九一 北アフリカの枢軸軍
「……で? このソビエトの新政権とやらには、ナチスの連中を押し戻す神通力か何かがあるのかね?」
「まぁ、無いでしょうな」
「……まったく迷惑な話だ。もそっと地力があるかと思っておったが」
「強大な権力で民衆を抑え込んでいる国家ほど、いったん生じた綻びを繕うのは難しいものです。むしろ首都が陥落してから一年以上持ちこたえたことを評価すべきかもしれません」
一九四三年一月一七日。
ワシントンDCはホワイトハウスの大統領執務室で、国務長官のコーデル・ハルは合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトに向かって苦笑いを浮かべながらそう言った。
「参謀本部としてはこの件をどう見ている? ソ連の新政権が持つ陸軍兵力は大したこと無いのであろうが、何かの役に立つのならこちらの対応も変わってくるからね」
「参謀本部がこれまでに入手した情報から判断する限り、少なくとも彼等の陸軍兵力では現状維持すら難しいでしょう。ですから参謀本部としては、ソ連を戦略上のファクターから外すことを提案いたします」
合衆国陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル陸軍大将の発言を受けたルーズベルトは小さくため息をつくと、ハルに向かって再び口を開いた。
「ソ連の大使館はどうなのかね?」
「えぇ、第一報が入って以来何度か国務省に呼び出してはいるのですが、彼等も正確な情報は掴みきれていないようです。何しろ大使自ら慎重な行動をとるよう我が方に忠告してきた程ですから」
「ふむ。仕方がない。やはり我々独自にあの国の正確な情報をつかんで、これからの戦略に反映させねばならんな。あの欲深い連中はスターリン政権が崩壊したことを良いことに、さらなる膨張に走るだろうからね。そこでだ、ミスター・キング」
ルーズベルトはいったん言葉を切ると、居並ぶ側近達の中でも気持ち影の薄い合衆国海軍両洋艦隊司令長官兼海軍作戦部長のアーネスト・キング海軍大将に話しかけた。
「これ以上ナチスに苦しめられる人々を増やすわけにはいかんし、我々をこれを減らさなければならん。その第一歩はまず北アフリカ戦線における勝利だが、そのためには地中海の制海権を握らねばならん。しかしだ。イギリスのチャーチル首相とも話したのだが、昨年末に海軍が提出した作戦計画ではちと遅すぎる。何とかならんかね?」
「はぁ……」
キングの直感ははっきりと「無理!」と叫んでいたが、かといって状況的にそのまま言うわけにもいかない。
「事が急を要していることは充分承知しておりますが、かといって訓練未了の艦隊を前線に出すわけにはいきません。これから先のことも考えれば、決して無理をすべきではないと思います」
慎重に言葉を選びながらキングがそう言うと、鋭い視線を彼に注ぎながら聞いていたルーズベルトは首を振って言った。
「海軍の台所事情が非常に厳しいことは重々分かっている。艦隊の再建もさることながら、ハワイの復興という大問題も抱えて本当にご苦労なことだ。だが、ミスター・キング。我々は海軍の事情に従って戦争をやっているのではない。空母機動部隊を出せないのはまぁ仕方がないとして、航空隊や水上砲戦部隊は何とかなるのではないかね?」
「……至急検討の上、お答えいたします」
あからさまな皮肉に満ちたルーズベルトの発言に対して、キングはこの一言を返すのが精一杯だった。
しかし、なるほど。確かに母艦航空隊は出せる。
開戦前に保有していた五隻の正規空母と二隻の軽空母全てを失ったとは言え、彼女達が撃沈されたタイミングのせいもあって搭乗員の損失はそれほどでもない。
それに加えて新人クルーの養成も機体の生産もいたって順調であり、機体を運ぶ護衛空母や護衛駆逐艦も揃っている。
だが航空機だけでは制海権をとることは出来ない。
三隻のキング・ジョージ五世級戦艦を主力とし、ジブラルタルに展開している英国海軍地中海艦隊といえども、トゥーロンやタラント等に展開するヴィシー・フランス海軍とイタリア海軍を破ることは兵力的に不可能であり、地中海を連合軍が確保するためには何よりも合衆国大西洋艦隊の派遣が急務なのである。
だが、開戦前に保有していた主要艦艇の多くを帝国海軍との戦いで失っているため、合衆国海軍にはそれだけの艦艇が無い。
そのため、第一線で戦える艦艇の中で数が揃っているのは駆逐艦くらいであり、大西洋艦隊に配属されているその他の新鋭艦は四隻のクリーブランド級軽巡だけなのだ。
建造を急がせてはいるものの、新鋭重巡のボルチモア級や新鋭戦艦のアイオワ級の一番艦の竣工は二月半ば以降とみられており、実戦に投入出来るのはさらに先の話だ。
おまけに合衆国海軍には、先月の帝国海軍の攻撃を受けて文字通り壊滅したハワイをボコボコにされてしまった張本人として、これも復興しなければならないという責務がある。
手痛い敗北はもちろん奇襲攻撃を受けた責任もとる形で、更迭され降格もされた前司令長官のチェスター・ニミッツ海軍少将から、太平洋艦隊司令長官の職を受け継ぎ昇進したレイモンド・スプルーアンス海軍大将名義の報告書によれば、帝国海軍戦艦部隊の艦砲射撃に蹂躙された真珠湾工廠や要塞の復旧は、その見通しすら未だにたっていない。
復旧作業に勤しんでいる間に再度の攻撃を受ければまさにえらいことになるため、まず真っ先に行われているハワイ諸島の航空要塞化こそ順調に運んでいるが、一方で真珠湾を始めとするオアフ島南岸は重油にまみれた死の海と化している。
そのため、ホノルル等の街の住民を強制的に他の島に移住させると共に、汚染拡大を防ぐために真珠湾はその狭い湾口を完全封鎖され、軍による必死の除去作業が行われているが、真珠湾が再び対日戦争の要としての価値を取り戻せるのは数ヶ月先どころの話ではない。
また太平洋艦隊は総司令部をハワイ島のヒロに移転させ、同島のヒロ湾を真珠湾が元通り使えるようになるまでの間、太平洋艦隊の仮根拠地として使用するための工事を進めている。
しかし、例によって予算は途方も無く膨れ上がり、合衆国の巨大な財布に冷や汗をかかせていることもまた事実である。
「さて、ミスター・マーシャル。北アフリカについてだが」
海軍のことはもうこれで終わりだ。という意味を言外に含ませながら、ルーズベルトは話題を変えた。
「スエズはどうなのだ? 私が聞いた話ではかなり危ないことになっているということだが」
「正直、もったとしてあと二、三日でしょう。つまり少なくとも明明後日には、英国政府から悲痛な連絡が入ることになります」
短期間の平穏を経て、一九四一年三月に再び始まった英独戦争において、まずドイツが第一に重視したのはバルカン戦線であり、地中海に浮かぶクレタ島を占領した後、ドイツは国家の総力を上げての対ソ戦争を開始した。
これらの主要戦線の影に隠れがちではあるが、リビアやエジプトといった北アフリカに於いても戦争は行われている。
かつて地中海一帯を支配したローマ帝国の再来を夢見たまでは良しとして、肝心の戦闘で敗北に次ぐ敗北を重ね悲鳴を上げていたイタリア軍を支援するために、ドイツアフリカ軍団を率いるエルヴィン・ロンメル陸軍大将が、伊領リビアに上陸したのが同年四月一二日。
北アフリカ戦線に降り立ったロンメルは、総統閣下の“専守防衛を第一とすべし”という命令を半ば無視し、対峙するイギリス第八軍に比べれば遥かに規模の小さいアフリカ軍団と、時たま英独両軍もびっくりする大活躍を見せる以外は基本的に役に立たたないイタリア軍を率いて、慢性的な兵力及び補給不足、さらには自らの体調不良に悩ませられながらも巧みな戦術を駆使しながらジリジリと進撃を続け、一九四二年五月には戦略上の要衝であるトブルクを占領した。
そして、七月一日に開始されたエルアラメインの戦いでは、主として戦車戦力の欠乏と植民地徴集兵をかき集めた英軍の頑強な抵抗を受け、英軍防衛ラインに深く食い込んだものの突破出来ない自軍をロンメルがいったん引き上げさせたため、独伊枢軸軍は損害の程度から戦術的にはともかく戦略的には敗北した。
だが、“北アフリカ”という局地的な戦域の戦況に“世界大戦”という大局の流れに逆らう力は無い。
第八軍はエルアラメインの防衛ラインこそ保持したが、大局は消耗した兵力を回復する術を第八軍から奪ったのである。
具体的には、まずマルタ島の失陥であり、次いでインド方面での敗北があげられる。
前者は地理的に、枢軸軍の勢力圏内に打ち込まれた連合軍の楔としての価値があり、イタリア本土から北アフリカに至る枢軸軍の海上輸送路を妨害する拠点としてだけでなく、地中海を西から東に突っ切ってエジプトに至る連合軍の海上輸送路を守る拠点としても、唯一無二の存在だったのだ。
この時点で英軍は東地中海に手を出せなくなり、近代戦には不可欠の“安全な兵站線”を失い、これを敵に与えるという“大失態”を演じたのである。
後者は残された補給ルート……ただでさえ遠回りの喜望峰回りの航路を、一時的とは言え麻痺させるという効果を発揮した。
何しろインド洋を守る英国海軍東洋艦隊は消え去り、代わりに世界最強の帝国海軍がインド洋を我が物顔で駆け回っていたのだ。輸送船団など怖くて出せたものではない。
その結果、当時バクー油田に向けて進撃中だったドイツA軍集団や中立国だが親独国でもあるトルコに対する抑え、そしてビルマ東部を占領している帝国陸軍や、彼等にそそのかされているインドの独立急進派に対する抑えとして、中東からイラン、インドに駐屯する部隊を一切動かせなくなり、本国からの補給も明らかに不足し始めたのだ。
対照的に、前線と港が遠いことを除けば至極まともな兵站線を手に入れた枢軸軍は、エルアラメインで受けた損害を埋めて有り余る補給を得、独伊両軍を指揮下に収めるアフリカ軍集団を新たに編成した。
司令官は無論、陸軍元帥に昇進すると共に丸々一ヶ月を持病の治療に充てて意気軒昂のロンメルであり、指揮下のドイツ軍装甲師団と歩兵師団は三個ずつを数えるまでに増強され、戦車も一号戦車や二号戦車は一掃され、少数の長砲身四号戦車と六号戦車及び、多数の三号戦車と短砲身四号戦車で占められていた。
さらに歩兵用の自動車や燃料弾薬、砂漠の戦場では調達不能の食料や飲料水をも多数確保したアフリカ軍集団は、一〇月二三日にエルアラメインへの第二次攻勢を開始し、司令官を“ダンケルクの生き残り”バーナード・モントゴメリー陸軍大将に代えた第八軍の必死の抵抗を一週間の時をかけて打ち破った。
その後、東部戦線はもちろんのこと英国本土からの戦略爆撃に対する防衛に国力の大半を持っていかれたため、希望通りの補給を得られない状態が続いたアフリカ軍集団だったが、その手のことにある意味慣れているロンメルは敗走する英軍を焦ること無く緩やかに追撃し、一二月一八日にエジプトはカイロの占領を宣言した。
アフリカ軍集団はここで短期間の休息と戦力の再編を行うと、年明けと同時にこれまでとうって変わって、スエズ運河に対する猛攻撃を開始したのである。
「……最終的な勝利は我が合衆国のものであり、合衆国こそが世界を支配すべき大国であるということに変わりは無い。また物事が計画通りにいかないことも自明の理だ。見方によっては計画など現実には起こり得ないことの羅列でしかない。しかし、諸君。ただ遠回りをしているだけならまだしも、このままではベクトルが変わってしまいかねん。時間は我々の味方だが、今日現在の合衆国に時間的余裕は無い。そのことをよく肝に命じて仕事にあたってもらいたい」
ルーズベルトの長々とした宣言が解散の合図となり、合衆国軍を動かす将軍達は敬礼するなり執務室を去って行った。
合衆国を巡る戦況が今以上に悪くなり、それに従って大統領の支持率が急降下し、万が一連邦議会で大統領の弾劾が決議されようものなら、その時は私だけではない。君達の首も名誉も綺麗に吹き飛ぶことを忘れるな……というルーズベルトの無言の圧力を背中に受けながら。
半年ぶりの加筆訂正。第三八話から第四〇話です。
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