九七 大英帝国の行く先は
スイス連邦ヴォー州の州都、ローザンヌ。
街の南側にあるレマン湖を間に挟み、いわゆる第三帝国……ナチス・ドイツの多大な影響を受けているヴィシー・フランスと国境を接しているが、この街がスイスの都市である以上、地球上の先進諸国が夢中になっている“戦争”という、見方によっては果てしなく幼稚な遊びとは、まったく無縁であることは疑い無い。
そんなローザンヌの中心部から少し離れた丘の上に、一九世紀初めに建てられたという一軒の古風な旅館がある。
もっとも、別段これといった特徴は無い。
外から見る限り、どこにでもある三階建てのレンガ造りの建物だ。無論、内装に特別凝っているわけでもない。
しかし、三階の角にありこの旅館の主人が“特別室”と呼称する、今で言うスイート・ルームに関して言えば、充分“特別”であった。ただし、部屋が、ではない。客人が、である。
大英帝国外務省に於いて参事官という役職を持つ、ヒューバート・マイルズ・グラッドウィン・ジェブ男爵は、一人の部下も秘書も連れることなく“特別室”のドアの前に立っていた。
彼は上着の右ポケットからしわくちゃになった紙を取り出すと、何度も読み直した用件しか書かれていない短い文章に、もう一度目を走らせると、それをしまってドアをノックした。
「どうぞお入りください」
ドアの向こうから聞こえてきた声に聞き覚えがあることを確認したジェブは、息を一つついてドアノブを回した。
「お久しぶりですな、ジェブ男爵閣下」
「いえこちらこそ、ヨシダ大使閣下」
“特別な客人”……スイス連邦駐剳大日本帝国特命全権大使の吉田茂は、微笑をたたえながら一人でやって来たジェブに歩み寄って右手を握ると、そのまま窓際に置かれたソファーセットに誘導して自らも腰かけた。
吉田の応対に、同じ様な微笑を浮かべながらソファーに腰を降ろしたジェブは、内心気味が悪くて仕方がなかった。
吉田とは、彼が英国駐剳大使だった時からの知り合いだが、別に深い付き合いがあったわけではない。正に“知り合い”だ。
そんな自分と、こんな所で一対一の非公式会談を行おうとすることを、怪しむなという方が無理である。
おまけに、テーブルの上には湯気を立てているティーカップが二つときている。
「突然申し出をお受け頂き感謝致します、男爵閣下」
「いやとんでもない。ちょうど今日は休暇ですので。それに大使閣下が私に用事となると、聞くのも野暮なことに決まってますからな」
無論、ジェブは自分の休暇が何時であるかなど、公表してはいない。
「左様、聞くのも野暮なことは言うのも野暮です。しかし、言わねば先に進めませんので言わせて頂きます。今現在、不幸なことに戦争状態にある我が国と貴国との講和問題ですが……」
「やはりその件ですか……しかし大使閣下。講和の話し合いは、英日開戦後にスウェーデンのストックホルムで始められているはずですが」
「そう。事実今日現在まで続いております。しかし彼等は一年以上の時をかけても、何ら成果を上げておりません。つまるところ、スイスの国籍マークを付けた機体を使ったとは言え、ドイツの影響下にあり、また各地にドイツ軍が駐留しているフランスの上空を通過してこられた男爵閣下に、わざわざお越し頂いたのは事態の打開が目的なのですよ」
吉田はそう言うと、目の前のティーカップを取り上げ、さも旨そうに薄茶色の液体を口に流し込んだ。
「私の個人的な意見を申し上げれば……」
吉田に倣い、ティーカップを手にしたジェブは遠慮がちに口を開き、そのまま紅茶を含んで間合いを取った。……それほど旨くは無い。
「我が国の現政権が貴国との開戦に踏み切ったことは、前政権がナチスに対して融和政策をとり続けたことと同じくらい、やってはいけないミスだったとは思っています」
「貴国の首脳部の現在のお考えはどうでしょう?」
「……直接確認した訳ではありませんが、恐らく後悔はしているはずです。ですが、間違いに気付いたら潔くすぐに方針を転換出来る程、我が国は機敏……と言うより柔軟ではありません。世界最大の海軍に商船団、優れた工業力で世界を支配してきた大英帝国の歴史が、この期に及んで足かせになっているのです」
「大国故の、プライド、ですか?」
自嘲気味に言うジェブに対し、微妙に同情の念を覚えた吉田は確認するように言った。
「我が国にも似たようなものがあります。もっとも、傲慢不遜もいいところですがね」
大日本帝国が“大国”だの“列強”だの言われるのは、単に外見で判断されているだけである。というのが吉田の持論であった。
すなわち、内実はともかく日清、日露の両戦争に勝ってしまい、先の大戦では幸運にも勝者の側に身を寄せながら未曾有の経済及び技術の発展を果たし、世界三大海軍国と呼ばれるだけの大海軍を「持って良いよ」と言われて、本当に持ってしまっただけでなく、男女普通選挙制度に支えられた政党政治の元、どういうわけか欧米列強と同等ではなくとも引けをとらない技術力と経済力を得てしまったのだ。
それがインフラが整い比較的豊かな都市部と、地主勢力が衰え都市部と鉄道や道路で結ばれただけの農村部の間に、大きな壁を造りながらの行為であるということを無視しながらである。
「しかし、最早プライド云々を言っていられる余裕を我々は持ちません。またいつ何時、ロンドンに爆弾が降ってくるかという状況ですから」
“英本土航空決戦”と呼ばれる英独空軍の戦いは、英国本土南部の制空権喪失という英国空軍の敗北に終わり、その結果一時的にとは言えドイツ陸軍による本土占領を許した英国であったが、英国本土からの撤退後にドイツが始めた対ソ戦やアメリカの参戦により、それらの出来事は過去の悪夢となりつつあった。
しかしスターリン政権の崩壊によって、事態は再び英国民の眠りを妨害する兆しを見せている。
“ソビエト社会主義共和国連邦”という国家自体、存続しているにはいるのだが、所詮は反スターリン派がクーデターによって権力を握った政権であり、良し悪しは別にして前政権のような求心力はどこにも無い。
結果として、それまでスラヴ民族に支配されていた連邦内の共和国でも、現地民族によるスラヴ民族が実権を握る共和国政権に対するクーデターが頻繁し、ソ連の地図は“ドイツに占領された地域”“新政権に従う地域”“連邦からの独立を画策している地域”“物好きなことに前政権への忠誠に燃える地域”の四色に塗り分けられている。
ソ連が空中分解を起こしたということは、ウラル山脈以西のいわゆる“ヨーロッパ・ロシア”を“ゲルマン民族の生存圏”として欲しくて仕方の無い総統閣下にすれば非常にありがたいことだ。
一方で、大々的な組織的抵抗が起こり得ない戦況から英国が懸念するのは、東部戦線のドイツ軍に余裕が生まれることである。
ちなみに、この時点でのドイツ陸軍の様子を簡単にまとめると……北方軍集団は、冬季には凍結してしまうとは言え、米英による対ソ援助船団の寄港地であったムルマンスクとアルハンゲリスクを押さえながら、ボログタに前線司令部を置いてウラル山脈に続く北ウバルイ丘陵のキーロフを伺っている。
昨年六月のモスクワ攻防戦での消耗から立ち直りつつある中央軍集団は、一部の部隊をオカ川に沿って前進させてゴーリキーを狙うと共に、リャザニにある主力部隊にはソ連の臨時首都クィビシェフを目標に定めさせている。
スターリングラードを完全制圧した後、B軍集団とドン軍集団を基に新設された南方軍集団は、カスピ海沿岸のアストラハニを手中に収めつつ、クィビシェフに南西方面から進撃する準備を整えている。
念願のバクー油田を手に入れ、A軍集団を基に部隊が整理されたカフカース軍集団には、破壊された油田や精製工場の再建や安全な輸送ルートの構築に忙いのか、新たな進撃の様子は見られない。
北アフリカにあったアフリカ軍集団はスエズ運河を突破し、部隊名をパレスチナ軍集団と変えてイラク方面への侵入を図っている……というふうになる。
「これは我が王立空軍の情報部が入手したものですが、ドイツ空軍は新たに新設した部隊の他、東部戦線や北アフリカ戦線から引き抜いた部隊を加え六番目の航空艦隊を編成し、司令部をルクセンブルクに置いたとのことです」
「なるほど。つまり北フランスやノルウェーにある既存の部隊と協同し、再び貴国を狙っているというわけですな」
「左様、今のソ連空軍はルフトヴァッフェにとっては弱敵にしか過ぎないようです」
自嘲気味な声色でジェブは言う。時が経てば、自分達の番であると怖れているようだった。
「しかしかの航空決戦時はともかく、今貴国の本土には米国の空軍部隊が駐留し、ドイツ本土に爆撃を敢行しているとか。東部戦線の空に余裕が生まれたからと言って、果たしてドイツが自分の空を放置しながら人の空を侵すでしょうか?」
吉田は英国大使時代、頭上で繰り広げられる“航空決戦”で英国空軍が敗れるのを実際に見ているし、ドイツ軍が上陸してからは在留邦人をまとめてイングランド北部に避難した経験を持つ。
だから、英国軍を庇うことだけはしない。
「ドイツ軍が優先項目を間違えているわけではありません。その証拠に、我が方の戦略爆撃機の被害も日に日に増大しているようです。また米国には太平洋戦線での爆撃機の消耗も響いているらしいですよ」
「では米国にお伝え下さい。むやみやたらにトラックを空襲しない方が良いですよ、と」
大使館付の海軍武官から、帝国海軍がラバウルを攻めるなどあり得ないという話を聞かされていた吉田だが、無論直接そんなことを言えるはずはない。
「……ここだけの話ですが、米国はラバウルに展開する爆撃機を減らし、欧州方面に回す計画を実行しているとのこと。トラックの貴軍も少しは休めるのでは?」
当然だがジェブは、この話がここだけのものになるとは思っていない。その両目は何か見返りを要求していた。
「そうですか……そう言えば私の所の海軍武官曰く、我が海軍が行なっているインド洋に於ける通商破壊作戦に、明確な期限は決められて無いらしいですよ」
意地の悪い笑みを浮かべてそう言った吉田の両目に、明らかに失望したジェブの顔が写る。
貴重な情報には違いないが、同時に脅しでもある。
そして吉田はここで会議の主導権を握るべく、秘密兵器の投入に踏み切った。
「これは当然非公式の提案ですが、我が国としては対米戦争の間に限って、シンガポールの飛行場と港湾施設だけは使用し続けたいと考えています。ですから、日英講和が成立した暁には、シンガポールは我が国へ貸与して頂き、その他の地域の扱いについては貴国に一任したいと思います」
「一任、と仰いますと?」
「もちろん言われればすぐに撤退しますし、治安維持に協力してくれと言われればしかるべき兵力を駐屯させ続けます」
事も無げに言った吉田とは対照的に、ジェブは束の間絶句した。想定外の提案だったのだろう。
「スエズ運河を突破したドイツ軍はそのままメソポタミア方面に進むだろう。私の所の陸軍武官はそう言っていましたが、もしそうなった場合、トルコが黙っていますかな?」
「……中東方面について言えば、我が軍の戦力はどう見ても不足しています。閣下の仰る通り、万が一パレスチナのドイツ軍とカフカースのドイツ軍が連絡を果たしたなら、トルコは枢軸側に立って参戦するでしょう。ドイツ軍の兵站能力にもよりますが、西からインドが脅かされる危険性が零であるとの保証は、どこにもありませんな。それならいっそ……」
日本と講和し、東の脅威を取り除くべきだ。ジェブは思わずそう言いそうになり、慌てて飲み込んだ。吉田のペースに乗せられたことに、遅ればせながら気付いたのだ。
「新たな戦線をパレスチナに張る、というのはどうでしょうかな?」
一つ目の仕掛けを突破されたと悟った吉田は潔くそれをあきらめ、代わりに二つ目の仕掛けをジェブの前にそっと置く。
「パレスチナに? いやしかしドイツ軍が彼の地にいる以上、すでに戦線は存在していますが」
吉田の発言の真意を図りかねたジェブは、吉田の術中にはまらぬよう慎重にそう言った。
「いえ、私が言いたいのは、パレスチナの南に上陸作戦を敢行されてはいかがか。ということですよ」
「……は?」
「聞くところによると、仏領モロッコに上陸した貴国等連合軍の進撃は、完全に行き詰まっているらしいですが、この方面でも事態の打開が必要でしょう」
北アフリカから枢軸軍を叩き出し、合わせて地中海の制海権を握ってイタリアを南から伺うべく、“トーチ作戦”を発動して北アフリカへの上陸作戦を敢行した連合軍であったが、戦況は最悪であった。
昨年中にカサブランカのヴィシー・フランス艦隊を無力化すると共に同地を占領し、さらに仏領アルジェリアのオランに上陸したまでは良かったのだが、東進してアルジェを攻略しようとしたところで、枢軸軍の反撃を受けて大敗北を喫したのである。
……少し具体的に説明すると、エジプトを占領下に置いたことにより、ギリシャ−クレタ島−アレクサンドリアという、パレスチナ軍集団向けの新たな補給路を得た枢軸軍はイタリア本土防衛のため、マルタ島に展開するイタリア空軍に守られたシチリア−チュニスの補給路をフル活用し、てアルジェリア死守の体制を整えていたのだ。
そして、ユルゲン・フォン・アルニム陸軍上級大将を司令官に戴く二代目のアフリカ軍集団は、ドイツ軍やイタリア軍だけでなくヴィシー・フランス軍までもを傘下に置いていた。
対する連合軍は、猛将ジョージ・パットン陸軍少将率いる米第一機甲軍団を先鋒にアルジェに攻勢をかけ、その直前に反ヴィシー政権のフランス人が行なった工作の効果もあって、これを占領することに成功していた。
ところがアルジェの郊外に布陣していた、ゴットハルト・ハインリキ陸軍上級大将率いる独第五装甲軍に不用意な攻撃をかけた時点で、連合軍の“つき”は完璧なまでに失われた。
パットンのような猪突猛進型の指揮官に、防衛戦闘の大家で機甲部隊の指揮に手馴れたハインリキを攻めさせたのがそもそもの間違いなのだろうが、連合軍はアルジェから一歩踏み出してしまったばっかりに、歩兵と戦車にそれぞれ師団級の損害を受けただけでなく、せっかく手に入れたアルジェを奪回されるという大失態を演じていたのである。
「もちろん、その過程で米軍の輸送船を攻撃したりはしません。我が国に一切の危害を与えないと誓い、事前に通告して頂ければ。もっとも、なるべく喜望峰回りをお願いしたい……」
「ちょっとお待ち頂きたい」
これ以上放っておいたらさらにとんでもないことを言うのでは、という雰囲気を出しまくりながらベラベラと喋る吉田を、ジェブは必死に押し止めた。
「た、大使閣下の仰ることは英日講和がなってからの話。少し飛躍が過ぎませんか?」
「いえ男爵閣下。私の言いたいことはですね、日英講和が成立すれば、中東方面に向う米軍がインド洋を渡ろうとしても、我が軍は一切手を出さないということです。言うなれば講和の条件……最終的には貴国からの提案、という形をとって頂きたいですが」
「と、とりあえず大使閣下。英日二国間の問題についての議論が先では?」
「左様ですか。それでは貴国の条件をお聞かせ下さい」
はっきり言って、ジェブはこの非公式会談のためにスイスに来たわけではない。
別件で来たところ、偶然吉田に見つかってしまったというのが正しいのであり、いくら英国外務省の幹部の一人とは言え、彼がこれから述べるある意味“無責任”かつ“無担保”な発言がどう転ぶのか。言おうとしている本人が一番知りたい大いなる謎であった。
「まず、我が国は貴国が戦っている米国と同盟関係にあります。故に我が国には太平洋戦線に於いては、中立を宣言する以上のことは出来ません。オーストリアやニュージーランドに貴国との講和を働きかけることも、恐らく出来ないでしょう。それでも宜しいのですか?」
「構いません。問題は日英二国間のことであり、講和条約が将来の第二次日英同盟の布石となればそれで良いのです」
そして、不気味さ満点の笑顔を浮かべてそう言った吉田の顔を見て、ジェブは途方も無く恐ろしい事実に今更ながら気が付いた。
「……大使閣下。正直認めたくはありませんが、我が大英帝国には講和の条件についてとやかく言える権利などありません。出来るのは、貴国の条件を軟化させることぐらいですが、閣下のご提案をこれ以上軟化させることは困難でしょう。むしろ、幸運なのかもしれませんな」
ジェブはここにきて、吉田に向かって白旗を上げるという行動を選択した。
早過ぎ、また唐突過ぎる気もしたが、粘ったところで何も起きないし、良く考えてみれば粘る要素も無い。
日英同盟を英国側が一方的に破った後、フィリピンのルソン島の救援に向かった英国海軍東洋艦隊は、“大和型戦艦”という帝国海軍の新鋭戦艦の存在を察知仕切れなかったために壊滅し、海上の防壁を失った東南アジアの英国植民地は、次々と帝国陸軍に占領されてしまった。
その後、セイロン島で戦力を立て直した東洋艦隊は、圧倒的戦力でもってインド洋に進攻してきた帝国海軍によって、二度目の壊滅を味わった。
さらに今年に入り、通商破壊のために再びインド洋にやって来た帝国海軍に対しては、何一つまともな反撃を撃てずにいる。
少なくともこの方面では、大英帝国はひたすらに敗け続けているが、ここに来ての日本からの講話の提案は、藁をも掴もうとしているところに投げ込まれた浮き輪に等しかった。
「とりあえず大使閣下。貴国からの提案は必ず本国政府に伝えるとお約束致します。ただ、今回の会談はあくまでも非公式。貴国の望まれる結果が素早く出て来るかどうかの保証は出来ませんので、その点については悪しからずご了承頂きたい」
「承知しました。それでは良い返事を待たせてもらうとしましょうか」
そう言った吉田は鼻眼鏡を軽く押し上げ、会談の終了を示すように立ち上がると満面の笑顔のまま右手を差し出した。
反対に、ぎこちない笑みを浮かべたジェブは力無く吉田の右手を握ると、左腕に掛けていた外套を着るのも忘れたまま、背後についた吉田に押されるようにして退出していった。
「ひとまず、第一段階は成功ですかな?」
この旅館の玄関までジェブを見送った吉田が部屋に戻ってくると、そこには先程まではいなかった三人の男達が、紅茶の入ったカップを片手に吉田の帰りを待っていた。
その内の一人、スイス連邦駐剳大使館付陸軍武官の辰巳栄一陸軍少将は、吉田がソファーに腰掛けるなりまずそう言い、同海軍武官の横井忠雄海軍少将と特命全権大使特別補佐官という良く分からない肩書きを持つ白洲次郎の二人は、カップを机に置いて吉田の応えを待った。
「まぁ、そんなところだろう。男爵殿はこちらの狙い通りに危機感を持ったようだからね」
吉田は辰巳から受け取ったカップを口に運び、それによって曇った鼻眼鏡に顔をしかめながらも、どこか楽しげにそう言った。
「我々が掴んだ情報によれば、男爵殿は三日後に英国へご帰還なさる。第二の行動は彼の報告を受けた英国政府の動きを見極めてからですな」
多摩の田舎で、隠居翁のような悠々自適な農耕生活を送り始めた矢先、吉田によってスイスに引っ張り出された白洲がそう言うと、早くも紅茶を飲み干した辰巳が口を開いた。
「講和に応じるかどうかはともかくとして、英国政府が交渉のテーブルに着くことは間違い無いでしょう。あれだけの情報を聞かされればなおさらですよ」
横井がカップをこねくり回しながら言う。
「ともかく、中立諸国に対する工作も一層強化する必要がある。もはや“国際連盟の常任理事国”などという肩書きは、連盟が事実上無くなってしまった以上役に立たんが、我が帝国の信用度はまだまだ捨てたものでは無い。諸君の人脈にも期待していますよ」
そう言った吉田の前職は“大英帝国駐剳大日本帝国特命全権大使”であり、辰巳のそれは“大英帝国駐剳大使館付陸軍武官”、横井は“大ドイツ帝国駐剳大使館付海軍武官”というものだ。
民間からの抜擢人事にあたる白洲は除くとしても、三人揃って単純に考えれば今の役職は降格人事だが、この時期のスイスの国際的な立場を考えればそうではないということが分かる。
永世中立を宣言しているスイスは、地理的に世界大戦のど真ん中にいながらにしてそれとは無縁であるという、一見奇妙な立場を持つ国家であるが故に、交戦各国の“外交戦争”の主戦場と化している。
つまり、それぞれの国家の最も有能な外交官達が集まっているとも言えるのである。海外勤務の豊富な将官が大使館付の武官に選ばれるのも、極めて必然的なことなのである。
「しかし欧州諸国の中で、頼りになるのは中立を宣言しているスウェーデンとポルトガルぐらいでしょう。ドイツと組んでいる東欧諸国が協力するとは思えませんし、そもそも欧州のほとんどがドイツの影響下では……」
「そのスウェーデンとポルドガルも、すでに日英講和の際には仲介役を務めると言ってくれていますが、それ以上のことをやるとは思えませんな」
「残る中立国は……ここスイスにバチカン……前者は一番協力的ではありますがいまいち積極性に欠けますし、後者は中立と言いつつ枢軸寄りの国家ですからね」
「アンドラやサンマリノは……考えるだけ無駄ですかな」
「欧州が駄目なら南米諸国でしょうか?」
「アルゼンチンはれっきとした反英国家ですからな。他の国々も、協力してくれたとしてもスウェーデンやポルトガル並がせいぜいでしょうね」
国際感覚にそれはそれは優れている三人は、何か考え事をしている風な吉田の目の前で、諸国の情勢に通じているがためにある意味不毛な議論を重ねていた。
「他の国々の仲介が期待出来ないのならば」
するとそんななか、三人の議論に一切の口出しを慎んでいた吉田が、不気味な微笑を顔中に浮かべて口を開いた。
「我が国が当事者として、無理矢理にでも英国を引っ張り出すしかなさそうだ。英国は我が国が、近代的な立憲君主制の帝国として発展する際、非常に世話になった恩人ではあるが、同時に我が国との同盟を一方的に廃棄して宣誓布告をした裏切り者でもある。我々は慈善事業をするためにスイスにいるわけではないから、それ相応以上の代償を、やはり払ってもらう必要があるだろうな」
穏やかでありながら宣言文を読むような口調で言った吉田は、続けていたずらっ子のような視線を横井に投げ掛けた。
「その点については問題ありません。連合艦隊と第八艦隊にはすでに伝えてありますから」
吉田の意図することをその目から読み解いた横井は、やれやれといった解答口調でそう言った。
数日後、細かな編成替えによって第三及び第五航空戦隊を主力とする機動部隊になっていた帝国海軍第八艦隊は、果敢にもアラビア海を突き進んでオマーン湾に侵入。ペルシア回廊を使ってソ連へと送られる物資を、起点となる港湾都市……ブーシェフル、バンダルシャプール等……に運ぶ輸送船の中継地点の一つである、イラン王国のバンダルアッバースに対して二派合計三〇六機の航空攻撃を敢行。同地の港湾施設を完膚無いまでに叩きこれを壊滅させた。
日本側が“ホルムズ海峡航空戦”、連合軍側が“ペルシアの危機”と呼ぶことになるこの出来事は、衰退の著しいソ連を支えている唯一の補給路が、パレスチナに侵入したドイツ軍に攻撃される以前に、その手前で遮断される確率の方が遥かに高いという現実を、連合軍の面前に容赦無く突き付けつけていた。