原点
(なっ…!)
シャルルはまたも,己の迂闊さを呪った。
大魔道は渾身の一撃を,成り行きを見守っていたエリィに向けて放ったのだ。
それはあるいはお約束で,エリィと姉姫を取り違えていただけなのかも知れない。つまり散々帝国の邪魔をしたのはアリシアで,大魔道はあの晩と同じく,その元凶である女王を亡き者にしようとしただけなのかも知れない。
だが一方では,やはり狙いは伝説で,女王を見捨てるはずがない,必ず庇うはずだ見越して確実に命中させようとしただけなのかも知れない。またあるいはもろともに葬ろうとしたのかも知れない。
しかし当然のごとく,今の彼にはそんな悠長な事を考えている暇はなかった。
(〈紅の章三〇!改ッ!最大出力ッ!〉)
みしり,と何かが軋むような不吉な音がシャルルの脳裏に響く。あくまで感覚的なものに過ぎないのか,それとも物理的にどこかが壊れそうなのか。だがそれすらも今の彼にはどうでもいい事だった。
既に暗黒洞の効果範囲に捉えられ,跳び退って逃げるどころかそれに引きずり込まれるのを必死に堪えるしかないエリィ。そんな彼女にさらなる絶望的な力を及ぼしつつ迫る暗黒洞。シャルルはさながら二つ名の如き紅き流星となってその両者の間へと割って入る。
「くおっ!」
エリィをその背中で支えながら,シャルルは騎士の剣を暗黒洞へと突き出す。
理屈としては暗黒洞は穴だ。だから合理的に考えれば,切っ先はそれに吸い込まれるはずだ。だが騎士の剣はシャルルの力を吸って輝き,暗黒洞をその先端で押しとどめる。その接点からはお互いの力が火花のように飛び散っている。
「ぐ,う…」
シャルルの顔が歪む。
【紅龍】は原点をなぞっているという呪文の性質上,上限が三倍と設定されている。それは”紅き流星”という性格付け上,絶対に破るわけにはいかないこだわりの部分だ。
だがそれはかつて漆黒将軍に完膚なきまでに叩き潰された。倍掛け,つまりは【紅龍】に【紅龍】を重ね掛けするという苦肉の最終手段までは使わなかったが,それはむしろ使う暇もなくやられたと言った方が正しいのだろう。
その弱点に対処するため生みだされたのが改だ。簡単に言えば,相手の攻撃に対処できるレベルまでの重ね掛けを自動で制御するための後付け設定である。出力の上限を設定できるようになっているが,最大で使った場合には自分の能力限界が一応の上限となる。
つまり今シャルルは全力で暗黒洞を止めにかかっているわけで,止まっているということは彼の能力限界以内に収まっていることを意味しているわけだが,問題は余力が二パーセントしかない,つまり止めるだけで精一杯ということだ。
しかも,本当にそれで間違いないのかも不確かなのだ。彼の頭にはみしみしと,先ほどの不吉な音が間断なく響き続けている。
ここで大魔道に別の攻撃魔法でも使われたら為す術もなくやられていただろう。だが,救いと言えるかどうかはともかくとして,どうやらあちらもこの暗黒洞の維持に全精力を傾けているらしかった。次から次へと力が流れ込んできているのが,騎士の剣を通してシャルルの手に伝わってくる。
(く…)
これでは不毛な持久戦だ。となれば,いくら伝説を背負っているとは言えこちらは所詮いち個人,邪神の力と真っ向から削りあって勝てるとは到底思えない。
(だが…)
今の自分は爆弾を抱えている。致命的な領域へと踏み込んでしまえば,待っているのは破滅だ。そんな思いがシャルルに二の足を踏ませる。
しかし。
「…エリィ?」
そんなシャルルを,エリィが後からそっと抱きしめる。
「私の力を使って…」
間髪入れずに斜め上の事を言い出すエリィ。
「!?」
そんな呪文は作っていない。それとも何か,アリシアの女王にはそんな能力が備わっているとでも姉から聞いたのか?狼狽えるシャルル。
(なにっ…!?)
さらに驚くべきことに,彼女から何かが,自分の身体へと流れ込んでくる感覚に襲われる。いや,正確には,自分の身体を通って騎士の剣へと流れ込もうとしているような感覚に襲われたのだ。
(これが,伝説の武具…!)
アリシア王家の至宝とその血脈に連なる者,そこに何らかの誓約のようなものがあるのか?と考えて即座にシャルルはそれを否定する。
要は騎士の剣が相当なへそ曲がりだということだ。ただ単に龍戦士の力を際限なくつぎ込んで反則級の出力を実現させるに過ぎないのだろう。それが龍戦士そのものであろうとその子孫であろうとお構いなしというだけの話であろう。
落ちてきた龍戦士がご都合主義的にアリシアの女王と結ばれていくからアリシア王家の者にはその力が眠っているというだけで,有資格者に当たる確率の問題でアリシアに保管されているだけに過ぎないのだろう。
だが今はそんなことはどうでもいい。
「ありがたく,使わせてもらう」
にやりと笑ってシャルルは言うと,気持ちだけな,と心の中で付け加える。
彼女の言葉は自分に原点を思い出させた。自分がなぜ今も生きているのか,何のために生きているのかを再認識させたのだ。
(〈紅の章九九,【限界突破】ッ!〉)
強制的にすべての制限を解除し,力の出し惜しみができないようにするシャルル。バキンッ!という何かが壊れるような音が脳裏に響くが,それは壊れたというよりはむしろ自分でぶっ壊したと言った方が適当だ。
シャルルはすべてを騎士の剣へと流し込む。いや,そちらもすでに流し込むなどという生易しいものではなかった。使い切れるものなら使い切ってみろと言わんばかりに,強引に詰め込んだという表現の方が正しい。それはエリィの力が剣へと流れ込むのを阻止する目論見でもあった。
騎士の剣の切っ先から圧倒的な力が迸る。
シャルルはさらに,剣を握った手とは反対の足を一歩踏み出した。
「あ…っ」
そのさまは,軽く添えられていた程度のエリィの腕をするりと抜けて,と表現するのが正しいだろう。万が一にも彼女の力が剣に流れ込むのを物理的に阻止しようという意図も確かにそこにはあった。
「うおおおおっ!」
結果,肘を折りたたまれる格好になっていたその腕を,気合もろともシャルルは突き出す。
巨大な力同士がぶつかり合って周囲に飛び散るが,それは僅かな時間だった。邪神そのものが相手ならば勝負は判らなかったが,言ってしまえば結局は相手も蛇口に過ぎない。もともとの力の大きさではこちらが上だ。向こうがなりふり構わぬ全開の状態であっても,こちらは蛇口を壊している。
せめぎあいに敗れた暗黒洞は,元来た方向へと跳ね返された。
「おのれ,伝説…」
大魔道の断末魔の叫びは途中で暗黒洞へと飲み込まれ,力の流入源を失ったそれ急速に縮小しながら上空へと飛び去る。
(…なんだ…?)
違和感を感じるシャルル。確かに大魔道の身体の質感とでも呼ぶべき感触は,暗黒洞に飲まれて消失した。だがその意思とでもいうべき存在感が,直前に身体から離れて別の方向へと飛び去ったように感じられたのだ。
より正確に言うなら,何か別の意志のようなものが飛んできて,大魔道の魂だけを消失寸前で救い出したかのように感じられたのだ。
しかしやはり,そんなことを悠長に考えている余裕は彼にはなかったのだ。
「!」
当然の結末ではあったが,すべての制限を解除された彼の力が暴走を始める。
(〈紅の章一〇〇…ッ!〉)
すぐさまシャルルは強制制御の呪文を起動しようとする。要は無理やり封じ込めてしまおうという呪文で,すべての他の呪文に優先してすべての魔力をつぎ込む仕様になっている。つまり暴走してしまった力までもすべてそこへ突っ込んで,相殺してしまおうという目論見なのだ。
(く…!)
だが悲しいかな,彼の思惑通りに事は運ばなかった。
暴走した彼の力は,文字通り暴走していたのだ。それを魔導書の呪文で制御しようとすることは,振り切れてしまった感情を理性で抑え込もうとしているに等しい。もちろんいくらかは効力を発揮してはいる。しかしただそれだけでしかない。
すぐ傍に居たエリィは,当然のごとくその異変を感じ取っていた。
「シャルル…!?」
力の奔流に圧されて二,三歩後ずさっていた彼女は,ぐっと四肢に力を入れてそれをこらえ,自らの騎士を繋ぎ止めようと手を伸ばす。
「!」
だめだ。それをさせてはいけない。そう直感したシャルルは即座に後ろへ跳んだ。