九八 アッツ島沖の遭遇戦
「通信より艦橋。四二戦隊司令部より入電。『我、国籍不明艦隊に遭遇せり。中型艦一六、小型艦四を電探にて確認。我が戦隊の現在位置、占守島より方位七〇度、距離三九〇海里。国籍不明艦隊の現在位置、我が戦隊より方位四〇度、距離一三海里、針路二一〇度』以上です」
「……中型艦一六だと? 一体何だ?」
「輸送船、でしょうか?」
一九四三年三月二六日。
帝国海軍の根拠地の一つである択捉島は単冠湾より、方位五〇度、距離二〇〇海里の北太平洋上を哨戒していた、帝国海軍第五艦隊旗艦の軽巡洋艦「霧島」の羅針艦橋で、司令長官の金沢正夫海軍中将と参謀長の大和田昇海軍少将は突如飛び込んだ報告に対し、困惑さ丸出しの声色でそう言った。
「輸送船? どこの船だ?」
「少なくとも我が国のではありません。そして考えられる国は三つです」
航海参謀の中田秀穂海軍中佐が意味深な口調でそう言うと、その意味を悟った金沢は確認を求めるような口調で言った。
「米国にカナダ、それからソ連か……針路から判断すると、ソ連の港に向かっているように見えるが」
「しかしだとすると、出発地はソ連ではなくなります」
大和田の具申に金沢はゆっくりとうなづき、この時点で彼が出し得る最良かつありふれた命令を発した。
「五艦隊司令部より入電! 『四二戦隊は発見せる国籍不明艦隊に接近の後、艦種を確認、報告せよ。尚、以後発見せる艦隊を“甲”と呼称す』以上です」
「言われんでも、そのぐらいやってますよ」
第四二戦隊司令官兼特設巡洋艦「福知丸」艦長の、宮村久孝海軍大佐は羅針艦橋に仁王立ちになってそうつぶやいた。
「艦橋より電測。“甲”の針路に変化無いか?」
「……ありません。針路は二一〇度のままです。速力も変わらず一〇ノット前後です」
「相手は電探を付けていないのでしょうか?」
航海長の山口由人海軍少佐の疑問提起に、宮村はどこか関心無さげに答えた。
「付けてないなら、“甲”は正真正銘ただの輸送船団だ。付けているなら、俺達は自ら危険な場所に向かって歩を進めていることになる。この場合、小型艦ってのは駆逐艦だろうからな。中型艦も全部が輸送船とは限らんぞ」
「……念のため、射撃指揮所に入ります」
「わ、私も水雷指揮所に入ります」
「あぁ、万が一のときは頼んだぞ」
宮村の言わんとするところを敏感に悟った砲術長の渡辺久美海軍少佐と、水雷長の折笠富雄海軍少佐が相次いで羅針艦橋から立ち去る。
二人の背中を見送りながら、宮村は間もなく見張り員がその視界に捉えるであろう“甲”について考えを巡らせ始めた。
北方警備を担当する第五艦隊隷下の哨戒部隊の一つである第四二戦隊は、この時点において「福知丸」と吹雪型駆逐艦二隻で構成されているから、“四隻の小型艦”がもし護衛駆逐艦であった場合、戦闘になっても有利に戦える。
だが艦隊型の駆逐艦であった場合、必然的に「福知丸」は二隻の純戦闘艦を相手取らなければならない。
一隻ならともかく、元来が商船の「福知丸」には荷が重い。
その上巡洋艦まで現れようものなら大変だ。たとえ相手も特設巡洋艦であったとしても、万事休すである。
「見張りより艦橋! “甲”視認! 本艦より左二〇度、距離一万八〇〇〇メートル……“甲”の一番艦のマストに星条旗……同艦はフレッチャー級と認む!」
「あれま。戦闘艦は駆逐艦だけか?」
事態が悪い方向に向かっていることに、宮村はそれがどこまでいくのかを確認する。
「現状では駆逐艦だけです……おや?」
「どうした? 何かあったのか?」
「ちょっとお待ちください……中型艦は全て輸送船です。ですがマストに掲げられているのはソ連の国旗です!」
「何だと!?」
「ソ連の輸送船団を米国が護衛しているということですか? 一体何でまた……」
状況は最悪ではない。しかし、果てしなく不可解である。
「……合戦準備、昼戦に備えよ! それから五艦隊司令部に緊急信! 『“甲”は米国駆逐艦及びソ連輸送船団の混成部隊なり』急げ!」
これはただの遭遇戦ではない。戦いの結果がどうであろうと、後で外務省が関わってきて色々とややこしいことになることに間違いは無い。
だがそのようなことは、特設巡洋艦の艦長という出世コースから明らかに外れた路を歩んでいる俺には関係が無い。山口の二度目の疑問提起を無視する形で戦闘準備を命じながら、宮村はそう自分に言い聞かせていた。
「電測より艦橋。敵駆逐艦取舵に転舵、針路一二〇度。輸送船団面舵に転舵、針路二七〇度」
「……戦隊針路三〇度。最大戦速! 観測機発進!」
もっとも、最大戦速とは言え「福知丸」は元来が“優秀商船”であるから、その最大速度はたったの二二ノットでしかない。
お互いの位置から、このままいけば相手に丁字を描かれる可能性大でもある。
「通信より艦橋。一九駆司令部より入電『戦隊針路に変更有りや』以上です」
「司令官、針路の変更を具申します。このままでは丁字を描かれます!」
「……一九駆司令部宛、返信。『戦隊針路に変更無し。以後、米駆逐艦部隊を“甲”、ソ連輸送船団を“乙”と呼称す』以上だ」
つぶやくように言いながら、宮村は焦ったように具申した山口に対し、心の中で悪態をついた。
(素人め、一九駆はただ方針の確認をしてきただけだというに……これだから予備将校は頼りにならん)
山口の正式な階級は“海軍予備将校たる海軍少佐”であり、海軍兵学校を卒業した生粋の軍人ではなく、元々は日本郵船に航海士として務めていたところを、戦時ということで優先的に招集された身なのだ。
だから航海長としては有能であるが、いざ実戦となると恐ろしく頼りなくなる。
(まぁ、そういうのは奴だけであってもらいたいものだな)
誰にも悟られぬよう小さくため息をつくと、首から下げた双眼鏡を構えて敵艦隊を凝視した。
お互いの針路は直行しているから、最初左斜め前に見えていた艦影はやがて正面に移り、右斜め前へと移動していく。
(連中、俺達の正面を過ぎてから速度を落としたな。これからどうするのか……)
「艦長より電測、“甲”の位置報せ」
「本艦の右三〇度、距離一万二〇〇〇メートル。針路……“甲”面舵に転舵! 二五〇度、速力は三〇ノット以上に増速した模様です」
「ふむ、やはり頭を押さえ続けるつもりか」
一人つぶやいた宮村は、再び双眼鏡を構えて米艦隊を追う。
右斜め前に見えていたものが、やがて正面、左斜め前へと移動してゆき、同時に距離も急速に縮まっていく。
「電測より艦橋。“甲”が取舵に転舵、針路一二〇度。本艦からの位置は左二〇度、距離八五〇〇メートルです」
敵艦隊は常に丁字を描きながら距離を詰めてきている。
とは言え今のところ、お互いに砲撃も雷撃もしていない。
「電測より艦橋。“甲”面舵に転舵、針路二五〇度。本艦からの位置は右一五度、距離六〇〇〇メートル!」
何度目とも知れない電測室からの報告を、双眼鏡を構えたまま無表情に聞き流していた宮村は、ここにきて口の端を僅かに吊り上げ、溜め込んでいた命令を力強く発した。
「取舵一杯、本艦針路三四〇度!」
「一九駆に命令。突撃せよ」
「一九駆針路二〇度、最大戦速!」
「左砲雷戦! 本艦目標、敵三番艦。『敷波』目標、敵四番艦。砲撃始め!」
「福知丸」からの命令を受け取るやいなや、第一九駆逐隊の司令駆逐艦である「綾波」の艦橋に、艦長の夏目保志海軍中佐の号令が立て続けに響く。
元々、第一九駆逐隊は吹雪型駆逐艦四隻で構成されていたが、その内「磯波」はベンガル湾海戦で失われ、本来の司令駆逐艦である「浦波」は演習中の事故による損傷の修理のため、その際に負傷した司令共々内地に残っているせいで、後続する「敷波」の艦長の川橋秋文海軍少佐よりも階級の高い夏目が司令を代行していた。
もっとも夏目は、ベンガル湾海戦で負傷した前艦長作間英邇海軍中佐に代わって「綾波」の艦長を拝命した身であり、それまでは第五艦隊の水雷参謀を務めていたため、水上戦闘の経験は無い。
また「綾波」が第六艦隊第四水雷戦隊に属していた頃には、翔号作戦によりハワイ沖まで遠征したとは言え、経験したのは対潜戦闘だけであった。
その点、川橋はベンガル湾海戦を経験しており、この不利な状況ではむしろ経験値の高い彼にこそ司令を任せたいところだが、帝国海軍の硬直した人事制度がそれを許さない。
相手の“経験値”の程は分からないが、やれるだけやるしかないのである。
「目標、敵三番艦。主砲撃ち方始めます!」
夏目の命令を受けた「綾波」の砲術長がそう言うと、九六式五〇口径高角砲を単装砲架で五基五門積んだ「綾波」は、猛然と砲撃を開始した。
「後部見張りより艦橋。『敷波』撃ち方始めました」
「電測より艦橋。『福知丸』針路〇度。敵一、二番艦と同航戦に入った模様」
陣形の優位も、速力の差の前には意味をなさない。
敵艦隊の動きと回頭のタイミングを読み切った宮村の針路選択も、一〇ノット以上高速の相手には役に立たなかったのだ。
そもそも、特設巡洋艦「福知丸」の対艦武装は、三年式五〇口径一四センチ単装砲七基七門と、三年式四〇口径八センチ単装高角砲二基二門、そして六一センチ三連装魚雷発射管二基六門というものだ。
純粋な軍艦である駆逐艦相手でも一対一なら何とか優位に、少なくとも同等の戦いが出来るが、一対二となると鈍足も足かせとなって不利にならざるを得ない。
何より、備砲さえなければ軍艦色に塗られた客船にしか見えない艦体には、装甲などほとんど施されてはおらず、当たり所によっては一撃で致命傷を受けるかもしれない。
また“三年式”と名のつく艦砲に共通することだが、主砲の装甲も非常に薄っぺらいのだ。
「福知丸」がやられる前に、何とかこちらの戦闘を片付けて応援に向かわねば。と、夏目が一人決心しているなか、見張り員の報告が艦橋に響く。
「後部見張りより艦橋。『敷波』周辺に弾着確認」
「よし。一九駆、魚雷発射始め!」
「……水雷より艦橋。本艦魚雷発射完了。命中まで約四分、直ちに次発装填にかかります!」
「『敷波』より入電。『我、魚雷発射完了』以上です」
彼我の距離は六〇〇〇メートル弱。
帝国海軍の駆逐艦にとって、文字通りの必殺兵器である九三式六一センチ魚雷が、最大速度の四八ノットを発揮出来る短射程状態でも充分射程圏内だが、「綾波」と「敷波」がこの時発射した魚雷は合わせて一六本。
相手の針路が恐らく固定された状態で撃ったとは言え、命中が望めるかどうかは未知数だ。
せめてもの救いは、米軍の魚雷に六〇〇〇メートルもの射程が無いことだが、砲撃戦に敗れては元も子もない。
しかし魚雷発射から二分後、「綾波」の砲術科員達はいの一番に戦果をあげた。
「砲術より艦橋。敵三番艦に至近弾確認。連続射撃に移行します!」
“平射砲で対空射撃は出来ないが、高角砲で対艦射撃は出来る”との思想のもと、帝国海軍の駆逐艦は基本的に高角砲を主砲として搭載しているが、その影響で「綾波」や「敷波」の弾薬庫には、“対空射撃用の榴弾”と“対艦射撃用の徹甲弾”が半々に積まれている。
そのため、“高角砲”であるが故の毎分一五発という良好な速射性能をいきなり発揮してしまうと、肝心な時に弾切れにならないとも限らない。
この先の展開がまるで読めない状況ではなおさら、弾薬の消費は抑えておきたい。そう考えた夏目は、有効弾を得るまでは一五秒間隔の射撃を指示していたが、今やその制限は取り払われた。
「綾波」は四秒おきに五発の一二,七センチ砲弾を敵三番艦目掛けて放つ。
そして、戦艦や巡洋艦の主砲弾に比べれば遥かに小さいながらも、「綾波」の主砲弾は敵三番艦の周囲に水柱を次々と林立させ、同艦の艦上に閃光がきらめき炎が空を舞う。
「『敷波』が連続射撃に移行しました!」
「了解!」
やはり経験値は捨てたものではない。経験値の無い夏目は一人そう思うのだった。
「目標、敵二番艦。魚雷発射始め!」
第一九駆逐隊に突撃を命じた後、優位な陣形で性能の不利を補おうとした宮村だったが、速力が違い過ぎてはこのアイデアは意味をなさない。
二隻の駆逐艦を相手に、どうせならやりたくない同航戦をやる羽目に陥った「福知丸」から、三本の九三式六一センチ魚雷が放たれたが、命じた宮村も狙いを定めた折笠もこれが敵二番艦に命中するとは思っていない。ただあり得なくはないから撃ったのだ。
誘導装置でもついていれば話は別だが、生憎それは実用化の目処のつかない新兵器の一つであり、考える価値も無い。
「福知丸」が搭載する全ての魚雷……つまり六本も撃てばまだ当たる確率はあるが、何しろ「福知丸」は商船上がりの軍艦もどきである。
艦体の真ん中は貨客船時代のまま、三階建ての構造物が占領しており、二基の魚雷発射管はその構造物を間に挟んでそれぞれ片舷にしか指向出来ないのだ。
それは七門の主砲と二門の高角砲も同じことで、艦の中心線上に配置されているのは三門の主砲のみ。
都合、左舷側にしか指向出来ない二門の主砲と一門の高角砲、一基の魚雷発射管に出番は無いのである。
そんなわけで、敵一番艦に対して五発の一四センチ砲弾を矢継ぎ早に撃っている「福知丸」だが、同時に一〇発の一二,七センチ砲弾に晒されている。
お互いにまともな装甲が無いという状況は共通しているから、勝負はどちらが先に直撃弾を得るかによって決まると言って良い。
しかし砲撃戦の指揮を執る渡辺は、「綾波」や「敷波」とは違って対艦射撃用の徹甲弾に余裕があるため、連続射撃を行いつつの弾着修正を試みているが、やはり特設艦艇に配置される乗員の錬度には問題があるのか、いっこうに直撃弾が出ない。
敵一番艦と「福知丸」が一〇秒おきに噴き上げる五本の水柱は着実に近づいてはおり、幸運なことに敵艦隊の速力も、敵の指揮官が速過ぎては逆に陣形の維持が難しいとでも考えたのか、二五ノット程度に抑えられている。
無論、状況はこちらも同じであり、ここまでくると全ては時間の問題となってくる。
そして、砲撃戦の開始からわずか数分しか経っていないにも関わらず、得体の知れぬ焦慮に襲われつつあった宮村の両目に待ち望んでいた光景が、両耳に悲惨な響きがほぼ同時に飛び込んできた。
まず前者の正体は、待望の敵一番艦に対する直撃弾だ。艦首付近に閃光がきらめいたかと思うと、二基の単装砲塔のいずれかの弾薬が誘爆を起こしたらしく、突如沸き出た紅色の炎の中に細い砲身らしいものが二本、はっきりと確認されたのである。
一方の後者の正体は、「福知丸」の第二主砲に対する直撃弾である。
海軍の基準では俗に“豆鉄砲”と揶揄される直径一二,七センチの小口径砲弾でも、その運動エネルギーは三年式五〇口径一四センチ単装砲の薄い正面防盾が耐えられるものではない。
双眼鏡のレンズの中の光景が、間を置かずに目の前でも再現されたのだ。
「二番主砲、火薬庫注水。急げ!」
もっとも六〇〇〇メートル弱の砲戦距離で飛んでくる砲弾が、上方から降ってきて火薬庫に飛び込むとは考えられない。宮村は自分でも不思議なまでに慎重になっていたのだ。
そうこうしている内にも、「福知丸」は至近弾が起こす水中爆発の衝撃に揺さぶられている。
水線下の防御などあるわけはなく、水密区画の数も少ない「福知丸」の艦体が、いつまで衝撃に耐えていられるか分かったものではない。それに、問題はまだ他にもある。
「艦橋より見張り。本艦周囲の水柱報せ!」
「三本です!」
……当たって欲しくない予想が当たってしまい、思わず唇を噛んだ宮村の両足を水中爆発と直撃弾の衝撃が立て続けに襲う。
「見張りより艦橋。本艦周囲の水柱四本!」
そしてだめ押しの凶報、すなわち「福知丸」に対する直撃弾を得ているのは、無傷の敵二番艦であるとの確たる証拠が飛び込む。
とにかく急いで敵一番艦を片付けねば、待っているのは“沈没”の二文字である。
「六番主砲被弾!」
「火薬庫注水、急げ!」
今まさに発射されようとしたところで一二,七センチ砲弾の直撃を受けた一四センチ砲弾が誘爆を起こし、「福知丸」はこれまでにない衝撃に悲鳴のような軋みを立てる。
慣れきった波浪による揺れとは似て非なる被弾による揺れに堪えるべく力一杯両足を踏ん張りながら、祈るように双眼鏡を構えた宮村の両目に、敵一番艦の向こう側にそそり立った二本の水柱と、艦体中央部への直撃弾による爆炎が飛び込むが、それ以上のことが起こることはない。
……結局、敵一番艦との砲撃戦はこの四〇秒後に片がついた。
この間に敵二番艦から一三発もの一二,七センチ砲弾を受けて、上部構造物が徴発元の商船会社の関係者が見たら卒倒しそうなまでに破壊されながらも、敵一番艦に四発の一四センチ砲弾を命中させたのだ。
「見張りより艦橋。敵一番艦速力低下、落伍します!」
「目標、敵二番艦!」
「四番主砲被弾!」
「火薬庫注水、急げ!」
敵一番艦を仕留めても、著しく悪い戦況に何ら変わりはなく、むしろどんどん悪化している。
「艦橋より砲術。二番高角砲、いけるか?」
気が付いてみれば、右舷側に指向可能な主砲は二門にまで減少しているのだ。
「可能ですが……徹甲弾は装備していません」
「それでも構わん、無いよりましだ!」
「分かりました。高角砲撃ち方始め、目標、敵二番艦!」
「電測より艦橋。対空及び対水上電探使用不能!」
「了解、対空及び対水上見張りをより厳となせ!」
もっとも、宮村はアンテナが叩き折られた電探が使えなくなったことについては、さほど重要視はしていない。
対艦射撃には向かない高角砲までも動員せねばならぬほど、戦況という名の天秤は激しく傾いている。
最初の内は応急処置の指揮を執る、副長の坂下征彦海軍中佐からの報告も逐次上がってきていたのだが、やることが多過ぎるのか次第にそれも無くなりつつある。
「福知丸」自体が、今にも沈むかという状況に置かれているのだから、電波の目を失ったことなど大したことではない。
少なくとも、吹きっさらしの見張り所が片っ端から潰されていることに、まるで気付いていない宮村にはそう思えるのである。
「副長より艦橋。二番発射管と電測の要員、それに機銃要員を下さい、人手が足りません!」
「了解した。手空きの者は総員副長の指揮下にて艦の応急処置に当たれ! ……それで坂下、艦の状況は? 後どれくらい持ちそうだ?」
「上部構造物は艦橋と砲術指揮所が無事なのが不思議なくらいです。水線下はまだ致命的な状況ではありませんが、現時点で六つの区画が満水状態です。とりあえず応援の電測要員は機関室、水雷要員は舵機室の隔壁補強、機銃要員は負傷者救護と火災消火に回します。それから水側室の放棄を具申します。もう周辺の隔壁は限界です!」
「了解した。艦橋より水側、直ちに水側室を放棄せよ。放棄せる後は、副長の指揮下に入れ!」
改めて見てみると約一五度程右に傾いている羅針艦橋に仁王立ちになっている宮村は、己の任務を満身創痍が近付いている「福知丸」と預かる乗員を救うことに絞るため、意を決して新たな命令を力強く連続して発した。
「右舷後進全速! 面舵一杯、本艦針路六〇度、左砲雷戦。回頭終了後、両舷前進全速!」
「右舷停止! 続けて右舷後進全速!」
「面舵一杯、針路六〇度!」
宮村の命令を機関長の清水静司海軍少佐と山口が復唱すると、右舷側の推進軸の回転が一瞬止まり、すぐさま逆向きの回転が与えられる。
「水側室水没!」
推進力と慣性力のせめぎあいが生み出す衝撃に隔壁が耐え切れなかったのか、誰かの絶叫混じりの報告が飛び込む。
「舵戻せ!」
「両舷前進全速!」
そして、速度を急速に落としながら艦尾を中心に右へ旋回した「福知丸」に、清水の号令を受けて再び完全に前向きの推進力が与えられる。
「主砲撃ち方始め! 魚雷発射始め!」
急速転回によって左舷側に移動した敵二番艦に対して、これまで出番の無かったものを含む四門の主砲が火を噴き、被弾誘爆の防止という意味を持った三本の魚雷が放たれる。
「敵二番艦、面舵に転舵!」
艦橋見張り員の報告にも宮村は動じない。現状で動じる程の事柄が起こるとも思えないからだ。
だが、結局はほとんど意味の無い時間稼ぎに過ぎない行動だった、と自嘲的な笑みを浮かべた宮村は次の瞬間、思わず足下が傾いていることを忘れて身を乗り出し、転びそうになりながらも拳を握り締めた。
敵二番艦の周囲に、これまでに無い多数の水柱が噴き上がったのである。
「通信より艦橋。一九駆司令部より入電! 『我、敵二番艦を攻撃中。旗艦は一時退避されたし』以上です!」
「来てくれたか!」
当然ながら、宮村に「退避する」などと言う気は無い。
右舷側への傾斜に今さらながら危機感を覚えて、「左舷注水」を命じたこと以外のことはこれまでと変わりない。
いや、正確には表情だけは変わっている。
つい先程まで「福知丸」を中心に見られた、いや、それ以上の光景が敵二番艦を中心にして再現されているのだ。
敵三番艦と四番艦を片付けた二隻の吹雪型駆逐艦は、撃沈よりも撃退を狙っているらしく、「綾波」か「敷波」のどちらか一方が対空射撃用の二式通常弾を撃っているようだ。
命中する寸前に炸裂する焼夷榴散弾に艦艇を沈める力は無いが、ほぼ四秒おきに花開く五発の小振りの黒い花火は、敵二番艦から見れば悪質な嫌がらせだ。装甲の無い艦体は、航空機をも墜とす断片によって徐々に蝕まれていく。
そこへ五発の一二,七センチ徹甲弾と四発の一四センチ徹甲弾が飛び込み、多数の水柱が絶えること無くそそり立ち続ける。
やがて直撃弾の閃光が観測されるようになり、耐え切れなくなったのか敵二番艦は速力を上げて取舵を切った。
「敵二番艦遁走します!」
「……砲撃止め! 一九駆宛て、通信。『集まれ』以上」
「両舷前進微速!」
勝利をおさめても、歓声は上がらない。ただ安堵感に満たされるだけである。
「綾波」と「敷波」が、「福知丸」の消火に協力するために接近するなか、宮村はもう一つの任務も片付けようと口を開いた。
「観測機宛て、命令。直ちに“乙”を捜索せよ」
「前方左三〇度に艦影、“乙”と思われます!」
唐突に始まった海戦からおよそ四時間。
浸水と注水のため、一二ノットしか出せなくなった「福知丸」であったが、相手も相当に鈍足でかつ第四二戦隊が相当についているのか、ソ連国旗を掲げた船団の捕捉に手間取ることは無かった。
もっとも、今の「福知丸」に臨検をしている余裕は無い。
「通信より艦橋。五艦隊司令部より入電。『我、貴方に急行中なり。尚、四〇一空に出撃命令を発令せり』以上です」
何を今さら……「福知丸」をボロボロにされながらも、後に“アッツ島沖海戦”と呼ばれる珍しい海戦に勝利を修めた宮村は、そっと今までほとんど何もしていない、心の中の金沢以下第五艦隊の司令部要員に毒づいた。
物理的にどうしようもなかったとは言え、全てを押し付けられたというやるせない、ぶつけ所の無い怒りのようなものを抱えながらも、宮村は傷付いた「福知丸」に出来得る限られたことを行うべく、眉間に皺を寄せながら命令を発した。
「左砲戦。本艦目標、乙一番艦。『綾波』目標、乙二番艦。『敷波』目標、乙三番艦」
「ソ連船団宛て通信、並びに発行信号用意。『我、只今より貴船団を臨検す。停船せよ』」
「従わざるときは砲撃す」の一言を言いかけたところで、宮村は思わず自分の目を疑った。
まだ何もしていないにも関わらず、ソ連船団が次々と速力を落として停船し始めたのだ。
慌てて船団へのさらなる接近を命じながら、宮村にはマストにはためく一六枚の赤旗がまるで、「やましいことは何も無い。調べたくば調べよ」と、素直だが高圧的なソ連船団の態度を象徴し、自分が想像以上に面倒な事態へと巻き込まれているように思えてならなかった。