九二 連合艦隊の嫌がらせ
「錨上げ! 繋留索解け!」
「両舷前進微速!」
一九四三年一月二〇日、午前九時過ぎ。
穏やかな陽光に照らされた横須賀軍港を冷たい北風が吹き抜けるなか、帝国海軍第二護衛艦隊に籍を置く軽巡洋艦『入間』の羅針艦橋に、艦長の川井巌海軍大佐の号令が響いた。
錨を巻き上げる不協和音が艦橋内にも届くなか、『入間』は艦全体を微かに振動させながらゆっくりと動き始める。
「見張りより艦橋。六三戦隊各艦出港します」
「後部見張りより艦橋。八二戦隊各艦出港します」
「了解……ところで大井君。例の計画論を君はどう見る?」
僚艦の動きを伝える見張り員に応えながら、川井は今回『入間』に“便乗”している海軍士官に意味もなく話しかけた。
「そうですね。まぁ一言で言えば、井上航本長らしいというところでしょうか」
話しかけられた海上護衛総隊作戦参謀の大井篤海軍中佐は、先日配布された“新軍備計画論”の第一印象を素直に述べた。
「井上さんらしい、か。確かにそうだな……両舷前進中速。『沙流』に続け」
「……もっともあの計画論は、明らかに明後日概要が発表される予定の“第二次戦時海軍軍備充実計画”に対する牽制でしょう。何の拘束力も無いとは言え、井上さんは航空主兵論者の重鎮として自分の意見をはっきりと出したのだと思います」
「なるほどな。だが、それほど躍起になることではないと思わんかね? 何しろ第一次の計画艦からして、第二次の計画艦は小型艦艇中心になるだろうからな」
「思い立ったが吉日ということでしょう。それに航空隊の増強の問題もありますし」
「そうだな。しかし我々としては今まで通り護衛艦隊向けの艦艇と、対潜哨戒機装備の航空隊を増強してくれればそれでいいわけだから、関係無いと言えば無い話だな」
ここで大井は、川井の口調がどこか寂しげになっていることに気付いた。
『入間』の属する吉野型軽巡は細部こそ違えど、帝国海軍の軽巡洋艦のスタンダードとして一九三八年から実戦配備された利根型軽巡を基本的に踏襲した走攻守のバランスのとれた汎用巡洋艦であり、同型艦四隻で編成された第一四戦隊は有力な水上打撃部隊として、開戦前から活躍が期待されていた。
しかし緒戦のウェーク島沖海戦に於いて、奮戦の末に三、四番艦の『太田』と『天龍』を失った後、本来ならその穴を埋めるべき『沙流』と『入間』は結局、竣工以来第一四戦隊には編入されず、二隻で第五一戦隊を組んで船団護衛に勤しんでいる。
発注及び竣工時期が半年以上ずれているため、吉野型軽巡の一番艦から四番艦を“第一期グループ”と呼ぶのなら、『沙流』や『入間』以下の艦は“第二期グループ”と呼ぶことになる。当然のごとく設計図には様々な目的から手が加えられている。
そのため、川井が艦長として預かっている『入間』は、公式には“吉野型軽巡洋艦の六番艦”だが非公式に“沙流型軽巡洋艦の二番艦”とも呼ばれている。
両者の決定的な違いは搭載する主砲であり、“吉野型”が前級の利根型と同様の三年式五〇口径一五,五センチ連装砲を積んでいるのに対し、“沙流型”は九七式六〇口径一五,五センチ連装砲を積んでいる。
長砲身化による砲弾初速の向上による装甲貫徹力や射程の増大は無論のこと、一〇年という時をかけて培われた帝国海軍の技術力は速射性能を一,五倍の毎分九発に押し上げ、この速射性能を維持したまま仰角を七〇度までとることを可能としたのだ。
つまり“沙流型軽巡”はこの時点で帝国海軍が保有する軽巡洋艦の中でも、突出こそしていないが一段優れた対艦及び防空能力を保持していることになる。また燃料タンクの増加やエンジンの改良により、目に見えない部分だが航続性能も多少上がっている。
……にも関わらず、所属は護衛艦隊。
高い能力を持つ軽巡洋艦として建造されながら、その任務は水雷戦隊の旗艦でもなければ機動部隊の直衛艦でもなく、また対地及び対艦攻撃を主任務とする巡洋艦戦隊を組んでいるわけでもないし、占領地の小艦隊の旗艦でもない。まさかの“輸送船団の護衛”なのである。どれだけ役に立つのか分かったものではない。
少なくとも大井が知る限り、川井が自分の艦がこのような微妙な任務に就いていることを嫌がっているということはないが、やはり心のどこかに引っ掛かるものがあるらしい。
「……それにしても、豪華な船団だなぁ」
横須賀軍港を出港後、『入間』が三浦半島の城ヶ島沖に達したところで、しばらく操艦の指示以外は黙っていた川井がおもむろに口を開いた。
“M11船団”と名付けられたこの船団を護衛するのは、第二護衛艦隊司令長官の阿部嘉助海軍中将が座乗する『沙流』と『入間』からなる第五一戦隊を筆頭に、松型駆逐艦六隻よりなる第六三戦隊、一号型護衛艦九隻よりなる第八二戦隊からなる強大な艦隊だ。
そして“M11船団”を構成するのは、何も積んでいない中型タンカー一四隻と中型鉱物輸送船八隻、帝国陸軍南西方面軍向けの弾薬や車両を満載した陸軍船舶工兵の操る輸送船一〇隻、食糧を満載した給糧艦『伊良湖』『久須見』の計三四隻である。
護衛艦艇も含めて五一隻の艦艇群は、海上護衛総隊直属部隊として対潜哨戒の任を務めている、第九二一海軍航空隊所属の零式水上偵察機が頭上を飛び交うなか、ゆっくりと対潜陣形でもある輪形陣を組み上げていく。
「通信より艦橋。旗艦より入電。『艦隊針路二一〇度。発動一〇二〇』以上です」
「了解……ところで大井君」
「何でしょうか?」
「こんなことをいまさら聞くのもどうかと思うのだが、なぜ君はシンガポールへ向かうのに本艦を使うことを希望したのかね? どう見ても、羽田飛行場からシンガポール行きの定期便に乗った方が遥かに良いのではないか?」
「はぁ……私は満中戦争の期間中、第五艦隊の作戦参謀を務めていましたが、戦争終結に伴う支那方面艦隊の解隊の後、海軍省軍務局に異動し、海護総隊の編成と共にこの作戦参謀に任ぜられ今に至ります。正直な所、一人の海軍軍人として軍艦や大海原が恋しくなってしまったのです。無論時間はかかりますが、新見長官(海軍中将、新見政一海上護衛総隊司令長官)の許可も取り付けてありますので」
「そうかね……面舵一杯。本艦針路二一〇度」
(まったく。見えすいた嘘をつきおって……)
気持ち半目で作戦参謀氏を見る親愛なる艦長の表情を、訝しげに見ている航海長に指令を発しながら、そうとは知らない川井は一方で大井の発言は嘘であると直感的に感じていた。
(新見長官がいかに人の良い御方であるとは言え、自分の作戦参謀に事実上の長期休暇を、しかも個人的な理由で許されるはずはない。つまり何か裏がある)
もっとも、大井の発言が嘘であると認識したことは良いとして、その先のこと、すなわち裏にあることを聞き出すことははっきり言って無理であり、川井も認めたくはなかったが自覚していた。
何しろ相手は何かの会議の場に於いて、結論が出かかったところでそれを無遠慮にひっくり返すため“バット大井”という異名をとる男だ。
井上成美帝国総合航空本部本部長でもない限り、彼を論理的に倒すことなど出来るわけがないのである。
にも関わらず、川井は意味の無いことと分かりつつも悪あがきを試みた。
何しろ、暇、なのだ。
「しかし、我々はただの艦隊ではない。懲りずに侵入してくる敵潜から鈍足の輸送船団を守りながらの航海だから、予定通りに到着出来るかどうかも分からんのだ。仮にも海護総隊の作戦参謀ともあろう者が、そんなにのんびりしていて良いのかね?」
まさか川井が質問を重ねてくるとは、予想もしていなかったのであろう。
思わずキョトンとした大井だったが、少しずり落ちていた眼鏡を指で軽く押し上げると、何とも言えない不思議な笑みをたたえながら口を開いた。
「おっしゃる通り異常なことです。帝国の生命線を守る海護総隊の作戦参謀のすることではありません」
「何を言っているのだね? 君はその作戦参謀だろう?」
「えぇ、その通りです」
(いかん。まったく意味が分からん……だが、間違い無く裏があるぞこれは)
実のところ、大井は川井の質問に素直に答えているだけなのだが、妙な笑みを浮かべているせいか川井の思考回路は勝手に混乱を始めていた。
(まてまて。落ち着け……そういえば、なぜ旗艦ではなく本艦なのだ?)
「大井君、ではなぜ君は阿部長官の旗艦の『沙流』ではなく本艦を選んだのかね?」
「それは艦内設備の問題です。ご存知のように、我が帝国海軍には艦隊の旗艦用艦艇として専門の熊野型軽巡が存在するため、『大和』にしろ『蒼龍』にしろ『沙流』にしろ、小さな艦隊か戦隊司令部が乗れるだけの設備しか持っていません。二護艦の司令部要員数はそのことをふまえてかなり抑えられていますが、それでもかなり窮屈しているようです」
「要するに、艦内の余裕の程度が理由ということか?」
「まぁそういうことです。『沙流』を使用しての最後の航海を邪魔したくはありませんから」
「……最後の航海?」
まったく予想もしていなかった大井の発言を受け、川井は一際怪訝そうな声色で問い返した。
一方の大井も、まさか川井がそのような発言をするとは予想していなかったため、考えをまとめようとしばし黙っていたが、やがて結論めいたものに行き着いたのかおずおずと口を開いた。
「ひょっとして艦長。何も聞いておられないのですか? 今回の出撃に関して」
「横須賀を出撃後、呉を経由したうえでシンガポールに向かう輸送船団の護衛。と、木村参謀長(海軍少将、木村昌福海上護衛総隊参謀長)に伺ったが」
「それだけですか?」
「それだけだ。阿部長官は何も言っておられなかったしな」
「呉に立ち寄る理由については?」
「別の輸送船団が待機しているそうだな……それがいったいどうしたのだ?」
何が何だかさっぱり分からん、と考えています。と、顔に分かりやすく書かれている川井を見て大井ははっきりと悟った。
……この人は可哀想なことに何も聞かされていない。一応、教えてやるべきだろう、と。
陸軍省の傘下組織としては、陸軍教育本部と並ぶ巨大な組織である帝国陸軍参謀本部の内、情報を担当する第二部の欧米課英国班が、ロシア課の面々が大騒ぎするなか掴んだ“英国政府が帝国との単独講話に踏み切る可能性は、米国政府のそれに比べ極めて大なり”という新情報は……比較対象に問題があるが……米国との講話は当分望めないと悟った日本政府をおおいに喜ばせた。
だが、英国と講話を結ぶには何かしらのきっかけが必要だ。
そして、その“きっかけ”として帝国海軍連合艦隊が提案したものが、“嵐号作戦”と呼ばれるインド洋に於ける通商破壊作戦である。
これはかつて行なったような派手だが一過性のものではなく、連合艦隊隷下の部隊を入れ替わり立ち替わりインド洋に送り込むという、嫌がらせ的な面を多分に含んだ作戦であり、必然的にこれらの寄せ集め部隊を統括する艦隊が新たに必要となった。
連合艦隊司令長官の南雲忠一海軍中将が海軍兵学校同期の新見と相談し、海軍大臣の片桐英吉海軍大将に掛け合って急遽編成されたこの部隊の名は第八艦隊といい、司令長官には三川軍一海軍中将が任命されている。
一年前まで同盟国だった英国を敵陣営から引きずり降ろすための第一陣に『入間』が含まれ、しかも呉に到着し次第第八艦隊の首席参謀に大井が異動するという話を聞いた時、川井はこの話を容易く信じることが出来なかった。
しかし、ハワイ帰りの『飛鷹』とインド洋で大破した後、急ピッチで修理を片付けた『隼鷹』の二隻の正規空母、彼女達が搭載する二〇〇機に及ぶ艦載機からなる第五航空戦隊や、四隻の軽空母と一四〇機近い艦載機からなる第七航空戦隊を始めとし、『沙流』『入間』と共に第一五戦隊を組むことになる同型艦の『夏井』『雄物』、その他旗艦用の『仁淀』以下軽巡二、駆逐艦一六、護衛艦六、特設巡洋艦四、特設水上機母艦四が呉軍港に待機していることは紛れもない事実であった。