仮面の計略・前編
その日。
アリシア第三軍軍団長にしてアリシア軍の最高責任者も務めるギルバートは,期待と不安のないまぜになった心を少しでも落ち着けようと苦労しながら,トルサ司令部の一室に居た。
アリシア王城の方角を見やりながら忸怩たる思いに身を焦がしていた彼の所へ一通の書状が舞い込んだのは,今から一日半ほど前の事だった。
それを届けたのがエリティア兵だった事もあり,当初いつもの事務的な通達だろうと思っていたギルバートは,それを裏返して驚愕した。
そこには,行方が分からなくなって久しいクマルー卿の署名があったのだ。しかもそれはクマルー卿が極秘に連絡をする時に使うものであり,事情を良く知らない者が見てもそれとは分からない暗号になっている。
なぜそんなものをエリティア兵が,という疑問をギルバートはすぐに頭から追い払った。敬愛する叔父ならば無意味にそんな事をするわけが無い。きっと何か訳がある。彼はすぐさま人払いをして,封を切った。
果たして。その内容は,十分心の準備をしていたはずの彼すらも大いに驚愕させた。
帝国が”純白の舞姫”に必勝の攻勢を阻止された直後,その間隙をついてクマルー卿が単身アリシアへ潜入,
女王ユーリエを脱出させることに成功させていたとそこには書いてあった。防衛システムが帝国に掌握されているという事への多少のひっかかりはあったものの,それがなければその程度はクマルー卿にとって容易い。きっと上手く行ったのだろうとギルバートは判断して先へと読み進めた。
帝国は影武者を立てて公式にはそれを生かし続けているという形をとりながら,極秘にそれを捜し出さんとしていたようだ。何度かきわどい場面もあったが,女王の身の安全は保てている,と文面は続く。
帝国には何らかの手段で攻略されてしまったようだが,元来防衛システム以上に安全な防衛体制などこの世界のどこにもありはしない。そう信じて疑わないギルバートにとっては,その帝国の必死の捜索をかわし続けたクマルー卿の努力は察して余りあるものだった。なるほどこちらへ姿を見せる余裕もあるはずが無い,機密の漏洩を避ける意味で連絡を控えるのもうなずける,と理解した。
多少驚いたのは,ユーリエが武道を修練したというくだりだった。おそらく事情を知らないアリシア将兵は,そう聞かされれば天を仰ぎ地に伏して慟哭するだろう。自分達の不甲斐なさと主君の不遇を嘆くだろう。
しかし彼は知っていた。ともに過ごす時間が多かったためにごく自然に気づいた事でもあり,クマルー卿からも内々に伝えられ口止めされていた事でもあるが,実は彼女にはほとんど魔法の才が無いのだ。
自分の身を自分で守るためにはいきおい魔法以外の方法に頼るしかないという事も分かっていた。だから,むしろ彼の驚きはどちらかといえば快哉に近かった。防衛システムを攻略した帝国ならば生半可な魔法の力だけでは到底身を守るのは不可能,そんな理屈をつけて禍を転じて福と為す。転んでもクマルー卿なら絶対にただでは起こさない,起こさせない。彼はそんな思いでさらに先へと読み進めた。
女王に武芸を仕込んだのはあの”純白の舞姫”だという。なるほどそれで彼女は最近鳴りを潜めていたのかとギルバートは納得した。そして,優れた師と類まれな素質がこれほどの短期での修得を可能にしたのだろうと了解した。
ここまでなら期待だけで済んだかも知れない。だが次に書かれていた事は彼を大いに不安がらせた。
後のなくなった連合は四王家の総決起を目論み,アリシア女王ユーリエにも旗頭へ,表舞台へ立って欲しいと要請してきたようだ。しかし彼女には現在,ある深刻な秘密と弱点とがある,とクマルー卿は書き綴る。表へ出る事で女王の身に深刻な被害が出るかも知れず,そのあたりを見極め善後策を協議するため極秘裏にトルサへ来て欲しい,文面はそう締めくくられていたのだ。
ギルバートはすぐさま行動を起こした。その目的を伏せたまま半日で後事を託す手続きを取ると,すっかり夜更けとなったマヒロを出立。夜通し馬を駆けさせて,日が高くなる前にトルサへたどり着いた。
彼としてはすぐにでもユーリエに謁見したかったが,当のユーリエが到着し身支度を整えるまでにはまだ時間を要すると言われ,若干の仮眠を取り身を清めて今のこの場へ臨んでいた。
「!」
ガチャリと音を立てて,二間続きの奥の間との間を隔てる扉が開く。反射的に椅子から立ち上がるギルバート。
一礼をして入ってきたのはゴーグルをかけたエリティア軍人ふうの男。
「アリシア第三軍軍団長,ギルバート殿ですな?私はエリティア軍大尉,ガイナット=クーラ」
「ギルバートです」
それだけを答えるギルバート。ユーリエがいきなり自分で入ってくるわけも無いが,やや肩透かしを食らった格好で落胆が表情の端に現れる。
「…少々確認をさせて頂きたい。今回の件は最重要の機密です。よもや余人に…」
「その辺りはご安心ください」
真剣な表情で力強く頷くギルバート。
クーラはそんなギルバートの脇を抜けて入り口の扉に鍵をかけ,また元の場所へ戻ると口を開いた。
「…ではこちらへ」
「…」
ごくり,と唾を飲んで,そちらへと歩み寄るギルバート。
「ギルバート,入ります」
声が震える。久しぶりに見る従妹は,主君はどんな姿を見せるのか。
無言で入り口に控えるクーラの前を通り,入室したギルバートは,そこに一人の女性が立っているのを認めた。
「…ユリ…エ様っ!」
ギルバートは思わず,ここが秘密とはいえ公式の場であることを忘れて私的な呼び名を使いそうになり,やっとのことで取り繕う。
簡素ではあるが上品なドレスに身を包み,物憂げな表情でややうつむきがちにしていたその女性は,驚いたようにこちらを見る。
「…ギル…バート殿…」
それは向こうも同様だったようだ。それでまたギルバートの感情に歯止めが効かなくなる。
「ええ!ええ!ギルです!ユーリエ様!よくぞご無事でっ!」
大急ぎで駆け寄り,その手を取ってギルバートは叫ぶ。
「申し訳ありません,ギルバート殿…辛い思いを…させてしまって…」
困ったように申し訳なさそうに言う女性。
「とんでもありません!ユーリエ様の方こそ,ご苦労を…このような傷だらけの手に…」
「それ…は…」
「ええ,クマルー卿からの手紙で存じております。”純白の舞姫”の指導を受けて,舞神流を修めたのでしょう?それは…やむを得ない事です」
ちらり,と入り口に控えるクーラを気にするギルバート。ユーリエの秘密については余人に漏らすわけには行かない。
「お顔も…おやつれにというよりは,精悍になったようにお見受けいたします。非常時とはいえ,貴重な体験を経て自信をつけられたのですね」
「そう言って頂けると…報われた思いがいたします」
「で…」
やや落ち着いたギルバートは,またクーラを気にしながら声を落として言う。
「書面には…深刻な秘密と弱点と記されていたのですが,一体何が…」
「それは,私から説明いたしましょう」
「!」
声のした方を見たギルバートは,奥のカーテンの影から出てきた人物を見て顔をほころばせた。
「叔父う…いえ,クマルー卿!」
「久しいですね。評判は風の便りに聞いていました。重責を押し付けてしまっている事,申し訳なく思います」
「とんでもない!卿の最優先の使命はアリシア王族の後見,後顧の憂いなくそれを遂行できるよう努めるのが我々の使命です!それに今もこうして,卿はユーリエ様を護っていらっしゃったではないですか!」
顔を輝かせて言うギルバート。
「…それを言われると大いに心が痛みますが…」
それを聞いて,その人物はちょっと気まずい表情を浮かべる。
「…?どういう事です?」
それと,やはり気まずそうな表情の女性を見比べながらギルバートはきょとんとする。
「そこに,書面でお知らせした重大な秘密と弱点があるのですよ,ギルバート殿」
「…して,その秘密と弱点とは?卿がそう仰るからには,よほど深刻なものと推察致しますが…」
真剣な表情になり,やや声を落としてギルバートは尋ねる。
「ええ。事はアリシアの存亡に関わるやも知れません。いえ,むしろその危険が高いと言えましょう」
「なん…ですっ…て…?」
そこでギルバートはハッとする。
「まさか!?帝国に受けた拷問で,世継ぎを作れない身体になってしまったなどと…!?」
「…」
困ったように俯く女性。
「く…!おのれ帝国!卑劣な真似を…ッ!!かくなる上は一兵卒に至るまで根絶やしに…!!」
「落ち着いて下さいギルバート殿。そうではありません」
「卿…!では一体何が!?」
まくしたてるギルバート。
「実はですね…」
彼の敬愛する叔父は,苦笑しながら言葉を繋ぐ。
「こちらにおわすユーリエ様は,ご本人では無いのですよ」
「…は?」
ギルバートはきょとん,とした表情で二人を交互に見る。理解不能の言葉を浴びせられた所在なさがより一層の悲哀を誘う。
「あの…すみませんギルバート殿…」
遂にそれに耐えきれなくなり,ユーリエに化けたエリィは事前に練習した台本にはない言葉を発する。
「え?ユーリエ様…では…ない…?」
そこで,微妙なアクセントの違いから違和感を覚え急速に思考が覚醒するギルバート。
「お分かりですかな?ギルバート殿」
「貴女は…いったい…?」
「あの…エリィです。”風”の…」
「!?」
今度は別方面に思考がついていけなくなり,目を丸くするギルバート。
「これは…一体…」
「アリシア魔法学院十か条,第一条一項」
「…ハッ!第一条一項!いついかなる時もあらゆる可能性を考慮し冷静かつ合理的に思考を積み重ねるべし!」
反射的に暗唱するギルバート。それによって,飽和攻撃を受けて麻痺していた思考がその場から強制的に引き離され,再起動がかかる。
「…影…武者…?」
(…ほぅ)
成り行きを見守っていたクーラは内心で感嘆する。たったこれだけでほぼ結論にたどり着くとは。俊才の名に偽りは無いと言ったところか。
「まぁ可としましょうか。あの書面の段階で推察してこの場で主導権を握っていれば優,こちらがタネ明かしに入る前に気づけば良でしたが…」
クマルー卿,に化けたノーブルは小さく溜息をつく。
(…)
絶句するクーラ。
「卿!?一体これは…あ,いや…」
問いただそうとするギルバートは,しかしちらりと一瞥したノーブルの視線でその意図を悟る。
「ユーリエ様は未だ帝国の手の内…しかし後のない連合には他に手が無く…前線に立てる影を…」
答え合わせのように一つ一つつぶやくギルバートに,その都度無言で頷くノーブル。
「その為の試金石として,最もユーリエ様に近い私を…」
(これはこれは…)
無論話でしか聞かないが,アリシア魔法学院ではこのような風景が日常的に見られるのかも知れないな,とクーラは思う。先ほど十か条なるものが飛び出した事もそうだが,この二人の間には心なしか何らかの連帯感のようなものが見え隠れしている。
「そういう事です」
ノーブルが解答を与える。
「ですが…卿…これはかなり危険な…」
「あの…」
と,そこでエリィが控え目に口を挟む。
ん?と意識を切り替えたギルバートは,まだ手を握ったままの自分に気づいた。
「!す,すみません!私としたことが…」
赤面しながら慌てて手を離すギルバート。気まずい表情のエリィ。
「やれやれですね」
ノーブルは苦笑した。