大きすぎる借り
どうやら,赤心将軍の像はずっと機を窺っていたらしい。
おそらくは大魔道ルマールから,連合の首脳部を確実に潰すよう指示が出ていたのだろう。
だから本陣が広場へとやってくるのを待った。そして,副将たちの像に仕掛けさせ,そちらに注意を向けさせての一撃必殺を狙っていたのだろう。
誤算だったのは,真っ先に屠るつもりであったアリシア女王が特定できなかったこと。
格好も気配も全く同じエリィの存在は,裏事情を知らない者から見ればまたとない高性能の影武者だ。
そして,赤心将軍は慎重な観察のうえに,エリィをアリシア女王と判断した。これは二人の立ち回りが決定的な判断材料となったのだろう。
姉姫は即座に馬を降りて後方へと駆け,ほとんど瞬殺と言っても過言ではない圧倒的な内容で巨像兵士を無力化し,そのまま次の獲物を求めて駆けた。付き従っていた腕利きがそれを早々に切り上げて転進したのも大きく影響を与えただろう。
対してエリィは,攻撃をノーブルの呪文に頼り,遠い間合いで回避と陽動に専念していた。だから赤心将軍は,女王として振舞っていたのが実は腕利きの影武者で,影武者として振舞っていたのが本物のアリシア女王と断定したらしい。
それが後で状況を分析したノーブルの推論である。戦闘中にもかかわらず不用意に気を抜いてしまったのが決定打となったのではないか,との見立てはエリィの表情をこの上なく苦いものとした。
しかしその時は当然,そんな事を考える余裕などありはしなかった。
「…!」
己の迂闊さを呪う事すら,その時のシャルルにはできなかった。あり得ないものを見た驚きが彼の思考力を悉く奪い去ってしまったのだ。
巨像兵士はエリィに向かって剣を薙いだ。だがそれを上回る速さで,逆方向からエリィに向かって駆け込む者がいたのだ。
(何をする気だアラ…アラウドだと!?)
視覚は確かにそれをアラウドと認識していた。だがこれまでの印象がそれを否認する。
重厚な鎧に身を包む巨漢の戦士。新調した大剣に至っては,軽量化の魔法に頼ったことでさらに大きく重くなり,本来的には先代の三倍の大きさと九倍の質量を持っている。
そんな重戦士のアラウドが,舞神流皆伝のエリィすら全く反応できない速さで飛び込むなど信じられるわけがなかったのだ。
「!?」
瞬時に片手でエリィの頭を押さえ,身体でその背中を押し込みながらもう片方の手で彼女の足を刈るアラウド。
刹那のうちにエリィはうつ伏せに倒され,うなりを上げて迫る剣の軌道から逃れる。
頭を押さえられていなかったら間違いなくエリィはむち打ちになっていただろう。彼女の視界は突然地面へと切り替わったはずだ。
「う…っ!」
しかし。エリィをかろうじて救ったアラウドは,自身はそれを躱すだけの余裕が無かった。
姉姫や自分のそれとは比べ物にならない音が背筋を戦慄させ,薙ぎ払われるはずだった剣が大きく失速する。そして完全にカウンターを食らった格好のアラウドは,やはり先ほどの自分とは比べ物にならないダメージを受けて吹き飛ばされ,これまた石壁をぶち抜いて屋内へと姿を消す。
「ア…」
叫びかけたシャルルだが,その時彼の耳の奥で甲高い音が響いた。
(これは…)
「呼んだか?」
「うおっ!?」
いきなり背後から声がして,驚いたシャルルは振り返る。あの時と同様に知覚が現実の境界を飛び越えているため,いまだ回復しきれていない肉体が足を引っ張ることもない。
「アラウド…やはり龍戦士だったのか」
そこには腕組みをして仁王立ちするアラウドの姿。
「いや,アラウドは間違いなくこちらの者だ」
意味深な事を言い出すアラウド。しかし今はそれは些事だ。
「何でこんな真似をした!」
「何で?何か変な事をしたか?」
どこか皮肉めいたような,しかし楽し気な笑みを口の端に上せてアラウドは問い返す。
「とぼけるな!何でお前が自分の身を犠牲にしてエリィを庇う!?」
そりゃ,助かったのは間違いないが,と自分にツッコミを入れかけて,シャルルはそれを振り払って続ける。
「クローディアはどうするんだ!お前を待っていたんじゃないのか!?」
「そうだな,一時はそれでも良いかとも思ったが…」
アラウドは遠い目をして,しかし首を振る。
「お前に借りを返すのが先だった。ただそれだけだ」
「借り…?俺がお前に何を貸したというんだ!これだけの事を引き換えにする貸しなど…!」
まったく心当たりがないぞ,と言いかけて,しかしシャルルはアラウドの皮肉めいた笑みにそれを遮られる。
「借りただろう?CDを…」
「…は?」
アラウドの口から飛び出した意味不明の言葉に頓狂な声を上げるシャルル。いや,言葉の意味は解る。アラウドの口から飛び出すような言葉ではあり得なかっただけの話だ。
「結局,返せずじまいだったからな」
「…!」
そこで不意に呼び起こされる記憶。そうだ,あれはトカゲにやられて寝込んでいた時に見た記憶。グレイマンに殺されて,休み時間に,CDを受け取って,その後腹が…。
(いや,待て…)
それは記憶じゃない。夢だ。実際には形見のつもりで貸したままにしたのだ。それで終わったつもりが,何の因果か自分はこっちへ…。
「…まさか!?お前!」
ハッとするシャルル。
「何の因果か知らんがな。まさかこっちで再会するとは思わなかった」
ニヤリと笑うその仕草が,確かに彼を彷彿とさせる。
「何がどうして…いや…」
そんな事を聞いたところで答えが得られるはずもない。そもそも根本は解らない事だらけなのだ。
「この身体は,すでに死んでいる」
「…そういう事か」
何でもありの根本さえ飲み込んでしまえば,枝葉の理解は早い。
おそらくは魂だけがこちらへ来て,たまたまその場にあったアラウドの骸を依り代としたのだろう。
今戦っていたのがまさに巨像を依り代とした龍戦士の魂なのだから,どんな理屈でそうなったはともかくとして,現象としては起こり得る事だ。
で,依り代であるアラウドの記憶をたどることができたために,そのままアラウドとして”風”へと戻ってきたのだろう。落ちてきた自分とご同様,他に何をやるあてもつもりもなかったのだろうから,それも当然だ。まさかそこで元の世界の友人に再会してしまうとは,運命の悪戯というほかはない。
しかしそれにしても,だからクローディアにあんな態度をとっていたのか。不自然な態度が腑に落ちる。それほど深くない間柄と言うと語弊があるのかも知れないが,”風”とならばさして問題なく付き合い続けていけたのかも知れない。だが将来を誓い合ったともなれば話は別だ。悪戯のおかげで余計に話がややこしくなったのも事実だが,かなりの心痛ではあっただろう。
ザザッ,とそこで世界が乱れる。
「く…しかしなぜ…」
小一時間ほど問い詰めたいいろいろを許してはもらえないようだ。一番肝心なところだけでも,そんな思いでシャルルは口を開く。
「たかが…Dひとつでというのも虫の良…だったが,…が逝くのを止めら…った」
「!」
そういう意図があったのか。ハッとするシャルル。
道理で唐突に,半ば強奪のような格好で借りていったはずだ。
「し,しかし!だからといってこれほどの…」
「…こち…生…うと思った…を…今度は,逝か…しない…」
「!!」
あの夜の情景が蘇る。だからエリィを,つまりは俺をこの世界へ繋ぎ止める錨を護り抜こうとしたのか。クローディアがあらぬ誤解をしてしまうほどに。エリィが困惑してしまうほどに。
「ばかやろう…」
たったそれだけのために,お前はあれだけのことをしたというのか。
つまりそれだけ,お前は心を痛めたというのか。
フンと,鼻で笑うアラウド。お返しだ,今度はお前が置いてけぼりを食え,とばかりの渾身のドヤ顔が大きく乱れる。
「さ…だ,…星”よ。征け…を」
「…!」
もはやほとんどまともに聞き取れないが,その意味を取り損ねる事はなかった。
お約束の決まり文句。こちらでもあの夜に一度かけられた言葉だ。
そして世界は,シャルルにいかなる返事をもする間を与えず,唐突に終わりを告げる。
「姫っ!ここは慎重に…!」
その目に元の風景が,その耳に音が,そしてノーブルの声が飛び込んでくる。
「お節介め…」
それだけを呟いて,シャルルは眼前の危機に意識を切り替えた。