐っても舞神流皆伝,尋常ならざる威圧に背筋が凍る。
「話の流れとしては,許さないならどうするのです?と言うべきところなのでしょうが…無理は止した方が良いですな。万全ならばともかく,今のあなたがそんな事を言ってもただの大言壮語に過ぎません」
「大言壮語かどうか,その身を以て知るといいわ…」
ずい,と一歩前に出るエリィ。先ほどとはまるで別人,と思わせるほどの気力がみなぎる。
「乗り気の所申し訳ありませんが…」
すい,と一歩退きながらクーラは言う。
「私は無駄な事はしない主義でしてね。今の周りの見えない貴女につきあっても,貴女の陳腐なプライドとここにある調度品を粉々にするだけ。私にとっては何のメリットもありませんな」
「偉そうな事を言って,あなたが逃げるつもり!?」
「結果が見えている以上,闘るだけ無駄だと言っているのですよ」
そこでさらにすいっと退いて距離を取りながら,言葉を重ねるクーラ。
「逃がさない…」
ぽつりとつぶやいたエリィは,クーラを睨みつけて言葉を継ぐ。
「あなたに舞神闘を申し込む。あなたも舞神流の門下ならその意味は分かる筈」
「舞神闘ですって?正気ですかエリィ殿?」
心底驚いたふうを装って言うクーラ。だがそれは狙い通りの展開だ。
「今更怖気づいたの?でももう遅い…」
「逆ですよ,逆。そうでもしなければ私にメリットが無いと分かって頂けたのは嬉しいですが…貴女にとって取り返しのつかない事になると言っているのです」
「…!」
舞神闘とは舞神流の同門内でのみ行う事ができる特殊な決闘方法であり,通常の決闘との決定的な違いはその強制力にある。
まず申し込む側が,勝利した場合に相手に飲ませる要求を宣言する。受ける側は,その宣言の前ならば拒否することができるが,宣言された後に拒否することはできないとされている。その禁を破った者は破門となり,一生その汚名を背負う。
「ほんとうに,よろしいのですか?条件を言ってしまえば,引っ込みがつかないのですよ?」
実際の所クーラにしてみればそんなものは痛くも痒くもない。彼が重きを置くものは軍籍としての地位や名誉でも武道家としてのそれでもないのだから当然だ。だからクーラのその言葉には,その事情を知る者ならばそれと分かる申し訳なさの響きが混じっていた。
「それはこちらの台詞よ」
しかしそんな事など露ほども知らないエリィは,負けるつもりもやはり微塵も無いのだろう。クーラを逃がしはしない,その一念でより深みへとはまり込む。
「私が勝ったら,土下座をして謝りなさい。そしてその後,二度と私たちの前に姿を現さないで」
「…良いでしょう。そこまでの覚悟ならばお相手いたします。では…こちらの要求を宣言してもよろしいですか?」
「構わないわ」
「では…」
クーラは,無論演技ではあるが,ニヤリと笑って言葉を繋ぐ。
「私が勝てば,私がもういいと言うまで,私の命令に絶対服従してもらいますよ?エリィ殿」
「!」
再び場が凍り付く。
受ける側が申し込む側の要求を了承した場合,今度は立場が逆転する。受ける側が勝利した場合に相手に飲ませる要求を宣言するわけだが,やはり宣言後に拒否する事は禁忌とされているのだ。
開祖がそれを行った事を発祥として今に語り継がれるこの舞神闘であるが,現実問題としてはそのあまりの無茶な強制力とメリットのなさゆえに,記録として残っている限りでは実施例は皆無なのだ。
「いいわ,それで」
「…潔いですな。覚悟だけは”開祖の再来”の称号に偽りなし,と言ったところですか」
ふぅ,と息を吐いて肩をすくめて,クーラは言う。
「どうせ実現しないもの。あなたが土下座をして私の前から消えるだけよ」
「そうなると良いですな。では場所を変えましょう」
もう一度肩をすくめ,エリィの脇をすり抜けるとクーラは入口へと向かった。すぐ後ろをエリィがついてくる。走って逃げるなど許さない,そんな事を思っているのかもしれない。その歩みは食堂へ入ってきた時とは全く違い,しっかりと地を踏みしめている。
そのエリィのさらに後ろから,”風”の面々もついてきているようだ。当然の事ながら止めようという空気は無い。いかに不調とはいえエリィは皆伝。条件を聞いた時はさすがに驚いたが,その本気についていける者などそうそう居るものではないし,居たとしてそんな者がたかだか大尉止まりのわけがない。おそらくそう考えているだろう。
その思考の隙を衝く。決して楽ではないが,勝算はゼロではない。
(どの道後はないのだ。やってみるさ…)
クーラは訓練室の扉を開けた。