八九 南雲新司令部の悲劇
一九四三年一月九日、午前九時三〇分。
文字通り大日本帝国の中心地である、東京の霞ヶ関にある帝国海軍所管の建造物と言えば、まず浮かぶものは“赤レンガ”と通称される海軍省であるが、現在ではその隣に建てられた七階建ての一見どこにでもありそうな建物によって、存在感が薄くなっている感があった。
さて、その海軍省の庁舎の存在感を薄めている、帝国総合作戦本部の庁舎の正面玄関前に、三台の黒塗りの四輪自動車が相次いで停止した。
停まるやいなや、前後の車から帝国海軍の警察組織である海軍警務隊の制服に身を固めた男達が三人ずつ飛び出してきて、中央の車の周囲に細やかな人垣を作る。
そして、中央の車の中から海軍中将の記章を付けた黒の第一種軍装を着た将官と、海軍大尉の記章を付けた将官の副官らしき人物が降りてくると、六人の警務隊はそのままその将官と尉官の周囲に人垣を作って前進した。
正面玄関で警備にあたっている帝国陸軍東京憲兵隊の二人の憲兵は、自分達の方にやってくる警務隊員の姿を見て露骨に嫌な顔をしたが、彼等に護衛されている将官の顔を見るなり踵を鳴らして敬礼した。
将官はおうように答礼を返すと副官だけを伴って作戦本部の中に入り、残された六人の警務隊員は二人の憲兵の存在にまるで気付いていないかのようにして車に戻った。
(まったく。いつまでいがみ合っているつもりだ)
ちらりと後ろを振り返って、憲兵隊と警務隊との間の確執を改めて目の当たりにした帝国海軍第一一航空艦隊司令長官の山口多聞海軍中将は、心の中で深い溜め息をついた。
(まぁ、憲兵隊にすれば己の領分を侵食されたようなものだからな……全ての原因はあのクーデター、と言ってしまえば一言で済むのだが……)
海軍警務隊は誕生してからまだ半年程しか経っていない若い組織であるが、その創設理由は帝国陸軍統制派によるクーデター未遂事件である五・一五事件にある。
それまでは陸軍の憲兵隊が、海軍の要人警護や多くの司令部庁舎の警備をも担っていたのだが、事件に東京憲兵隊が関わっていたことに危機感を覚えた海軍が“憲兵は信頼に値せず”として半ば強引に創り上げたのだ。
「さて、確か四階の第四三号会議室だったな?」
「はい、左様です」
後で連中に注意しておこう。と、一人ある種の結論を出した山口は副官に向かって確認を求め、確認が取れると玄関ホールの突き当たりに三台あるエレベーターの前を通り過ぎて、そのままエレベーターホールの隣にある階段を一気に登り始めた。
帝国海軍一の大食漢と言われ、どこからどう見ても肥満体である山口であるが、海軍兵学校時代からの並外れた運動神経の良さと強靭な肉体は五〇歳を過ぎた今も健在であり、息を切らすこと無く四階に達すると、そのままあっという間に第四三号会議室のドアの前に着いた。
「君はここで待っていてくれたまえ」
そして山口は背後の副官に一言かけると、ノックもせずにドアを開いた。
この第四三号会議室は庁舎の南西側の角に位置しており、部屋はほぼ正方形と言ってよい形をしている。
そして部屋の中心に円形の机が置かれており、その円周上には合わせて一二個の椅子が配置されているが、入口の脇に置かれた書記官用の椅子はもぬけの殻であり、昨年の年末に山口が現在の職務を非公式に言い渡された時と同様に、少なくとも公式な会議が行われる気配は無い。
「やぁ。朝早くに呼び出してすまなかったな」
すると、山口がドアを閉めるのに合わせて、山口を呼び出した張本人である帝国総合作戦本部本部長代理の山本五十六海軍大将が口を開いた。
「いえ。羽田は近いですから問題ありません。内務省の政策のせいか、交通量も大したことありませんでしたし」
「鉄道利用推進政策か。要は民間向けのガソリンが充分に確保出来んだけなのだかな」
「確かに、ガソリンはほとんどが軍に回されてますからな」
山本の左隣に座っている、帝国総合航空本部本部長の井上成美海軍中将は苦笑しながらそう言うなか、山口は足早に山本の右隣の椅子に着席した。
「さて、山口君。君にわざわざ来てもらった理由だが、見当はついているかね?」
「えぇ、恐らく私を一一航艦の長官に任じたことが、この淋しい会議の伏線の一つでしょうな」
「ほぉ、流石だな。それが分かっているなら話は早い。とりあえずこれを読んでくれ。それで何か引っ掛かる点があれば、遠慮なく聞かせて欲しい」
そう言って山本は、山口に一枚の紙を手渡した。
上部には『新航空軍備計画論草案』とあり、隣に小さく『海軍中将井上成美』とある。
(やはりそう言うことか。しかしこの題名は前作の流用だな)
山口は例によって心の中でつぶやくと、視線を走らせて万年筆で書かれた箇条書きの文章を読み始めた。
「……どうだ? 遠慮なく言ってくれ」
山口が一通り読み終えたのを見計らって作成者である井上がそう言うと、山口は一つ息をはいて喋り始めた。
「まず最初にお伺いしたいのは航空隊の戦力増強ですが、艦載航空隊についての記述はあるのに空母の増強に関する記述がありませんね」
「ふむ。やはりそうきたか。空母機動部隊を率いて太平洋を縦横無尽に駆け巡ってきた提督である君には悪いが、はっきり言ってもう我々に空母は必要無い。今造っている艦も見方によっては無駄だな」
「どういう意味です?」
「一言で言えば、費用対効果の問題だな。先の翔号作戦の損害について議論が始まると、なぜか『矢矧』の喪失ばかりに話が集中するが、『厳島』という空母も一隻失っているのだ。それも当時二航戦司令官だった君の名で出された戦闘詳報を読む限り、かなり呆気なく沈んだそうだね?」
「はぁ。つまるところ航本長は、造るのに多額の資金と労力を要する割に脆弱である空母に頼るべきではないとおっしゃるのですか?」
「そうだ。例えば『厳島』が属する橋立型空母の搭載機数は六〇機強だが、それだけの航空機が作戦行動をとるために一万トン強の空母を一隻造るのと、陸上の飛行場を拡張するのとどっちが楽か。比べるまでもあるまい」
「確かにそうですが……しかし飛行場は沈まなくとも動けません。空母の最大の強みは、広大な海上を動き回り意想外の地点から攻撃隊を放てることだと考えます。このことは来るべき米軍との大海戦においても重要なことではないでしょうか?」
「おや、君らしくない事を言うな。今回の戦争において最も重要なことは戦場の制空権の確保。そして戦略の要衝にある飛行場を守り抜くことだ。にも関わらず、我が海軍の大多数の人間が主力艦隊同士の決戦ばかり気にしている。太平洋艦隊の撃滅イコール我が軍の勝利ではない。米軍の思惑を完全に打ち破ることがすなわち我が軍の勝利だ」
「そのために水上部隊よりも基地航空隊の増強を優先し、帝国海軍を空軍化するということでしょうか?」
「そう、端的に言えば私の考えはまさに帝国海軍を帝国空軍とすることだ。しかし、戦場が海の上である以上、帝国海軍はあくまでも海軍だ。水上部隊無しに戦うことは出来ん。そのことは三番目に書いた建造を優先すべき艦艇に表したつもりだがね」
「……最優先で建造を進めるべきは駆逐艦、護衛艦、潜水艦。建造すべきでないものは戦艦、空母、重巡。ですか」
「過激な考えであることは分かっている。しかしだ。つい七、八〇年前まで髷を結って刀を振り回していた我が国が、米英を敵に回したこの戦争で生き残るために見栄を張っている暇は無い」
「二五年程前、世界大戦の終結の後に我が帝国海軍は戦略の大転換を図った。具体的にはいわゆる八八艦隊計画の白紙撤回だが、当然のことながら凄まじい反対運動が巻き起こったものの結果的にこれが大成功であったことは君も当事者の一人として良く覚えているだろうし、身をもって体験もしているだろう。今回とて中身は違えど本質は同じだよ」
これまで井上と山口の会話をただ聞いているだけだった山本がそう言うと、山口は二分ばかりじっと考え込んでからおもむろに口を開いた。
ちなみに当事者とは、山口が先の大戦の期間中第二特務艦隊に籍を置き、遥か地中海まで遠征していたことによる。
世界大戦が終結し司令官を務めた第二特務艦隊が解散された後も、八八艦隊計画の白紙撤回に代表される帝国海軍の大改革の実施を最初に提案し、かつ推し進めた佐藤皐蔵海軍中将(当時。最終階級は海軍大将)のスタッフの中に彼も含まれていたのである。……閑話休題。
「個人的には、空母機動部隊あっての帝国海軍であるとの考えに変わりはありません。ですから、我が国が独立した空軍を持たないが故に海軍がその任を負わなければならない。そのように解釈してもよろしいでしょうか?」
「まあ微妙に違うことには違うが、君の考えを否定することは出来ん。とにかく、私はこの案件を早急にまとめて公布するつもりだ。だから帝国海軍はこの方針でいくことについては承知しておいてくれ」
微笑をたたえながら井上はそう言い、問題の紙を折り畳んで胸ポケットに差し入れた。
その光景を見つめながら、山口は数分前から頭に浮かんでいた疑問を解決すべく、おずおずと再び口を開いた。
「……あと一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか?」
「何だね?」
「なぜ、発表前のこのことを私に、いや私だけにお伝えになったのですか? 確かに私は本土防空部隊と航空機搭乗員の養成部隊を指揮する一一航艦の長官ですが……」
「君だから話をしたのだ」
「は?」
「我が帝国海軍のいったいどこに、君のような優秀な指揮官を本土に置いたまま、来襲する米軍を迎え撃って撃退出来る余裕があると思っているのかね? あるわけがなかろう」
「どういうことです?」
山本が言ったことをまるで理解出来なかった山口は即座に聞き返した。
「……ここだけの話だが、現在の帝国海軍の体制はあくまでも仮の姿、次世代までの繋ぎだ。具体的な例を挙げれば、私が南雲君を連合艦隊司令長官に推したのは、彼が連合艦隊司令長官にふさわしいからではない。彼の次、つまり小澤君やその次の君までの繋ぎ役としてふさわしいからだ。まぁ塚原君が生きていれば、こんなややこしいことをする必要はなかったのだろうが」
「南雲長官は戦術家、つまり前線の指揮官としての腕はトップクラスだし、水上砲戦をやらせれば彼の右に出る者はいないだろう。しかし、彼は戦略家ではない。本来ならそのような人物を連合艦隊司令長官に任ずるなど許されることではないが、幸か不幸か当分連合艦隊総司令部の出番は無い。戦争一年目に最も活躍した提督のポストとしては、最適というわけだ……気分の良い話では決してないがね」
どちらかと言えば暗い表情を浮かべているのに、何の躊躇も無く淡々と話す山本と井上に唖然とした山口は返す言葉を失った。
そんな山口にある意味追い打ちをかけるかのように、山本と井上の物騒な発言は続く。
「一一航艦の長官の引き継ぎの時にも言った分かりきっていることだが、君の任務は本土防空と帝国海軍航空隊の搭乗員の養成の監督だ。いつぞやの件は別として、前者の仕事で忙しくなることはまず無いであろうから、君は持てる力を総動員して搭乗員の大量養成に没頭してもらいたい。それから、当面航空行政の中身は航本から直接君に知らせる。無論連合艦隊にも伝えるが、彼等に干渉はさせん。君は君で、連合艦隊の顔色など見ずに独自にやってもらって構わない。ただし、二艦隊の小澤君や六艦隊の角田君、南東方艦の草鹿に海護総隊の新見長官、そして満州の五航艦とのパイプはしっかりと確保しておくようにな」
「うむ。さっきも言ったが、そのうち君には海上に戻って機動部隊の司令長官になってもらうつもりだ。そしてもし我が国が戦争に負けずに生き残った場合、君は終戦後の連合艦隊司令長官の筆頭候補になるだろう。そのことを心にしっかりと刻んで職務に邁進してくれ」
この山本と井上の発言に対して山口は相変わらず黙ってうなづきながら、人事の闇を見せつけられたことによる言葉に表すことの出来ない物悲しさを感じていた。
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