九〇 スターリングラード
(……なぜ山口君が?)
一九四三年一月九日正午前。
帝国海軍連合艦隊司令長官の南雲忠一海軍中将は、緊急の会議が行われるという帝国総合作戦本部の第二一号会議室に向かう途中、廊下の向こう側より歩いてくる第一一航空艦隊司令長官の山口多聞海軍中将の姿を認めるなりそう思った。
もっとも、山口が作戦本部にいることが問題なのではない。
緊急の招集命令によって、東京近郊に司令部を構える司令長官が、ただ単に全員呼ばれたのだと解釈すればそれで済むからだ。
では南雲が疑問に思った点は何なのかと言えば、厳密に言えば山口自身ではなく彼の隣を歩く二人の人物の存在である。
(なぜ山本本部長代理と井上君が一緒なのだ?)
この場合、三人が偶然出会って一緒に歩いているのでは、という推測は成り立たない。
なぜなら第一一航空艦隊の司令部は羽田にあるが、作戦本部本部長代理の山本五十六海軍大将の執務室は本部庁舎の三階にあり、井上成美海軍中将が本部長を務める帝国総合航空本部は、昨年の八月に羽田から赤坂に移転しているからだ。
つまり普段の居場所はバラバラであるはずの三人が、作戦本部の正面玄関とは正反対の方向から揃ってやって来るなど、前もって集まっていない限りあり得ない。
「やぁ南雲君。わざわざすまんね」
「いえ。それよりもいったい何事です」
そんななか、自分達が疑問に思われているとはまったく気付いていない山本に声をかけられると、南雲は咄嗟に表情を消して当たり障りの無い疑問を口にした。
「ふむ。詳しくは筑波に視察に行ってしまった堀が帰ってから皆に伝えるが、ソ連がえらいことになったのだよ」
「はぁ、なるほど……」
えらいこととは具体的に何なんです? というごく自然に生まれた新たな疑問を口にしかけた南雲は、山本の表情を見て思わず絶句した。
山本の表情を一言で表せば“微笑をたたえている”といったところに落ち着くのだが、それだけなら普段通りで何の問題も無いし南雲も見慣れている表情だ。
問題は山本の両目にある。
そこには南雲の知っている温かな光は無く、代わりに何か気の毒気な光が宿っていた。
南雲は浴びたこともない山本の視線に思わずたじろき、一礼して会議室の中に飛び込んだ。
(いったい何なんだあの目は? ……いやよそう。余計なことを考えるのは)
ある意味賢明であり、ある意味現実逃避的な考えに辿り着いた南雲は、たまたま会議机の上にひろげられていたソ連の地図に視線を走らせ、専用列車内で聞いた情勢を改めて確認し始めた。
ベルリンのドイツ国防軍総司令部やドイツ陸軍参謀本部曰く、長引いても二週間で終わるとされたスターリングラードを巡る攻防戦が、二週間どころか二〇週間近く経った今も続いている最大の原因は、皮肉なことにドイツ軍自身にあった。
例えば、カフカース地方の各地に点在していたものの、強大なドイツ陸軍A軍集団の電撃的な進撃の前に戦わずして退却したソ連軍部隊がスターリングラードに集結し、同地に大規模な防御陣地を構築している。という情報を軽視してみたり、あまりにも速く進撃したために補給部隊が追い付いていなかったにも関わらず、彼等の到着を待たずに攻撃を開始してしまったこと、そして快進撃にご満悦の“総統閣下”が、こともあろうに本来の戦略……A軍集団の後方及び補給路の安全確保……を見失い、不倶戴天の敵であるもう一人の独裁者氏の名のついた都市の占領に固執したことなどがあげられる。
一方のソ連軍はと言うと、ドイツ軍が市街地への突入を前に盛大な砲爆撃を加えてきたために、街中が瓦礫の山と化してしまったが、逆に狙撃兵にとって絶好の狙撃ポイントを多数獲得し、市街地の北方に軍需工場群を建設していたこともあって、何とか防御戦闘の下準備は整えつつあった。
さらには、モスクワやレニングラードの奪回に失敗したソ連にとって、前述のように国家の独裁者の名を冠した都市を失うということは、ありとあらゆる面でマイナスの結果を生み出すことであるため、第二次奪回作戦の発動が後ろにずれ込むことを承知で、ヴォルガ川の水運を使ってなけなしの増援部隊を送りこみ続けてもいたのである。
さて、勢い良く市街地に突入したドイツ陸軍B軍集団は、とりあえずヴォルガ川の水運を断ち切るべく進撃を開始したが、瓦礫の山を前にしてたちまちのうちに停滞を余儀なくされた。
B軍集団に属する第四装甲軍隷下の装甲師団は瓦礫の中ではまるで役に立たず、ちまちまと進む第六軍隷下の歩兵師団も、制圧したはずの場所にいつの間にか忍び込んだソ連軍の狙撃兵に狙撃され、日に日に損害ばかりが蓄積していったのだ。
そうこうしている間に月日は流れ気が付けば一一月を迎えていた頃、B軍集団は恐るべき事態に直面していた。
スターリングラード市内で市街戦を続け、何とかソ連軍を一ヶ所に追い込んだと思った頃、塵も積もれば山となる、いや小隊も集まれば師団となり、歩兵だけで実に七〇万もの兵力が市街地から北にわずか一〇〇キロの地点に集結していたのである。
B軍集団司令官のマクシミリアン・フォン・ヴァイクス陸軍上級大将は、司令部のあるスタロビリエスクでこの報に接するや直ちにベルリンに援軍を求め、スターリングラード市内の第六軍に攻撃を中止して新たに出現したソ連軍に備えるよう命令を発した。
だが、遅かった。
季節はすでに冬であり、偵察機が飛べない悪天候を味方につけて部隊の展開を終えていたソ連軍は、B軍集団に防衛態勢をとる余裕を与えることなくT34中戦車を先頭に立てて急進し、たちどころに第六軍の側面を守っていたルーマニア陸軍第三軍を粉砕してしまったのである。
ルーマニア第三軍を粉砕したソ連軍は進撃スピードを緩めることなく、そのまま第六軍をスターリングラードごと包囲するために、対戦車戦闘能力に欠けるルーマニア軍を次々と撃破していった。
対する第六軍司令官のフリードリヒ・パウルス陸軍大将は、ヴァイクスの指示通りに防衛態勢を整えつつあったが、一方で迫り来るソ連軍を過小評価し戦いの成り行きにも楽観していた。
この発想はドイツ軍の上層部共通の“常識”……失敗に終わったモスクワ奪回作戦に於いて甚大な損害を被ったソ連軍に最早余力は残されておらず、彼等は現状維持が精一杯であろう……に基づいていたため、参謀達も隷下部隊の将軍達も誰一人として反対意見を発することはなかった。
ところが、アンドレイ・エレメンコ陸軍大将に率いられたソ連南西方面軍は止まることを知らず、パウルス達がのほほんとしている間に、市街戦に役に立たたないため後方で待機していた第四装甲軍と第六軍の連絡を遮断し、ドン川に架かるカラチ大鉄橋を占領したため、包囲網の完成はすぐそこに迫っていた。
ここにきてさすがのパウルスも危機感を覚えたが、かといって彼の手元にある部隊だけで防ぐことは到底不可能であった。
T34の正面装甲を貫通出来る長砲身の七五ミリ砲を積んだ四号戦車は数が少なく、北アフリカ戦線で有効性が確認されモスクワ防衛戦でも大活躍した八八ミリ高射砲も、部隊の規模に対する絶対数が不足していたのである。
「我、敵軍に包囲されつつあり。脱出の許可を求む」
早急に脱出しなければ包囲殲滅されてしまう。こう考えたパウルスは嫌な予感を覚えながらベルリンに電報を打ったが、彼の予感は見事に的中した。
「第六軍はスターリングラードを死守せよ。友軍が救援に向かうまで、補給は空軍が担当する」
一一月二二日付のこの“総統命令”を受け取った第六軍は、必然的に悲壮な覚悟を固めることを強いられ、二三日の夕刻にはソ連南西方面軍によって完全に包囲されてしまった。
一方、ドイツ軍が第六軍救出のために用意した兵力は、各地の空軍部隊から引き抜いた輸送機の大部隊と、クリミア半島のセヴァストポリ要塞攻略後にバクーに向けて進撃するA軍集団の後方を守っていた、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥の第一一軍を増強したドン軍集団の二つである。
前者について多少詳しく説明すると、これは空軍参謀総長のハンス・イェションネク空軍上級大将の発案によるもので、空軍総司令官のエルンスト・ウーデット空軍元帥は懐疑的だったが、かつてドーバー海峡の制海権を失った後も英国本土の陸軍部隊を三ヶ月に渡って空輸のみで養ったという事実が、例によって総統閣下のGOサインを引き出したのというものである。
さて、一二月三日に第六軍救出作戦である“冬の嵐作戦”が発動され、増援を受けた結果六号戦車“ティーガー”装備の重戦車大隊を持つ装甲師団が、隷下に三個も存在していたドン軍集団は南西方面から進撃を行い、同一一日にはスターリングラードを包囲した所で息切れを起こしていた南西方面軍に対し攻撃を開始した。
総統閣下の死守命令を律義に守るパウルスが、内側から包囲網を破る“雷鳴作戦”を発動しないという齟齬はあったものの、もはや南西方面軍も正面を防ぐだけで手一杯であり、ドン軍集団はマンシュタインの立案した的確な戦術に従ってひたすら前へ前へと進撃し、大雨による泥濘や肝心な時に故障する六号戦車に悩まされながらも、晴天の日には急降下爆撃大好き人間であるウーデットが実戦配備を急がせた新型高速急降下爆撃機Ju185“コメート”……怪しげな手段で手に入れた艦上爆撃機“彗星”……が空を舞い、反撃を図るT34中戦車を片端から撃破するなど、全体的な戦況はドイツ軍有利にジリジリと進んでいった。
そしてクリスマスを目前にした二三日。
パルチザンに鉄道を破壊されたためフランスからの到着が遅れていた第六装甲師団がようやく前線に到着したことを受け、マンシュタインは年内に包囲網を撃ち破るべく増大した長砲身装備の四号戦車部隊と動ける六号戦車のほぼ全て投入した総攻撃を下令。二六日にはその内の一部隊がついに包囲網を突破することに成功した。
そして包囲網を破られた南西方面軍は浮き足立ち、反対にドン軍集団の戦意が大きく向上したためか、二八日に開始された掃討作戦は面白いように上手くいき、ドン軍集団は年内にスターリングラードへ通ずる道を確保することに成功したのである。 無論それで戦いが終わるはずはなく、南西方面軍は市街地北方に造っておいた堅固な防御陣地に退却した後も、スターリングラードを伺い続けた。
ドイツ軍としても、激しい妨害を受けて充分な補給を受けられなかった第六軍や、戦いには勝ったとは言え消耗したドン軍集団の回復が最優先であるため積極的な行動には強い制限がかかり、良いことなのかどうかは別として、市街地の一角に立て籠っているソ連軍はドイツ軍の攻撃を受けることを免れていた。
こうしてスターリングラードを巡る攻防戦は中途半端な所で一段落を迎えていたが、東部戦線全体を見渡して見れば明らかにソ連軍は抑え込まれていた。
中でも決定的なのが、国家自体の継戦能力をも左右するであろうバクー油田の失陥である。
現地調達主義が原因の燃料不足と急峻な地形、そしてパルチザンの妨害を受けて遅々とした進撃しか出来ていなかったドイツA軍集団であったが、当初の予定から大幅に遅れた一一月二七日にようやくバクーに対する攻撃を開始し、一二月一〇日には同地を完全に占領してしまったのである。
ただし、油田設備は何もかもが粉微塵に破壊されており、総統閣下が狙った石油の確保が叶ったとは言えない結果ではあった。
しかし、ブラウ作戦はとりあえずは成功した。一九四二年の東部戦線は、ドイツのものとなったのである。
さて、東京である。
「遅くなって申し訳ない。早速ですが外務大臣。よろしく願います」
一番最後に現れた総理大臣の堀悌吉海軍大将は席に着くなりそう言った。
堀に名前を呼ばれた外務大臣の東郷茂徳は、小さな紙片を手に立ち上がり口を開いた。
「クィビシェフの駐ソ連大使館からの緊急連絡ですが、同地に移転しているソ連政府内部において何者かによるクーデターが起こり、スターリン首相以下政府幹部が逮捕及び投獄された。とのことです」
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