七八 不沈空母を撃沈せよ
合衆国海軍太平洋艦隊の司令長官、チェスター・ニミッツ海軍大将は、オアフ島真珠湾のすぐそばにある艦隊総司令部の地下に設けられた防空壕から出てくるなり、空いた口が塞がらなくなってしまった。
視界内にあるものだけでも、ヒッカム及びフォード島の飛行場から多数の黒煙が噴き延びていて、ハーバースポイント飛行場やエヴァ飛行場がある方向にもやはり多数の黒煙が見える。
そして視線を眼下の真珠湾に移してみれば、太平洋艦隊が誇る工廠群こそほとんど無傷だが、湾内には撃沈あるいは着底した護衛空母や巡洋艦、駆逐艦の断末魔の姿があちらこちらにある。
魚雷艇や哨戒艇が溺者救助に駆け回っているが、沿岸にある艦艇用の重油タンクを片っ端から破壊されたらしく、真珠湾はその美しい名に反してじわじわと黒い油に汚染されつつあった。
そしてこの汚染は止まる気配をまったく見せない。
太平洋艦隊の巨大根拠地である真珠湾は、ニミッツ以下太平洋艦隊の幕僚達が予想もしていなかった帝国海軍の猛烈な攻撃を受け、その機能を完全に喪失しようとしていた。
「とりあえず正確な状況の把握が第一だ。オアフ島に限らずハワイ諸島全体の最新の情報を大至急集めなければ……」
ニミッツは太平洋艦隊が約一年前のウェーク島沖海戦で帝国海軍連合艦隊に大敗北を喫し、見るも無惨な姿で真珠湾に帰還したときの様子を、当時ノースカロライナ級戦艦二隻を中核としていた第二任務部隊司令官の地位にあり、現在は太平洋艦隊参謀長として彼を支えている、レイモンド・スプルーアンス海軍中将から耳にタコが出来る程に聞かされていたため、ある程度のことには耐えられると自負していたのだが、目の前に広がる光景が与える衝撃は計り知れない程に凄まじい。
むしろ、よく誰一人として腰を抜かさないものだと、感心しようと思えば出来るかもしれない。
ニミッツは次いで首に下げていた双眼鏡を手に取り、ホノルル市街を見つめた。
流れ弾が落下したのか、撃墜された航空機が墜落したのかは分からないが、所々で火災が発生しているようであり、その様子は郊外にもちらほら見受けられる。
昨夜は司令部に泊まったニミッツとしては、自分の家族、そして今は本土に出張中のスプルーアンスの家族も居候している自宅の安否が一瞬気になったが、自身に向かって来る情報主任参謀のエドウィン・レイトン海軍中佐の姿を認めると、表情をすぐさま司令長官のそれに戻した。
「……報告します。現時点において、ホイラー、ハーバースポイント、エヴァ、そしてカネオヘの各飛行場との連絡がつきません。とりあえずそれぞれの飛行場に海兵隊を向かわせましたが……」
「それでオアフ島に使える航空機は残っているのかね?」
「はぁ、ベローズとハレイワは無傷ですが、なにぶん規模が小さいですし、陸軍のヒッカムは滑走路を全てやられたうえに多数の機体を地上で撃破された模様です。ですから、在オアフの航空戦力は正直あてになりません。守るにしても、反撃するにしても」
レイトンの報告に、ニミッツはあからさまに失望の表情を浮かべた。
「日本海軍の艦載機は第一次と第二次を合わせて、六〇〇機を超える規模でした。それだけの攻撃を受けたのですからこの損害はある程度は仕方ないことかと……もっとも、我が方の哨戒態勢が緩すぎたからかもしれませんが」
航空主任参謀のデニス・スタンプ海軍中佐がそう言うと、電文の綴りを手にした通信士が数人駆け寄って来て、ニミッツが待ち望んでいた現状報告を始めた。
「敵の第一次攻撃隊の後を付けたカタリナ飛行艇からの報告です。『我、敵機動部隊発見。位置、オアフ島より方位一〇度、距離二四〇海里。戦艦六、空母一〇以上』ここで切れました」
「フォード島飛行場の現状は、滑走路使用不能。さらに機体も多数を地上撃破され、迎撃に上がった戦闘機も多数が撃墜された模様です」
「ハワイ島のヒロ及びコナ飛行場よりの報告です。『ハワイ島上空に敵影無し。我、攻撃隊の発進準備完了せり。敵機動部隊攻撃命令を待つ』」
「ジョンストン島守備隊よりの報告です。『我、日本海軍の艦載機の空襲及び戦艦の艦砲射撃を受く。司令部全滅。至急救援を求む』この報告を最後にジョンストン島とは連絡がつきません」
「……つまり、我々は完全に騙されたというわけだな」
とりあえず入った四件の報告を黙って聞いていたニミッツは、ややあって、ぼやくようにそう言った。
「日本海軍の主力艦隊が台湾沖にいてそれが南下した。という偽情報にまんまとのってしまった。まさかハワイ諸島の北に現れるなど予想もしていなかった。そして、日本海軍のウェーク島攻撃も今思えばただの陽動だ。おかげで我々の目は西に向き、ウェーク島を叩いた後ミッドウェイではなくジョンストン方面に向かって来た艦隊のことしか、考えられなくなっていたのだからな」
「長官、こうなってしまったことを反省するよりも、今はこのハワイに迫っている重大な危機をどう乗り切るかに集中すべきと考えます」
レイトンがそう注意を喚起すると、分かってはいる。分かっては。と、表情でそう言いながら、ニミッツは小さくうなづいた。
「まず敵の目的を見極める必要があります。彼等はこのハワイに上陸して占領するのか、ただ徹底的に叩いて引き揚げるのか、別の目的があるのか」
作戦主任参謀のマグナ・クレメント海軍中佐が発言すると、ニミッツは多少顔を青ざめさせながら口を開いた。
「日本軍が上陸してくると想定して、それだけの力が彼等にあるのか?」
「日本は海軍勢力こそ世界三大海軍国と呼ばれる程の力を持ち、現時点では世界最強の艦隊を有する国家ですが、陸軍の規模は大したことはありません。私の部署が探った限りでは、日本陸軍の総兵力は四〇個師団前後で、内開戦前からの常設師団は三〇個程度です。一方で彼等はフィリピンやマレー、旧蘭領インドシナ、ビルマの東部に一〇個から一五個師団を展開させています。また、マリアナ、トラック、マーシャル等に合計一〇個師団程度、また同盟国である韓国、満州、タイ等にも合わせて一〇個師団程度の兵力を駐屯させ、本土や台湾、樺太等にも当然部隊を配置しているでしょうから、彼等にハワイを占領する気はあっても戦力がありません」
「今回の戦争は我が合衆国が仕掛けたものであり、日本にすれば早期に講話を結びたいというのが正直なところでしょう。そのための手段として、日本はハワイ攻撃を選んだと見るべきかもしれません」
レイトンとクレメントが続けて言うと、ニミッツは複雑そうに返した。
「貴官達の考えが正しいとすれば、このハワイが占領されることはないが、徹底的に破壊される。ということになるな」
ニミッツはそう言うと、一瞬自嘲的な笑みを浮かべ、そしてすぐに真面目な顔つきに戻すとさらに続けた。
「しかし……太平洋艦隊の名誉にかけて、このままただやられるわけにはいかん。オアフ島がこうなってしまった全ての責任は当然、この私にあるが、何としても一矢報わねば」
「さしあたって出来る事は、ハワイ島に展開している航空部隊による敵機動部隊への攻撃です。おそらく敵は第二次攻撃隊を収容した後、第三次攻撃隊を出撃させるはずですので、そこを叩けば効果があるはずです。またこの際、陸軍航空軍にも協力を仰ぎ、戦力を集中させるべきです」
スタンプが力強くそう意見を具申すると、ニミッツも力強くうなづいた。
すると、まるでそれが合図であったかのように、通信士が一斉に防空壕内の通信室に向かって駆け出した。
太平洋艦隊の決死の反撃がまさにこの時、始まろうとしていたのである。
さて、そんな太平洋艦隊のことなどまったく知らない帝国海軍第六艦隊は、オアフ島から西に約一〇〇〇キロ離れたジョンストン島に対する攻撃を片付け、ハワイ諸島目指して太平洋をひた走っていた。
第六艦隊は主力である第二艦隊と違い、ウェーク島に対する攻撃を行なっている頃から、敵の潜水艦の接触を時々受けるようになっており、基本的にその針路や位置等を常に敵側に知られる立場にあった。
そのため、ジョンストン島に向けて攻撃隊を放つ前に、ハワイからやって来たと思われるB17とB24の混成部隊の空襲を受け、被害こそほとんど無かったものの、進撃スケジュールに多少の狂いが生じてしまっていた。
しかし、第六艦隊司令長官の小澤治三郎海軍中将は、作戦を変更することなくジョンストン島に攻撃隊を出撃させ、飛行場を潰した後には伊勢型戦艦二隻からなる第四戦隊による艦砲射撃を敢行し、同島にとどまらず環礁全体を完全にズタボロにしたうえで、予定より少し遅れてハワイへと向かい始めた。
作戦の遅れを懸念する声が無かったわけではないが、第二艦隊による攻撃がほぼ奇襲になったことから、囮としての役割は充分に果たせた、と小澤は判断したのである。
「とりあえず、これが二艦隊司令部より通達されたオアフ島の最新情報です」
第六艦隊はこの時、対空陣形である輪形陣を組んでいたが、その中心にいたのは戦艦でもなければ空母でもなく、基準排水量は一万トンに満たず見た目には防御力重視で攻撃力が乏しいようにも見える巡洋艦であった。
この巡洋艦、第六艦隊旗艦の司令部巡洋艦『酒匂』の作戦室に、情報参謀の中島親孝海軍中佐の声が響いた。
作戦室の机の上にはハワイ諸島を中心とした広域図とオアフ島の詳細図が置かれ、それぞれの地図には様々な駒や旗が立てられている。
「ご覧のように、二艦隊航空隊は所定の任務を成功させ、オアフ島の主要飛行場を使用不能に追い込み、また駐機してあった敵機も多数破壊したとのことです。真珠湾に在泊していたなけなしの艦艇も、小型艦以外はほとんどを撃沈されています」
「つまり、オアフ島の周辺の制空権の奪取には成功した。ということかね?」
腕を組んで地図を見つめていた参謀長の山田定義海軍少将がそう言うと、航空参謀の南郷茂章海軍中佐が指示棒を手にしながら答えた。
「オアフ島の飛行場の内、二艦隊が手をつけなかったものはいずれも、J機関からの情報により規模が小さく展開する航空機の数が少ないと判断されたものです。二艦隊と六艦隊に所属する大小一七隻の空母が搭載する、一〇〇〇機以上の艦載機の前には立ち塞がれません」
「……連合艦隊の命令は要するに、米軍の一大拠点にして巨大な泊地や航空基地を擁する、文字通り不沈空母たるオアフ島を撃沈する程の気概を持って攻撃にあたれ。というものだった。この喩えを使うなら、二艦隊はこの不沈空母の飛行甲板を破壊したということなるわけだが……」
「何かご不満でもあるのですか?」
と、なんとなく歯切れの悪い小澤を見て、怪訝そうに山田が尋ねた。
「いや……今回の翔号作戦は米国との早期講話を望む山本長官が強く推し進めた作戦だ。英国の東洋艦隊を粉砕した以上、今はいずれ攻めて来る太平洋艦隊に備えて戦力を温存及び増強すべき、とする軍令部の意見を押し切る形でな。そして作戦計画書は、山本長官の意を汲んだ連合艦隊の黒島参謀の手によるものだ。……これは内地を離れる際に連合艦隊の早乙女参謀に聞いた話なのだが、この計画書はオアフ島の存在を特に重要視する代わりに、他の島々のことをいささか軽視している。そして彼は私に、基本は計画書に従いながらも、オアフ島以外にも注意を払ってください。との忠告をくれた」
「……つまり長官は、我々がオアフ島に注目している間に、ハワイ島やマウイ島等からの反撃を受ける危険性を考慮されておられるのですか?」
「まぁ、端的に言えばそういうことだ」
「しかし、その点は塚原長官も考えておられるでしょう」
南郷がそう言うと、小澤は肩をすくめながら続けた。
「確かに私の取り越し苦労かもしれん。だが、どうにも割り切れんのだよ」
そう言って口を閉じた小澤を見て、中島は説明の出来ない嫌な予感を感じた。
また、情報参謀の先輩格であり尊敬する早乙女が、黒島の作戦計画に疑問を覚えていたことに、やはり説明の出来ない危機感を覚えてもいた。