九三 帝国海軍の独り歩き
大日本帝国の帝都、すなわち東京府の東京市と言えば、ニューヨークやロンドン、ベルリン、パリ等にも引けをとらない世界有数の大都市であることに疑いの余地は無い。
だが今は、帝国の総力を挙げてのある意味無謀ともとれる戦争の真っ最中だ。
昼間はともかく、夜になれば街を行き交う人や車の数は激減し、市内を縦横に走る乗合自動車や市営地下鉄、路面電車はもちろんのこと、鉄道省や私鉄の列車も近郊長距離を問わずに減便され、街の明るさも平時のそれとは比べものにならない。
帝国の総力戦体制を規定した“国家戦時体制法”に基づく電力供給制限が主な元凶であるが、そんなものは知ったことではないとばかりに、電気を普段通りにしかも大量に使う者達もいる。
一九四三年一月二〇日、午後九時三〇分。
霞ヶ関に建つ帝国総合作戦本部の五階にある、暖房の良く効いた本部長執務室で遅めの夕食をとろうとしている二人の将官など、まさにその代表例であろう。
「それで? 根回しは粗方済んだのか?」
「うん。衆議院の中立議員と貴族院は八割方大丈夫だ。社会大衆党も明日には片付くだろう」
行政府の長である内閣総理大臣と、帝国陸海軍の長である帝国総合作戦本部本部長を兼任する堀悌吉海軍大将は、海軍兵学校の同期で作戦本部本部長代理を務めている山本五十六海軍大将の質問にのんびりと答えた。
「そいつは結構」
堀の答えに満足した山本は、手配しておいた地元である新潟県長岡市の地酒の一升瓶と、それとはいささか不釣り合いな二つのガラス製のグラスを、おもむろに取り出しながら言った。
「だがなあ……今でも時々考えるのだが、やはり総理大臣と本部長は貴様の方が適任だったのではないか? 侵攻してくる米艦隊を返り討ちにし、続けて英国東洋艦隊を滅ぼし、さらに帝国海軍の総力を挙げてのハワイ攻撃を指揮した連合艦隊司令長官。国民受けは完璧だろうに」
「人気は大切だがそれだけじゃ駄目だ。一時の世の流れに乗っかって政権を握ったところで、能力がなければすぐにボロが出るし、能力が無ければ国民はついてこない。今でこそ衆議院第一党だが、くだらん内紛やら分裂ばかり繰り返して、田中義一内閣以来立憲民政党政権を潰せなかった立憲政友会が良い例だ。その点、貴様は完璧なんだよ」
「……それはそうと、明後日の衆議院本会議。貴様はどうなると思う?」
山本の誉め言葉もどきに苦笑いを浮かべた堀は、ふと思いついたように話題を変えた。
「まず間違いなく予算案は可決されるよ。立憲政友会と立憲民政党の与党だけでも充分なんだからな。問題はその後だ」
「予算案の内容が公になった後の軍部の反応か?」
「そう。特に冷遇された部署の連中の反応だ。おとなしく従ってくれればそれで良いが、もし万が一政府を批判されれば色々と厄介だろう」
「そうだな……特に危ないのは陸軍の歩兵科だろうが」
「今の陸軍執行部が多数派の歩兵科の突き上げにどこまで耐えられるか。要はそこだな」
山本はそう言うと勢い良くグラスを傾け、目の前に置かれた朱塗りの弁当箱の蓋を開けた。
時間が時間であるため、二人の前に置かれた弁当の中身の“量”は大したことはない。いわゆる夕食にしては少なく夜食にしては多い程度だ。
だが、“質”は半端なものではない。
人であろうと物であろうと何であろうと、帝国陸海軍のものが最優先とされるご時世であるため、主だった物品は事前に内務省が強制的に組織させた、町内会を通して配られる切符との交換、つまるところ配給制になっている。
東京の山の手に立派な屋敷を持つ華族や、三〇年代に立憲民政党政権が強く推し進めた自作農育成政策によって大きな打撃を受けたものの、未だに隠然たる力を持つ地方の有力地主等の“金持ち”達は、彼等独自の“別ルート”を使って、一般庶民が逆立ちしても手が届かないようなものも入手出来るが、彼等も堀や山本が食べようとしている高級食材を手に入れることはかなりの難事である。
もっとも、堀や山本に一般庶民やある程度裕福な者でもありつけない高級品を、いとも容易く手に入れていることへの罪悪感はほとんど無い。
何しろ二人は大日本帝国における超エリートの代名詞である“帝国海軍の高級将校”なのだ。飢饉が日本を襲っても、平気でフルコースを食べていた彼等には、当たり前のことだとさえ思えるのである。
「……しかしまぁ、陸軍の事はとりあえず置いて置くとして、海軍は大丈夫か? 来年度予算案と同時に発表する第二次戦時海軍軍備充実計画。俺の見る所、こいつはかなりの八方美人だぞ」
「どの辺から反発が来ると思うんだ?」
再び話題を変えた堀に対し、山本は彼の懸念をぼんやりと察しながらも、あえて尋ねた。
「内容からすれば軍令部と航空本部が最有力だろう。貴様、何だかんだで南雲君の思い通りにさせていないか?」 年明け以来、堀は内閣総理大臣として多忙な日々を送っていたため、軍事関連の事柄の処理を山本に一任する傾向にあったのだが、少なくとも上がってくる書類には片端から目を通していた。
その結果“海軍の至宝”と呼ばれた堀の頭脳は、山本の言動の不一致を看破していたのだ。
「貴様は井上君の新軍備計画論を、予算案公表までに発表するよう奨めたらしいが、一方で連合艦隊が求めていた大鳳型航空母艦の追加発注を許可している。戦域不拡大方針や部隊の休養を理由に、嵐号作戦に消極的だった片桐君を説得して、連合艦隊の要求通りの艦隊を編成させたのも貴様。軍令部を差し置いて、連合艦隊独自の作戦立案能力を高めるために、総司令部付きの士官の増員要求を高須君をなだめつつ認めたのも貴様。いくらなんでも“繋ぎ役”の南雲君の要求を尊重し過ぎではないか?」
「一応、断っておくが」
堀の発言内容が予想通りであったことを確認した山本は、箸を置きことさらゆっくりと言った。
「貴様が今挙げた三つの具体例は、俺が連合艦隊司令長官時代から検討されていたもの、つまり俺や俺の参謀達の発案だったものだ。南雲君の発案じゃあない」
「……では聞かせてもらおうか。貴様が自分の発案を押し通した訳を」
「よぉし、聞かせてやる」
ちなみに、山本は下戸であるため酔いの回りが早い。
そんな彼が“一升瓶”を持って来た理由は定かでないが、堀はそっと瓶を掴んで、これを山本の手の届かない机の下に置くのを忘れなかった。
「まず軍令部だがな。この戦争が終わって、帝国海軍が生き残っていようと壊滅していようと、どっちにしろつぶさなけりゃならん組織だと思う。俺は第五艦隊司令長官として、また連合艦隊司令長官として実戦部隊の指揮をとってきたが、軍令部の存在を目障りに思ったのは一度や二度じゃない。制度上は海軍大臣の指揮下にあるが、伏見宮殿下が妙な事をしてくれたおかげで、成績は良いが潮気の無い士官の溜まり場になってしまった。軍政部門の勤務が多かった貴様には分かるまいが、実戦部隊にとって、そんな連中が机上で考えたことを押し付けられること程嫌なことはない」
「……い号作戦。あれは軍令部発案だが、中々まともではなかったか?」
「見た目だけはな。だが良ぉく見てみるとガタガタだったよ。おかげでどれだけ苦労したことか……とにかく、軍令を司る組織があたかも独立しているかのように威勢を上げるなど、時代錯誤も甚だしい。この総力戦の時代に、ビスマルクやモルトケの制度が有用な訳が無い」
吐き捨てるように山本がそう言うと、堀は大きく息をはいて口を開いた。
「……参謀本部及び軍令部関連法案」
「……何だそれは?」
「詳細は知らんのだが、政友会の一部議員が裏で検討しているらしい。場合によっては、廃止。に踏み込むかもしれん」
「ほう。仲間がいたか」
「……ま、理は貴様達にあるな。とりあえずこの戦争が終わらんことには無理だが、予算案が貴族院を通過したら接触だけでもしてみようか」
「いや、貴様は駄目だ、危険過ぎる。俺に任せておけ」
親友の顔に泥を塗られることを恐れた山本が立ち上がって身を乗り出すと、堀は苦笑しながらやはり微妙に酔っている親友を席に座らせた。
「……さて、嵐号作戦だが、別にこの件について文句はあるまい。なぜ持ち出したんだ?」
「確かに作戦目的に文句は無い。だがな、投入兵力がちと多過ぎはしないか? 通商破壊に新鋭軽巡四隻に三五〇機の艦載機というのは」
「いや、少ない。嵐号作戦の究極の目的は英国を講話会議に引っ張りだすことだ。そのためには、インド洋に絶えず我が帝国海軍の艦艇が存在していることが有効なのだ。場合によっては、この間英国が西インド洋航路の安全確保のために占領したマダガスカル島を攻撃することもあるだろう」
「……まぁ、俺としてはそれで我が軍に被害が出なければ構わんよ」
どのみち、この手の件で貴様を言い負かすことは出来ん。と、堀が胸中でつぶやいていることなど知る由も無い山本は、一人話題を進めていた。
「最後に空母だが……実を言うとな、翔号作戦直後に井上君から帝国海軍の空軍化のアイディアを聞かされたとき、俺は大鳳型航空母艦の追加発注要求を取り下げようか悩んでいたんだ。井上君の言う通り、我々が防衛に徹する限り空母を造るより飛行場を拡張した方が遥かに安上がりだからな。年明けと共に井上君から計画論の草案を見せられた時は、九割方そっちに傾いていた」
「ほう。では何が貴様の気を変えさせたのだ?」
「南雲君だよ」
「……貴様の彼に対する評価は、戦術家としては天下一品だが戦略家としては凡庸。塚原君が生きてさえいれば、大学校の校長に戻るのがふさわしい……ではなかったのか?」
「あぁ、その通りだ。だがな、彼の考えることは一味違う。特にこの作戦案など、今の軍令部の連中は思いもよらんだろうな。やっぱり彼は天下一品の戦術家だ」
ただし、連合艦隊司令長官としてふさわしいかは別の話だぞ。と付け加えながら、山本は軍服のポケットから四つ折りにされたわら半紙を取り出し堀に手渡した。
「…………ほほぅ。なるほど、斬新なアイディアだ」
「だろう? 一目見て気に入ったんだ。だがそのためには、もう空母二隻分の艦載機が必要なんだよ」
「……すると、向こうしばらくはこの二隻以外の正規空母の新規建造は無い。ということか?」
「あぁ、いくらなんでもこれ以上は非現実的だ。とは言えこれらが完成したあかつきには、我が帝国海軍の誇る機動部隊は二〇〇〇機近い艦載機を持つことになる。これに井上君が精力的に増強を進めている基地航空隊と強力な水上打撃部隊、そして南雲君の作戦案を発展させたものを合わせれば、敗れることなくこの戦争を乗り切れるだろう」
「……三〇年」
「ん?」
なぜか妙に自信満々の山本とは対照的に、堀は妙に神妙な声色で言った。
「我が国が関税自主権を回復してから、まだ三〇年程しか経っていない。要は、欧米列強に我が国が法制上並んでからそれだけしかたっていないのに、帝国海軍と言えばいまや世界最強の海軍にまで成長している。帝国海軍に奉職した以上は驚喜すべきかもしれんが、いささか海軍の独り歩きが過ぎんか?」
「海軍だけが米英に並んでも、国家のシステムが追い付けていない。ということか?」
「そう。はっきり言って我が国のシステムは一貫して総力戦に向いておらん。欧米列強が二五年前実際に行なったレベルの総力戦を、我が国が行えるようになるのは何年先のことやら」
「しかし貴様のことだ。何かしら良からぬことを考えておるのだろう?」
「ふっ、ばれたか?」
「当たり前だ。だてに四〇年も付き合っとらんよ。もっとも、本部長代理の俺には関係無いし口出しすることも出来んがな」
(代理の貴様が政治に口出し出来ない代わりに、どうやら本部長の俺は軍事に口出し出来なくなってしまったようだがな……)
「どうかしたか?」
「いや、何でもないよ」
自嘲的なことを考えて黙ってしまった堀だったが、そのことは固く封印して適当に取り繕った。
「そうか。ところで、酒はどこにいった?」
半年程前までは一月あたり四話更新のペースだった拙作も、作者が大学受験を控えている身であるため、最近は半分の一月あたり二話更新のペースでお届けしております。
もし、拙作の更新を心待ちにして頂いている方がいらっしゃるのなら大変申し訳ありませんが、このペースを後三ヶ月ばかり続けたところで打ち切るため、私事ではありますが努力しておりますので、ご辛抱の程よろしくお願いします。
そんな訳で、次話の更新は来年になることが予想されます。
ご意見、ご感想お待ちしております。