その日地球上から一つの魂が消えた。
カーテンの隙間から柔らかい光が部屋へと入り込む早朝。
生物など存在しないかのような静かな部屋に、スマートフォンの着信音が響き渡る。
その音に反応し、一つの影がのそりのそりと動き出した。
手を動かして辺りを探し、ようやく目的のスマートフォンに触れる。
そして着信を知らせるその画面に触れ、指をスライドする。
その瞬間、相手と電話がつながり、向こうから可愛らしい女の子の声が聞こえてきた。
「優ちゃん!もう朝だよー!起きなさーい!」
その声の大きさはあきらかに電話で話す時に出す大きさではない。
毎度のことながら耳がキーンと痛くなる。
そんな元気の良い声に、僕は耳を抑えながらもいつものように軽く返事をし、怠い身体を動かし、ベットから這い出た。
◇
一階に降りると、洗面所へ行き、冷たい水で顔を洗いさっぱりとする。
この時、鏡を見るとそこにはいつも通りの弱々しい顔がうつっていた。
その締まりのない顔を見て、思わず苦笑いを浮かべた後、朝食を作るためにキッチンへと向かった。
兄弟は居らず、両親は数年前に他界。
現在は親戚に生活費を頂きながら、暮らしている。
そのため、一人分のトーストを焼き、卵をフライパンの上に落としてまた焼き、目玉焼きを作る。
焼きあがったトーストにマーガリンを塗ると、良い香りが広がり鼻腔を擽る。
そんなトーストと目玉焼きを皿にのせ、テーブルへと運び、いただきますの声の後、食べ始めた。
カチカチカチ
自分以外誰もいない家。
まだ朝も早いため外からそれほど音は聞こえてこない。
今この部屋に聞こえているのは、置き時計から発せられる秒針の動く音と、トーストや目玉焼きを咀嚼する時に発せられる音のみ。
まるで自分1人がこの世界に取り残されてしまったかのような気持ちになってくる。
そんな今の状況に寂しさ、孤独感を覚え、それを紛らわすために近くにあったリモコンを手にとり、テレビの電源を入れた。
テレビではニュース番組が流れていた。
チャンネルをリズムよく変えていくも、どのチャンネルも流れているのはニュース番組。
そのどの番組でも、今日も今日とて、色々なニュースがとりあげられている。
楽しいニュース、哀しいニュース、眼を見張るようなニュース…。
そんな中、ある番組内のニュースが眼に留まった。
それは1年前から行方不明である少年のニュース。
幼い顔立ちながらに髪は赤色に染め、耳にはピアスが空いている。
そんな見た目に特徴のある少年だが、手がかりも何も見つからないまま1年を迎えたため、再度取り上げられたのだ。
「どこにいっちゃったんだろう…」
別に知り合いであったわけではない。
会ったことなどないのだから当然だ。
けれど手がかりが1つもない、まるでその少年がこの世界から消失してしまったかのような状況に多少の違和感を覚えたのだ。
その後、トーストの最後の一口を食べきり、ニュースが終わり天気予報が始まったテレビの電源を消し、身支度を整えるために再び洗面所へと向かった。
◇
学校の支度を終え、一階へと降りてくると玄関のベルが鳴らされた。
それと同時に、玄関の向こうから、電話ごしで聞いたあの元気な声が聞こえてくる。
「ゆうちゃーん!いくぞーー!でーてこーい!」
「あはは…。ちょっとまってねー」
毎度のことながら近所迷惑にならないか心配になってくるが…まあいい。
そんなこんなで、苦笑いを浮かべながらも返事をし、戸締まりの確認を終えた後、僕は玄関のドアを開けた。
ガチャ…という音のあとに朝日の眩しい光が家の中にそそぎこまれてくる。
その眩しさに手を顔の上に掲げながらも、その光の中に立つ2人の姿を確認した後、いつものように挨拶を交わした。
◇
「もう少しで文化祭がはじまるねー!」
学校への通学路、幼馴染の1人楯野凛華はピョンピョンと跳ねながら、隣で歩く僕ともう1人の幼馴染、天野翔に向かって話しかけた。
「そうだなー。…あ、そういや今日から準備はじまるんだっけ?」
「あ、そういえば今日からだったね、準備」
「そうだよ!今日から準備!一緒に頑張ろー
!」
「…ていっても俺らは部活があるから、今日の準備には参加できないけどな!」
「…たしかに」
「…あ、そっかー」
そうして3人は笑いあう。
身長が178センチで、モデル体型の翔。
170センチで平均的な僕。
そしてその間で飛び跳ねる150センチという少し小柄な凛華。
そんな家が近く、幼稚園時代からの幼馴染である3人はいつものように他愛もない話をしながら並んで歩いて行く。
幼稚園から、今通っている明野高校までいつも一緒であった3人。
そんな3人の変わらず仲睦まじく並び歩く姿は、毎日近所に住んでいるお婆ちゃんやおじいちゃんを、孫を見ているかのような優しい気分にさせていた。
◇
ここはグラウンド。
今、サッカー部による練習試合が行われている。
「決めろー!翔!」
そんな掛け声の後、翔に向けてパスが出される。
その声に翔は返事をした後、軸足を踏み込み、ゴールにむけて、シュートを放った。
放たれたボールは威力を弱めることなく、ゴールキーパーの後ろ、つまりゴールネットへと突き刺さった。
ゴールが決まったのを見た翔は周りにいた仲間チームのメンバーとハイタッチを交わす。
そんな翔と他のメンバーを僕はベンチに座って見ていた。
部内のメンバーで練習試合を行っているものと、ベンチに座って記録を取るもの。
前者は今度の大会でのレギュラーメンバーとベンチ入りするもので、後者はベンチ入りすらも逃したものだ。
つまり後者である僕はベンチ入りも逃し、こうして記録を取ることになったわけだ。
とはいってもまだ高校1年生だ。
2年、3年を押しのけてまでレギュラー入りするのは厳しいものがあるだろう。
しかし、1年でもレギュラー入りする者はいる。
翔なんかが良い例だ。
翔はすごい。本当にすごい。
何をやらせてもそつなくこなし、テストでもスポーツでもその並外れた才能で上位をキープし続ける。
だからだろうか。
翔は僕の中で幼馴染で親友であるのと同時に
憧れを抱く人物となったのだ。
いつか追いつきたい、今は遥か先を行くあの背中にいつか並んで走ることができるように…と。
◇
「お疲れ様!優ちゃん!翔くん!」
部活動を終え、着替えを済ませた後、学校の正門へと向かうと、その入り口付近で凛華が待っていた。
僕たちの姿を見つけると、手を振りながらいつものようにピョンピョンと飛び跳ねる。
そんな凛華に僕たち2人は手を振り返し、彼女のところへと向かう。
そうしてまたいつものように3人は並び帰路へとつく。
◇
「あ…!」
帰宅途中、談笑しながら歩いていると、凛華が突然何かを思い出したかのような声をあげ立ち止まった。
そんな彼女の様子に疑問を浮かべながら、僕たち2人は彼女の方を向いた。
「いやー。そういえば買い物を頼まれててねー。すっかり忘れてたっけ…」
凛華の話だとどうやら帰りに今日の夕飯に使う食材の買い出しを母に頼まれていたようだ。
それは大変だと僕たち2人も同行しようとしたが、大した量じゃないから先帰っていて良いとのこと。
空を眺めるも、まだ日が沈む様子はない。
この様子ならば、凛華も無事に家まで帰ることができるだろう。
そのため、僕たち2人は彼女の提案を受け入れ、先に帰宅することにした。
「じゃ、また明日ね2人とも!」
「うん!また明日!」
「おう!また明日なー!」
飛び跳ねながら手を振る彼女に手を振り返す。
その後商店街の方へと走っていった彼女の姿を見送り、見えなくなった所で僕たちは家へと歩き出した。
もし……もしもだ。
…この時、凛華と別れなかったら。
もしかしたら……違う未来があったのかもしれない。
けれど僕は思う。
きっとここで別れて正解だったのだろうと。
もし別れていなかったら、彼女にあんなものを見せることになっていたのかもしれないのだから。
□
「2人で帰るのは、久しぶりだなー」
「確かに。そうだねー」
特にこれといった話題もなく、当たり障りのない会話をしながら歩いている2人。
「そういや、文化祭でうちのクラスの出し物って執事&メイド喫茶だったよな?」
「そうそう。凛華の押しにクラスの皆が負けてねー」
「流石だよな、あいつは」
「本当そうだよね」
ここに今いない凛華。
彼女の元気の良さはその容姿と相まってとても有名だ。
元気で、誰にでも優しい。
少し勉強は苦手だけどそんな姿もキラキラしてうつる。
そんな彼女の話題を掘り下げ、僕たちは再び笑いあった。
「ま、やるからには頑張んなきゃな!明日部活休みだし準備頑張ろうぜ!」
「うん!頑張ろう!」
そして、文化祭の準備に向けて頑張ろうと決意を決めあった……
……その時であった。
キャーーーーーー!!!!!と、突然響き渡る女性の悲鳴。
それに気づいた僕と翔が声のした方を向くと、そこには居眠り運転だろうか、フラフラと歩道へと近づくトラックと、丁度その方向に居る、小さな女の子が居た。
女の子は恐怖を感じ、涙を流しながらその場から動けずにいる。
周りから女の子に逃げるようにと叫び声が上がった。
だが、やはり恐怖からか女の子は動かない。
翔はその光景を観て、驚きそして助けようとそちらを向いた。
そして女の子の方に向かって一歩を踏み出した…
……その時であった。
バッと、翔の前を通り走り去る影が1つあった。
そう、それは…。
◇
僕は無我夢中で走った。
目の前の女の子を助けたい。その一心で。
何故助けるのか。
そう聞かれたら、助けることに理由などないとそう答えるだろう。
ただ、一つ。
今の僕の心を支配する思いは……翔という目標に追いつけるような人間になりたいという一種の願望だ。
目の前を見る。
女の子と僕の間には大して距離はない。
だが、女の子とトラックの距離もギリギリ間に合うかどうかという程度だ。
僕は必死で走った。
走って走って…そして、ついに女の子に追いついた。
「よしっ!」
僕は少女をトラックの衝突圏外へと突き飛ばした。
その影響で、少女はトラックの衝突を免れることができそうだ。
…まだ余裕がある。
だから僕もそのまま走り去ろうと一歩を踏み出した
…そうした所で。
「な、な!?」
突然何者かに足を掴まれたかのような感触を感じ、僕はそのままその場に倒れてしまった。
悲鳴が大きくなる。
そこには翔の悲痛な叫びも含まれていて…。
…トラックがすぐ目の前まで迫っている。
僕はこの時、自分が死ぬと気づいたからか、頭の中に走馬灯のように色々な情景が思い浮かんだ。
凛華や翔と沢山遊んだ日々。
途方もない数の、楽しかった思い出のその情景が…。
この時、僕の心には後悔の念が浮かんでいた。
それは、凛華や翔ともう会えないということ。
そして…理想にこれ以上近づくことができないということだ。
…一つよかったことがあるのなら。
それは、凛華が悲惨な僕の姿を見ることがないということだろうか。
と、そんな思いが浮かぶと同時に
…僕の意識は無くなった。
その後、そこにはトラックに潰され無惨な姿となった優と、その姿を見て泣き叫ぶ翔の姿があった。
享年15歳。上野優の人生はここで終わった。
だが、彼の物語はここがスタートでもある。
その日、終わった一つの命。
その魂は地球を離れ、宇宙をも離れ、遥か遠く、普通は決して訪れることのできないとある世界へと辿り着いた。
そして、その日生まれた新たな命、その小さな小さな身体に、魂は新しい生命としての喜びを感じながら宿ったのであった。