八六 人事異動の連鎖反応
一九四二年一二月二九日、午前一〇時。
東京は霞ヶ関にある帝国総合作戦本部の庁舎のとある会議室に、黒の帝国海軍第一種軍装に身を包んだ将官が数人集まっていた。
逆に海軍の将官以外、つまり文民や陸軍軍人、佐官以下の海軍軍人、そして会議にはつきものであるはずの書記といった人間は誰一人としておらず、この会議が非公式かつ何かを議論するのではなく、すでに決まったことをごく一部の人達に披露する場であることを、暗に示していた。
「やぁ。皆集まっているな」
すると、この会議を招集した張本人である米内内閣の海軍大臣百武源吾海軍大将が、後ろに連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将と、総力戦研究会会長の堀悌吉海軍大将を引き連れて会議室に入室した。
「さて、今日集まってもらったのは他でもない、帝国海軍の新たな人事の件についてだ。すでに聞き及んでいることと思うが、米内総理の病状は峠を越したと言ってもまだまだ予断を許さん。日米交渉が決裂し、帝国が戦争継続の道に歩を進めた以上、いくら米軍の襲来が二年以上先のことであるとしても、我が国には米内さんが回復されるまで総理と作本長の席を開けておく余裕はないのだ」
腰を下ろすなり口を開いた百武がまずそう言うと、出席者の一人である第一一航空艦隊司令長官の井上成美海軍中将が、右手を上げ百武に質問を発した。
「大臣にお尋ねしますが、今回の人事異動は総理及び作本長の交代が行われる都合上、前々から予定されていたものよりも規模が大きくなるのでしょうか?」
この井上の言う前々から予定されていたものとは、約二ヶ月前の連合艦隊の主要戦闘部隊の編成換えと同時に行われた、ある意味慣習を無視した人事異動の是正のことだ。
要するに、この段階で後ろにハワイ空襲作戦である翔号作戦が控えていたため、階級が上がったにも関わらずポストが変わらなかった者達を、その階級に見あったポストに改めて異動させなければならないのだ。
一応具体例をいくつか上げるなら、翔号作戦に参加した八隻の戦艦がそれぞれ属する第一から第四戦隊の四人の司令官全員や、艦隊司令部直率でない航空戦隊の内第二と第四の二人の司令官は、本来少将ポストであるこの役職を中将になっても引き続き務めていることなどが上げられる。
「それは無論だ。何しろ現役将官の最年長が米内さんなのだから。それに兵学校の卒業年次や卒業成績の下の者が、上の者を指揮するわけにはいかんからな」
井上の右隣に座っている第六艦隊司令長官の小澤治三郎海軍中将は、百武の返答を聞いて一礼した井上の顔や、百武の左隣に座っている堀の顔に微かな苦笑いが浮かんでいることに気が付いた。
(この期に及んで年功序列に固執してどうする?)
と、眼で語りかけてきた、卒業成績では自分に勝る兵学校同期の井上に、小澤は特に意味のこもっていない笑みをさりげなく眼で返した。
小澤自身も、“平時においては有用な制度である年功序列制を、そっくりそのまま戦時に適用するのはいかがなものか”という井上や堀の考えは理解出来るし、もっともだと思っている。
現実問題として、例えば兵学校五一期の卒業成績が最下位であった木梨鷹一海軍中佐は、今日現在で最も活躍している潜水艦艦長の一人であり、先の翔号作戦では帝国海軍の陽動にかかった米軍が、ハワイからミッドウェイに増援の戦闘機を送る途上だった護衛空母を撃沈することにより、北の第二艦隊の存在を眩ます囮として西からハワイに向かっていた、小澤率いる第六艦隊の存在を想定以上に引き立てるという、作戦全体を見ても非常に大きな戦果を上げている。
だが一方で、縛りがあるなかで限られた人材を適材適所に配置してきた結果、少なくとも戦争一年目は日本優勢で終えることが出来てもいる……
などと、いつの間にか自分の世界に入っていた小澤は、百武がおもむろに一枚の紙を取り出して必要以上にゆっくりと開く姿を見て我に返った。
誰もそうであるとは言っていないが、事実上この会議が招集された理由である、すでにどこかの誰かが独断と偏見から決めてしまった帝国海軍の新たな人事案が、今まさに発表されようとしているのである。
「まず総理及び作本長だが、重臣会議が来年一月五日に緊急招集される衆議院本会議における、首相指名会議へ推薦するのはこの堀君だ。貴族院を含めた帝国議会への根回しももう始められるし、衆議院第一党の立憲政友会が反対するわけがないからな」
「それはまた、どうしてそう言い切れるのです?」
すかさず、第三艦隊司令長官の小松輝久海軍中将が当然の疑問を口にすると、百武ではなく次期総理候補に内定した堀が答えた。
「実は米内総理が倒れた理由として最有力視されているものが、過労と心労なのだ。すなわち、帝国の行政府を率いながら統帥権をも持ったという重荷が原因ということなのだが、この反省から内閣官房の地位及び権限を大幅に高めて、副総理格の内閣官房大臣を置くことが決められたんだ。もっとも、これはまだ構想段階で法制化は来年になるが、これに中島知久平立憲政友会総裁を充てることになったのだよ。政友会としてもおいしい話のはずだ。それに第二党の立憲民政党からも閣僚を出すつもりだ」
「うむ。それから作戦本部にも作戦本部長代理を置くことになってな。これには山本君に就いてもらう」
自分のセリフの大半を堀に持っていかれた百武は、威厳でも出したかったのか妙に重々しい声色で山本の新たな役職を紹介したが、居並ぶ後輩達が心の中で失笑していたことには気が付かなかったようであった。
(ということは、大臣は三四期の片桐大将。総長は三五期の高須中将だな)
そんななか、帝国海軍のトップである作戦本部長とその補佐役に、三二期コンビが就くということから、小澤は素早く次期海軍大臣及び軍令部総長候補の名前を弾き出した。
南東方面艦隊司令長官の片桐英吉海軍大将には、トラックでラバウルから来襲する米軍を、指揮下の第三艦隊と第一航空艦隊をもって防ぎ続けてきたという大きな戦功があり、過去に欧州各国を巡った経験から視野も広い。
そもそも、そんな片桐の対抗馬であろう同期の古賀峯一南西方面艦隊司令長官や、一期先輩の豊田貞次郎海上護衛総隊司令長官は、会議に呼ばれてすらいないのだ。予想するのは容易い。
また、横須賀鎮守府司令長官を務めている高須四郎海軍中将は、ウェーク島沖海戦やい号作戦に戦艦主体の第一艦隊司令長官として参加し、先任指揮官として当時二個の機動艦隊に分けられていた空母機動部隊も大雑把だが動かしたという、帝国海軍の将官の中では一番大きな戦歴を誇っており、帝国陸軍統制派がクーデターを強行しようとした際には、一時的に連合艦隊司令長官の代理を務めるなどその手腕は高く評価されており、その意味では兵学校卒業時は上にいた同期の対抗馬、近藤信竹第一護衛艦隊司令長官……呼ばれていない……に大きく差をつけている。
小澤の予想通りに百武から声をかけられた片桐と高須は、黙って一礼することにより承諾の意思を表した。
(まてよ……すると連合艦隊司令長官は誰だ?)
ここで、片桐と高須の役職を的確に予想した小澤の思考回路は、命令系統上その下に位置する連合艦隊司令長官の候補を予想しようとしたところで、詰まりを起こした。
三六期の誰かであろうということは間違いないのだが、その中で次期連合艦隊司令長官としての呼び声が高い、いや高かったのは誰あろう塚原二四三海軍大将。要するにハワイ沖海上で戦死した前第二艦隊司令長官だ。
(細萱中将か? ……いやそれはないな。新見中将はおそらく海護総隊の長官になるだろうし、高橋中将というのも……)
細長い長方形に並べられた会議机の、なぜか小澤の向かい側の長辺に集中して座っている三六期の将官の面々の顔を、彼等に気付かれないように見渡しながら、“誰もいないではないか”という結論に達してしまった。
だがこの時小澤はある初歩的なミスを犯した。
三六期の面々が向かい側に集中しているせいか、自分の座っている側のことを忘れてしまっていたのである。
「……それでその連合艦隊司令長官と海上護衛総隊司令長官についてだが」
またもや自分の世界に入っていた小澤がはたと気が付くと、なにやら長い前ふりを話していた百武が肝心の話題に触れようとしていた。
「正直な話、連合艦隊司令長官を誰にするかというのが、今回の異動を考えるうえでで一番難航したことなのだが、最終的に山本君が推薦した南雲君に任せるということに落ち着いた。引き受けてくれるか?」
帝国海軍の人事権は、海軍大臣が一手に握る制度がとられているため、その大臣本人に頼まれては基本的に拒否は出来ないのだが、百武はなぜか了承を求めた。
「本官のような者に務まるかは正直不安ではありますが、御指名を受けた以上は力の限りやらせて頂きます」
「そうか、ありがとう。それから海上護衛総隊司令長官は、文句無しで新見君に決まった」
(南雲中将、だと?)
予想通りだった新見のことはともかく、小澤は南雲の名前が百武の口から飛び出したと同時に愕然とした。
と言っても、別に不満があるわけではない。
開戦初頭に勃発したマカッサル海峡海戦において、合衆国海軍とオランダ海軍の連合部隊を殲滅したのも、ウェーク島沖海戦において合衆国海軍に果敢な接近戦闘を仕掛けたのも、ベンガル湾海戦において英国海軍東洋艦隊を壊滅させたのも、当時の第二艦隊の司令長官だった南雲その人だ。その戦歴は、もしかすると高須よりも輝かしいかもしれない。
小澤もい号作戦の序盤に第二機動艦隊を率いて、南雲の第二艦隊と行動を共にしたが、特に悪い印象は持っていない。
さらに、帝国海軍の編成換えによって空母機動部隊と化した第二艦隊の司令長官を同期の塚原に譲った後は、呉鎮守府司令長官として前線からは身を引いたが、その塚原が戦死すると、会議に出席するために東京に飛んだ小澤と入れ違いに、再び第二艦隊司令長官としてクェゼリンに飛んで、翔号作戦を終えた艦隊を無事に本土に連れ帰っている。
連合艦隊司令長官としての戦略眼がどこまで備わっているかは未知数であり、航空分野に詳しく無いという欠点もあるが、前線で陣頭指揮をとるわけではないから、優秀な人間を参謀に配置すればある程度は解決出来る問題だ。
(問題は……なぜ気付かなかったのか。だな)
なにしろ南雲は、小澤の右隣に座っているのだ。小澤は何よりも視野が狭くなっていた自分を呪った。
「小澤君」
「は、はい」
そして、突如百武に名前を呼ばれた小澤は、自分の世界にはまった自分を呪いながら返事を慌てて絞り出した。
「君には第二艦隊司令長官として、帝国海軍の主力部隊を率いてもらう。それから第六艦隊司令長官は角田君に任せる。両名共、来る米軍の反抗に備えて、帝国海軍が世界に誇る水上部隊の戦闘力を極限まで高めてくれたまえ」
「はッ。承知しました」
百武の指名を受けて、小澤はほくそ笑んだ。
内心望んでいた役職であるし、第六艦隊司令長官が開戦以来共に戦うことの多かった角田覚治海軍中将であることも、心強くまたやりやすいことだ。
小澤は大きく息をはくと、余計な思考を止めようと一人格闘しながら会議の進行を見守った。
さて、とりあえず決まった新たな長官達の顔ぶれを列挙すると以下のようになる。
南東方面艦隊及び第一航空艦隊司令長官、草鹿任一海軍中将(三七期)
南西方面艦隊及び第三航空艦隊司令長官、大川内傳七海軍中将(三七期)
北東方面艦隊及び第四航空艦隊司令長官、五藤存知海軍中将(三八期)
第三艦隊司令長官、小林仁海軍中将(三八期)
第四艦隊司令長官、小松輝久海軍中将(三七期)
第五艦隊司令長官、金沢正夫海軍中将(三九期)
第二航空艦隊司令長官、戸塚道太郎海軍中将(三八期)
第五航空艦隊司令長官、小畑英良海軍中将(陸士二三期)
第一一航空艦隊司令長官、山口多聞海軍中将(四〇期)
帝国総合航空本部長、井上成美海軍中将(三七期)
帝国総合電波本部長、細萱戊子郎海軍中将(三六期)
海軍兵学校長、高橋伊望海軍中将(三六期)