八五 瑞西発日本行の凶報
「我、クェゼリンに入泊せり。〇四一五」
帝国海軍第六艦隊旗艦の司令部巡洋艦『酒匂』から、艦隊がマーシャル諸島のクェゼリン環礁にある泊地に投錨したという内容の報告電が、日本本土の神奈川県日吉にある連合艦隊総司令部の作戦室に届いたのは、日本時間における一九四二年一二月二二日の早朝だった。
「これで、ひとまずは終わったわけだな」
時間の都合上、司令長官の山本五十六海軍大将は長官公室で就寝中であるため、現時点で作戦室にいる数少ない幕僚達の中で、最先任の地位にある連合艦隊参謀長の宇垣纏海軍中将は、報告を受けるなり巨大な作戦室の中央に鎮座している、太平洋の広域図を見下ろしながらある意味感慨深げにそう言った。
「えぇ、ひとまずは終わりましたね」
と、航空参謀の樋端久利雄海軍中佐が、徹夜で重たくなった瞼を軽く擦りながら同調する。
「問題は、この翔号作戦の成果が最終的な結果に結びつくかどうかですが、我が帝国海軍はやるべきことを成し遂げました。後は外務省に任せるだけですね」
仮眠明けであるためか、妙に目が冴えているようにも見える、情報参謀の早乙女勝弘海軍中佐が繋ぐ。
「そうだな。後は外務省の仕事……だがな、上手くいくと思うか? この手の話は外交官個人の腕ではどうしようもないだろうからな。我が方にしても、向こう側にしても」
手近にあった椅子にゆっくりと腰かけた宇垣が、そう疑いのこもった声でつぶやくと、樋端と早乙女、そして戦務参謀の渡辺安次海軍中佐は顔を見合わせた。
彼等三人も、宇垣の言った懸念は充分に持っている。
連合艦隊のほぼ総力を上げてハワイ諸島のオアフ島を叩き、太平洋艦隊の水上部隊に続いてその根拠地をも破壊することにより、米国内に厭戦気運を沸き起こさせそのまま講和に持ち込む。
一言で言えば容易いことではあるが、現実には相当困難なこの作戦を、想定外の損害を被りながらも帝国海軍は何とか成功させることには成功させた。
だが、それで本当に米国に厭戦気運が沸き起こるかどうかは、まったくもって予想がつかない。
沸き起こったとしても、肝心の米国政府の、いや戦争をしかけてきた張本人であるフランクリン・ルーズベルト大統領の方針が変わるかどうかなど、正確に予想出来たら文字通りの神業だ。
「……正直な話、私は厳しいと思う。過去にドイツに駐在武官として滞在していたとき、当時の帝国海軍上層部の指示で私は各国の駐在武官に多数の知り合いを作ったが、想像以上に欧米人というものは反骨心が強いという印象を受けた。それに我が国と米国の国力の差から見ても、連中は時間さえかければ勝てる自信を充分に持っているはずだからな」
「私もフランスに駐在した経験がありますから、参謀長のおっしゃる欧米人像にはある程度共感出来ます。ですが、彼等は執念深さの奥に潔さもあわせ持っていたようにも思えるのです。スイスのベルンで対米交渉にあたっている我が国の外交官達も、そこをついて、せめて停戦あたりに持ち込めないものでしょうか?」
「まぁ、航空参謀の言うことにも一理はあるが……しかし停戦はむしろ我が国の方が認めんだろうな」
「四〇年程前から、米国はアジアの巨大な市場に興味を持ち、ことあるごとに進出を図ってきましたが、そのたびに邪魔になったのが何を隠そう我が国です。彼等が戦争という最後の一手を使ってきた以上、停戦、などという、いつ破られるか分からない約束は政府も結びたくはないでしょう」
「そう、現実問題として、我が帝国海軍は少なくとも後一回は米軍と真っ向勝負が出来るからな……交渉が上手くまとまることを祈っておるが、帝国海軍の主戦闘部隊として、交渉が決裂したときのことを考えておく必要があるだろうな」
宇垣がつぶやくように言うと、それまで宇垣に樋端、早乙女の会話をただ眺めていただけだった渡辺が、何かを思い出したようにゆっくり口を開いた。
「そう言えば明日の朝方でしたね、作戦本部の臨時戦略会議は。確か小澤長官もマーシャルから飛んで来て参加されるはずだったと思いますが、時期的にもしかすると交渉結果が会議中に舞い込むかもしれませんね」
「……二艦隊と六艦隊がハワイ沖の作戦海域を離れてから、もう一週間だからな。確かにその可能性は高いだろう。そしてもしそうなった場合、明日の会議が帝国の命運を決めることになるというわけだ」
溜め息混じりにそう言った宇垣の表情は、普段彼がかぶっている“黄金仮面”のそれとは、果てしなく違うものであった。
明くる一二月二三日、午前九時丁度。
帝国陸海軍をあらゆる面で統轄し、東京は霞ヶ関にその庁舎を構える帝国総合作戦本部のとある会議室に、内閣総理大臣兼帝国総合作戦本部長の米内光政海軍大将以下、外務、内務、大蔵、商工、企画院の大臣や総裁といった主要な閣僚達や、陸海軍それぞれ大臣に次官、参謀総長、軍令部総長、総力戦研究会会長といった面々が、臨時の招集を受けて勢揃いしていた。
いわゆる国家戦略会議のレギュラーメンバーは以上であるが、この他にも南方総軍総司令官の梅津美治郎陸軍大将と連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将、前駐米特命全権大使の野村吉三郎予備役海軍大将、さらにはハワイ帰りの第六艦隊司令長官、小澤治三郎海軍中将の姿もあった。
「翔号作戦の結果の概要についてはすでに聞いている。帝国海軍はオアフ島を中心とするハワイ諸島に対し、犠牲を払いながらも断続的な空襲と艦砲射撃をもって同地の米軍に多大な損害を与えた。つまり、翔号作戦自体は成功したと判断して良い、ということだな?」
会議の冒頭、巨大な円形に並べられた会議机の入り口から最も遠い位置に座っている米内が、自身の正面、つまるところ入り口から最も近い位置に座っている小澤に、右手で頭を押さえながら確認を求めるような口調で尋ねた。
「その通りです。皆さんにお配りしてある写真を見て頂ければご理解頂けるかと思いますが、我が帝国海軍第二艦隊及び第六艦隊の諸部隊は、ハワイ諸島の米軍に対して壊滅的損害を与え、特に米海軍にとって最重要の基地であるオアフ島の真珠湾は、戦艦部隊の艦砲射撃によって文字通り灰塵にきしています……ただ、我が帝国海軍が受けた被害も大きいものがあります」
「艦隊司令部を失うというのは確かに予想外の痛手だと思うが、それでも混乱を最小限に抑えつつ所定の任務を完了させた、という事実は賞賛に値するでしょうな。帝国陸軍を代表して、まずは作戦の成功をお祝いしたい」
陸軍大臣の畑俊六陸軍大将がそう言うと、続けて参謀総長の多田駿陸軍大将が口を開いた。
「あとは、スイスでの交渉がまとまることを祈るばかりですが……何しろこちらは戦争を止めたくて仕方がないのですから。そこで外務大臣に伺いますが、交渉の進捗状況はどのようになっているのですか?」
多田はちらりと米内を見たうえで、外務大臣である東郷茂徳に尋ねた。
一九三三年に改正された大日本帝国憲法や一連の諸法律によれば、内閣総理大臣は行政府の長として他の国務大臣の一段上の地位にあり、同時に帝国陸海軍のトップである帝国総合作戦本部の本部長として、帝国陸海軍の統帥権をも握っている。
内閣は議院内閣制のもと帝国議会に対して責任を負い、国務大臣の半分は衆議院か貴族院に議席を持っていなければならないとされている。
しかし一方で、陸軍大臣と海軍大臣は現役である必要こそ無いものの中将以上の者しかなれず、総理大臣その人も文民であったり議会に議席を持っている必要は無く、その選出方法にしても、首相経験者と基本的に何の公的権力も握っていない内大臣府と枢密院の長である、内大臣と枢密院議長から構成される重臣会議が推薦した候補を、衆議院と貴族院がそれぞれ過半数の賛成をもって指名し、最終的に天皇陛下が任命するという、改正前の制度の名残が色濃く残ってもいた。
ただし重臣達の中には、平時においては衆議院の第一党の党首を推薦し、戦時においては軍部の長老を推薦するという暗黙の了解があるにはある。
そんなこんなで、米内が「戦争を止めよう!」と叫べば、たとえ閣僚や軍部が反対したとしても、法律上はそれが国家の方針となるわけで、帝国議会もこの手の事案は事後承認制となっているため邪魔は出来ない。
「昨日スイスから入った最新の報告によりますと、正直厳しいです。先方の基本方針、すなわち日米戦争の終結は我が国の無条件降伏しかない、というものに変わりはない。とのことですから、これを講和に持っていくというのは、いかに全権の吉田をもってしても……」
東郷が弱々しく悲観論めいたものを口にすると、多田はさらに何かを東郷に向かって言いかけたが、それは会議室の扉をノックする音によって遮られた。
「失礼します。ベルンの吉田全権大使から外務大臣宛てに緊急信です」
そう言って会議室に入室してきた担当官は、自身に集まる視線の強さを気にすること無く東郷に近寄り、電文の綴りを手渡しそして悠々と退出していった。
そんな担当官に集まっていた閣僚や将官達の視線は、さぞかし音を外に漏らさないであろう重厚な扉が閉まると同時に、一斉に電文を手にした東郷に集まった。
日米交渉が行われているベルンと東京の間にある時差は八時間であるから、向こうの時刻は午前一時過ぎということになる。
そんな夜遅くに報告電を打ったということは、相当に急ぎの用件であり交渉が長引いたということを示している。
「……米国が向こう三年の停戦を持ちかけてきたようです。条件付きですが……まず帝国陸海軍の規模縮小。それからビルマ東部、タイ、マレー、蘭印からの撤退。マーシャル、トラックの放棄。マリアナの非武装化。フィリピンの返還。東亜軍事同盟の破棄。とりあえず、以上です」
「…………そ、そんなふざけた話、承服出来るわけがない! それでは、まるで我が国が一方的に敗けたようなものではないですか!?」
東郷が口を閉じてから一呼吸、いや二呼吸置いて、米国が突き付けてきた恐るべき条件の内容を理解した梅津がまずそう叫んだ。
ちなみに東亜軍事同盟とは、日本、韓国、満州、タイの四ヵ国が結んだ安保条約のようなものである。
「海軍としても認められません。もし認めれば、我が国は三年の平和の後に亡国の憂き目を味わうだけです」
そして軍令部総長の長谷川清海軍大将が冷静な声色で言うと、他の出席者達も次々と反対の意見を口々に言い始め、会議室の中は妙な熱気に包まれた。
「とにかく、我が国は早急に対応策を練らねばなりません。先方が我が国をとことん潰すつもりである以上、とり得る策はおのずと絞られますが」
「内相のご意見に賛成です。一刻も早くこの浅ましい要求に対する我が国の返答を決め、スイスに送らねばなりません」
「……連合艦隊司令長官に尋ねるが……」
内務大臣の近衛文麿や商工大臣の岸信介が落ち着いてそれぞれの意見を述べると、一人黙っていた米内が懊悩の表情を浮かべながら口を開いた。
「米国の申し出を蹴ったとして……じきにやって来る米海軍に連合艦隊は勝てるのか?」
「これ以上進攻することは非現実的ですが、進攻してくる米海軍に決戦を挑み勝つことは可能です。ただし、一回限り、ですが」
「……そうか……外務大臣。スイスに、もう一押しするよう伝えてくれ。それでだめなら……」
「分かりました。大至急、指示を出します」
東郷は言うと同時にすっと立ち上がり、そのままドアへと歩を進めた。
そして、それが解散の合図となり他の出席者達も書類をまとめて立ち上がり始めた。
だが、米内だけは立ち上がらずまた身動きもしなかった。
この米内の異変に最初に気が付いたのは、米内のちょうど右斜め前六〇度の位置に座っていた、大蔵大臣の賀屋興宜だった。
「総理、いかがなさい……総理!?」
賀屋の上げた頓狂な声、そして何か重くて軟らかいものが落ちた音に後ろを振り返った閣僚や将官達が目にしたものは、床に倒れこんで意識を失っている米内と、そんな彼を必死に揺り動かしている賀屋の後ろ姿であった。