シーン 11
深夜。
息苦しさを覚えて目が覚めた。
部屋には窓から差し込む僅かな月明かりしかなく、薄暗くて状況がよくわからない。
しかし、しばらくすると次第に目が慣れてきた。
「…おい!」
思わず不機嫌を言葉にして息苦しさの主にぶつけた。
僕の首にはミーナの白くしなやかな腕が巻き付いている。
よく見ると彼女の顔がすぐ近くにあった。
寝ぼけているのか、ムニャムニャとわけのわからないことをいっている。
次の瞬間、首に巻き付いていた腕に力がこもり、グイッと僕の身体を引き寄せた。
片腕だけのチョークスリーパーだが、気道が圧迫されて息苦しい。
さらにこのまま絞められれば窒息してしまいそうだ。
同時に彼女の足が身体に絡みつき、完全に身動きがとれなくなった。
抱き枕の気持ちはおそらくこんな気分なのだろう。
身体が密着したおかげでミーナのたわわに実った二つの乳房が思い切り右腕に押し付けられている。
こんな状況はよほどの特殊な性癖の男性でなければ歓喜するだろう。
もちろん、昨日までの僕ならそうすると確信していた。
しかし、実際にその状況に放り込まれると、不思議とそんな気持ちは一切湧き上がってこなかった。
むしろ、仕事のパートナーである彼女に手を出そうものなら、これまでの良好な関係が台無しになってしまうのではと不安になる。
一時の気の迷いでこれまで積み上げてきたものを壊すことほど愚かなことはない。
そのため、頭の中は妙に冷静で、この状況をいかにして乗り切るか、それだけを考えていた。
まずは何とかしてこの拘束を解かなければならない。
最初に挑戦したのは体勢を変えてみることだ。
しかし、身体を完全にホールドされているため身動きがとれない。
少し身体を動かしてみると肉感のある二つの膨らみが揺れ、そのたびにミーナから小さな声が漏れた。
こういう状況を生殺しというのだろう。
そして、僕の人生史上最大のチャンスにして大ピンチだった。
いっそのことこのまま襲ってしまえたらどれほど素晴らしいだろうか。
脳裏には獣のように満足するまで貪り尽くす様子が浮かんだ。
しかし、それは妄想の範囲を出ることはなく、それ以上の屈強な精神で無理やり蹴散らした。
これ以上欲望に流されるのは危険だ。
ただでさえあまり女性経験がないのに、この仕打ちはあんまりだ。
せめてこれが夢ならと思わずにはいられない。
少し冷静になったところで再び行動を開始した。
ここでわかったことがある。
それは自由に動かせる身体の部位についてだ。
一番自由に動かせるのは目だけで、続いて左手、左足、右足の先と続く。
そして、一番不自由なのは右腕だと判明した。
そんな右腕はミーナの胸に挟まれサンドイッチになっている。
この際、無理やり身体を動かしてしまう手もあるが、その場合彼女を起こしてしまう危険性が十分にある。
その先に待つのは「変質者」や「変態」といった最低の汚名だろう。
僕の自尊心を思い切り傷つける未来が見えた。
下手をしたらそのまま立ち直れないのではないか。
少し背筋が冷たくなってため息が漏れた。
せめて首に巻き付いた腕だけでも外したいのだが、慎重になりすぎてビクともしなかった。
一体どれくらい抱きしめられているだろうか。
まだ数分のような気もするし、数時間経ったようにも感じる。
どちらにしても、この時間が早く終わって欲しい気持ちと、そうでない気持ちが入り混じり頭の中がパンク寸前だ。
肌が触れ合っているところが熱を持ち出し始めていることに気が付いた。
特にそれが著しいのは右腕だ。
まだ暑苦しいというレベルではないが、そのうち汗で不快なレベルに達するだろう。
逃れられないと諦めてから何度かこのまま眠ろうとしたが、心拍数ばかりが上がってそれどころではなかった。
「…意気地なし」
不意に闇の中でミーナが囁いた。
耳元で聞こえた声は、背筋を刺激して脳をくすぐられている気持ちになった。
それと同時に心臓は最高潮に高鳴り、嫌な汗が身体のあちらこちらから吹き出している。
「お、起きたのか…」
「…起きてたのかじゃない。ずっと起きてよ。はぁ…凹むなぁ」
そういうとミーナはようやく僕を解放した。
ずっと抱きつかれていたため、身体のあちらこちらが硬直している。
ぎこちない稼働部の動きを解消するため、ベッドから上半身を起こした。
そんな時だった。
ふと月明かりに照らされた彼女の顔を見ると、頬に光るものを見つけた。
「…お前、泣いてるのか?」
「!?う、うるさい!こ、これは汗だ。だ、抱きついていたから暑かったんだよ!」
いつも余裕の笑みを浮かべる姿とは違い、今の言葉には明らかに余裕はない。
何とも苦しい言い訳だが不思議と心が温かくなった。
思えばこんな姿のミーナを見たのは初めてだ。
もちろん、今まで同じベッドで寝たことはないので当たり前なのだが。
それを差し引いても普段とはまるで別人で女性らしい魅力を感じる。
ベッドの上で膝を抱えて丸くなる姿は、普段の明るくて元気な印象とは正反対だ。
その姿はまるで幼い子どもの様にも見える。
そんな姿が愛おしくなり、思わず手が伸びて彼女の頭を撫でてしまった。
「なッ、何を!?」
「す、すまん。何ていうか…そうして欲しいように見えたから…」
「ば、馬鹿にしてるのか!?だ、誰がユウジなんかに…」
言葉では否定しているがまんざらではなさそうだ。
それを証拠に頭に乗せた手を振り払う素振りはなかった。
「俺さ、やっぱり誤解してたみたいだ。今のお前、すごく人間っぽいっていうか、凄くかわいいぜ?」
「な、な、な、何を…!?」
先ほどにも増して言葉に動揺を感じる。
顔はよく見えないが、おそらく頬が赤くなっているのだろう。
暗くてよく見えないのが非常に残念だ。
しばらく撫でているとミーナは観念したのか静かになった。
やはりまんざらではないらしい。
頭を撫でていてふと思い出したことがある。
それは、僕が小学校に上がる前の記憶だ。
ちょうど入学式の前夜で、小学校に通う楽しみと不安が入り混じり、なかなか眠れなかったのを今でもよく覚えている。
そんな不安を知った母は僕が眠るまでこうして頭を撫でて絵本を読んでくれた。
その当時、同じ布団で眠っていた姉も不安な気持ちだったらしく、母に僕と同じように頭を撫でるよう催促していた。
姉は母の温もりに触れて安心したのか、満面の笑顔を浮かべていたのを今でもよく覚えている。
「ユウジ…泣いているのか?」
「…え?」
ミーナにいわれて視界が霞んでいることに気が付いた。
母親のことを思い出した懐かしさと、行方がわからない姉の姿が脳裏に蘇り、自分では感情が抑えられなくなっていた。
堰を切ったように溢れる涙は頬を伝い、真っ白なシーツに吸い込まれていく。
僕は慌てて服の袖で涙を拭い、これ以上涙がこぼれないよう天井を見上げた。
「ふふッ…馬鹿だな。こんな時は泣いたっていいをだよ。ほら、私がいるから…」
ミーナは身体を起こして優しく肩を抱いてくれた。
こうして抱きしめられたらのはいつぶりだろうか。
最後の記憶はこの世界に召還されてきた初日の夜だ。
姉さんは不安な気持ちでいる僕を何もいわずに抱きしめてくれた。
今の状況は当時のそれとよく似ている。
「…姉さん」
「いいよ、好きなだけ泣けばいい。気が済むまでこうしているから…」
ミーナの言葉が胸の奥に染み渡り、最後まで抵抗していた理性が完全に吹き飛んでしまった。
今まで悲しみを抑え込んでいた理性がなくなったことで、再び視界が霞んで何も見えなくなり、薄暗い部屋の中に僕の嗚咽だけが響いた。
ひとしきり泣いてようやく気持ちが落ち着いたのを見計らい、ずっと肩を抱いていたミーナは僕を解放した。
泣きはらしたせいで今は気持ちがスッキリしている。
一説には涙はストレスを洗い流す作用があるらしい。
どうやらその説はあながち間違いではなさそうだ。
「落ち着いたか?」
「…あぁ、すまん。みっともないところを見せたな」
「いいや、気にすることはない。それに、ユウジのレアな顔が見られて満足しているよ」
ここで気付いたことがあった。
ミーナは普段、僕のことを“君”と呼んでいる。
しかし、彼女は先ほどからずっと“ユウジ”と名前で呼んでいるのだ。
これは些細な違いかもしれないが、名前で呼ばれると少しうれしい気持ちになるから不思議だ。
それに、彼女ほどの美女ともなれば文句のつけどころがない。
「満足って…まぁいいけどさ」
「ふふッ、役得というヤツさ。それにしても…この状況、どうするつもりだい?」
薄暗くてよくわからないが、ミーナは目を細くして僕を睨んでいるらしい。
理由はわからないが急に機嫌を損ねた形だ。
「えっと…何のこと?」
「とぼけるな!そんなことをいうのはこの口か!!」
一気に感情を爆発させたミーナは、僕の両頬をつまみそのまま思い切り左右に引っ張った。
おかげで呂律が回らずうまく喋れない。
「痛ひ痛ひ痛ひ…」
「まったく、レディーにここまでさせておいて手も出さないなんて、本当にユウジは情けない。あぁ、情けない」
「と、とりあへず離してくださひ…」
「おっと、思わず感情的になってしまった。すまんすまん」
ミーナは冷静さを取り戻してようやく頬から手を離した。
思いっ切り引っ張られたため頬にはジンジンとした違和感が残っている。
「…と、突然何しやがる!」
「今のはユウジが不甲斐ないことに対する罰だ。といっても、私はまだ許したつもりはないが?」
ミーナはそのままズイッと顔を近付けてきた。
怒っているため眉間に寄ったシワがハッキリと確認できる。
別に僕が何か悪さをしたつもりはないのだが、ここまで責め立てられたら肩身が狭い思いだ。
「あの…顔が近いですよ?」
思わず言葉が丁寧になったのはミーナの見幕に圧倒されたからだ。
彼女にもそれが伝わったのか、「良し!」と一つ頷いた。
「…で、この後は?」
「えーっと…できれば寝かせてもらえませんかね?」
「はぁ?ユウジ、正気か。まさかお前…コッチの趣味が…いや、だとすれば納得できる。あぁ、そうだ、いつもアーヴィンと一緒に居る姿も見ているからな。そうだ、二人は一緒に風呂に入るそうじゃないか。あぁ…何ということだ」
「おい、コラ!話が飛躍してるぞ。それに、その話は大きな間違いがある!寮の風呂は共同の大浴場だ。勘違いするな」
「いや、だからってほら、こんな美女を目の前にして手を出さないなんて、そうとしか考えられないだろ?」
「だ・か・ら、それが飛躍し過ぎなんだって。俺は正常なの!ほら、これが証拠だ」
ミーナの手を掴んで自分の胸に押し当てた。
実際のところ、先ほどから心拍数が大変なことになっている。
このままのペースではいつオーバーワークになってもおかしくはない。
彼女もありえないペースで脈打つ心臓に触れてようやく理解したようだ。
「ふむ…だからって、私はこんなに恥ずかしい思いまでしたんだぞ!あぁ、もう頭に来た!!説教だ説教ッ」
「ちょ、ちょっと待て!?」
「問答無用!そこに座って反省しろッ」
結局、この夜はミーナの気が済むまで説教が続き、満足に身体を休めることができなかった。
彼女のありがたい説教は東の空が白々と明るくなるまで続いた。
途中から床の上に正座をさせられたおかげで足の感覚が麻痺している。
説教が終わった頃には半ば放心状態だったのはいうまでもない。
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