七四 新鋭戦闘爆撃機"天風"
一九四二年一二月一二日。マーシャル諸島ウォッゼ環礁。
日本本土よりも時計の針が三時間ばかり早いこの地の時刻は、午前四時〇六分。まだ東の空に朝日を拝めるような時間ではない。
しかし、ウォッゼに設けられた帝国海軍の飛行場を駆け回る兵や下士官達は、空の暗さなどまるで眼中に無いかのごとく、懐中電灯を手に忙しく自らの任務を遂行している。
やがて、駐機場にずらりと敷き並べられた機体のエンジンがほぼ一斉に始動し、環礁全体がその轟音に包まれていく。
「搭乗員整列!」
そんな中、多数のエンジンの轟音をもかき消すような大きな声が、飛行場のスピーカーから響き渡った。
すると間髪入れずに、飛行服に身を固めて待機していた搭乗員達が弾かれるように兵舎から飛び出し、部隊毎に慌ただしく打ち合わせが行われ始めた。
この打ち合わせはごく短時間で終わり、搭乗員達はそれぞれの愛機のもとへと走り、そして飛び乗る。
最後の点検が終了したのであろう。機体に取り付いていた整備員達が反対に離れていく。
ここにきて、出撃準備は最終段階に入っている。
各機とも翼端の航空灯を点灯させ、司令部からの出撃命令を今か今かと待ち望んでいるのだ。
「指揮所より林原一番。状況報せ」
「林原一番より指揮所。七〇七空、全機準備完了です」
「了解。七〇七空は直ちに離陸を開始せよ」
「了解。七〇七空、離陸開始します」
「林原一番より七〇七空各機へ。これより離陸する!」
搭乗員達待望の出撃命令は唐突に飛び込んだ。
八個中隊七二機の陸上攻撃機泰山からなる第七〇七海軍航空隊飛行隊長の林原恵司海軍少佐は、指揮所に詰めている帝国海軍第二航空艦隊の参謀と短いやり取りを交わすと、自身の左耳にぶら下がっている隊内無線用のマイクに向かって命令を発した。
同時にブレーキを解除し、機体をまず誘導路へと向ける。
とは言え、誘導員が振る信号灯以外の明かりが無い暗闇の中での移動だ。南太平洋海戦の場において、世界で初めて純粋な航空攻撃で行動中の戦艦を沈めるという快挙を成し遂げて以来、実に半年ぶりの実戦を前に高ぶる感情を抑えつつ、林原は慎重に機体を操っていく。
そして、林原機が滑走路に進入した時、東の空が白みだし視界が段々と明るくなってきていた。
林原は離陸を前に滑走路が見やすくなったことに軽く安堵し、スロットルレバーにかけた左手を前に押し込もうとした。
ところが、林原機の火星エンジンが雄叫びを上げようとした瞬間、右隣に並走するもう一本の滑走路上に泰山の火星エンジンのそれとは異なる轟音が響き、泰山に比べて明らかに小振りの双発機が滑走を開始した。
別に競走しているわけではないが、遅れてはならじと林原も愛機を加速させていく。
だが、三発の五〇〇キロ爆弾という重量物を抱えているため、その加速度は右前方を行く双発機よりもかなり低い。
林原機はひたすら加速し続けるが、その双発機は早くも離陸速度に達したのか、機首を持ち上げてまるで単発機のような軽快な動作で大空へと舞い上がっていく。
(流石は新鋭機。こいつが敵うはずはないか)
いっこうに速度が上がらない泰山の機内にあって、林原は苦笑を浮かべながらそう思った。
林原機の主脚がようやく地面を蹴った時、すでに隣には新鋭双発機の二番機の姿がある程だ。
中島飛行機が開発したこの機体の名称は、戦闘爆撃機“天風”といい、約二ヶ月前に制式採用された文字通りの新鋭機である。
双発機だが、さほど大きな機体ではない。その気になれば、空母に載せて運用出来るのではないか、という程度だ。
全長、全幅共、一五メートルに満たない大きさであり、左右の主翼に取り付けられた二基の春嵐エンジンが妙に大きく見える。
しかし一方で、胴体は五〇〇キロ爆弾まで搭載出来る爆弾倉が設置されているために図太く、機首に集中配備された四挺の二〇ミリ機銃が、機体に力強さを与えている。
さらに、小振りの機体に一五〇〇馬力を発揮するエンジンを二基積むことによりその出力に余裕が生まれたため、二人の搭乗員が座るコックピット周りには装甲板が張られ、主翼下には落下増槽や小型爆弾を多数懸架出来る。
そして“戦闘爆撃機”という名の通り、爆弾等を一切積んでいない状態であれば最高速度は六〇〇キロを越え、自動空戦フラップの力も相まって良好な機動性を発揮し、急降下爆撃に耐え得る機体強度を活用した一撃離脱戦法も得意としている。
今回、林原率いる七〇七空と行動を共にする天風は三個中隊四八機であり、全機が第二〇三海軍航空隊の所属機だ。
一個中隊が一六機編成である点や隊名が二〇〇番台である点から、帝国海軍上層部はこの天風の主任務はあくまでも護衛戦闘と認識しており、二〇三空の天風の任務も七〇七空の泰山の護衛だ。
そのため、爆弾倉に抱えている爆弾は対地用の二五〇キロ爆弾一発か、六〇キロ爆弾四発というものであるが、いざというときにはこれらを惜しげも無く投棄し、泰山を守ることが事前に決められている。
その代わり、主翼の下には落下増槽の他に帝国海軍の新兵器がぶら下がっている。
対戦闘機戦闘にも対地上戦闘にも使える万能兵器。と、開発及び生産を行っている呉の海軍工廠の技官が、太鼓判を押した兵器である。
「操縦替わってくれ」
「了解……連中、大丈夫ですかね?」
七〇七空の泰山が基地の上空で編隊を組み終え、高度をさらに上げつつ針路を北に向けた頃、林原の隣に座る大谷育郎海軍飛行兵曹長は、林原から機体の操作を任せられるなり不安そうに言った。
「二〇三空のことか?」
「えぇ、何しろ双発機ですからね。相手は重爆ならともかく単発の戦闘機ですし、しかもほとんどが陸軍航空隊出身者で、海上での実戦は初めてという連中ですからね」
「それはそうだが……」
「もう南太平洋海戦の時みたいに、僚機がバタバタ落とされる光景を見るのはごめんですよ」
「それが戦争なんだ。……それに俺達がきちんとウェークをやらなきゃ、機動部隊の連中にも迷惑がかかる。その機動部隊からの応援も来るし、魚雷を抱えているわけじゃないから、スピードを落として低空に舞い降りる必要も無い。前回に比べれば条件は遥かに良いさ。まぁ、何だかんだ言っても動きの鈍い俺達は、中島の技術者と二〇三空の搭乗員を信じるしかないだろう」
零戦の後継機である新鋭艦上戦闘機“烈風”の開発担当会社は三菱、局地戦闘機“紫電”の生産及びその改良型の開発担当会社は川西と城北、雷爆兼用の新鋭艦上爆撃機“流星”の開発担当会社は愛知、というふうに、帝国海軍航空隊の主力新鋭機の開発をことごとく他社に持っていかれただけのことはある。その鬱憤を晴らすべく、中島の持てる技術を総動員したのだろう。と、一向に泰山の高度が上がらないもとかしさを感じながら林原は思った。
まさか泰山の後継機たる陸上攻撃機を中島が開発していて、しかも自分がそれを操ることになるとは微塵も思っていなかった。
「通信より艦橋。七〇七空指揮官機より入電。『イコマヤマノボレ。〇三一二』」
「旗艦より信号受信。『第一次攻撃隊発進せよ』」
「旗艦宛、発光信号用意。『了解せり』」
「戦隊針路そのまま。最大戦速!」
「かかれッ!」
現地時間午前六時一二分。
ウェーク島から東に二五〇海里程の海上を、右舷側に輝かしい朝日を浴びながら北上している第六艦隊の各艦の通信アンテナに、突然林原が操る泰山からの報告電……「我、ウェーク島まで三五〇海里」を意味する暗号電文が飛び込むやいなや、電探まで止めて無線封鎖を実施している艦隊内を発光信号の光が飛び交い始めた。
そんな中、第四航空戦隊及び第六五一海軍航空隊司令官の角田覚治海軍中将は、第六艦隊の旗艦『酒匂』からの信号を受け取るなり、自ら艦内電話の受話器を取り上げて、各方面へ叩き付けるように命令を入れた。
直後、第四航空戦隊旗艦の『大鷹』の機関の鼓動が高まり艦が加速を始め、そして飛行甲板に直結している搭乗員待機室から、一六名の搭乗員達が一斉に駆け出し、甲板後部に並べられ暖気運転を施されている一六機の零戦のもとに向かう。
「『雲鷹』より信号。『我、出撃準備完了』」
「『冲鷹』より信号。『我、出撃準備完了』」
「発着艦指揮所より艦橋。本艦出撃準備完了です」
「四航戦各艦に信号。『発艦始め』」
再び角田の命令が飛び、刹那、一番機が栄エンジンの爆音を響かせながら滑走を始める。
手空きの乗組員の帽振れに見送られながら、発艦は切れ目無く続き、一六機の零戦はたちまちに大空に舞い上がっていく。
第四航空戦隊の『大鷹』『冲鷹』『雲鷹』、さらに第五航空戦隊の『飛鷹』から、それぞれ一個中隊一六機ずつ、つまり合計六四機の零戦は各々の母艦ごとに編隊を組み始め、それが終わると一路西へ、ウェーク島の方角に向けて進撃を開始した。
六五一空戦闘機隊長の志賀淑雄海軍少佐に率いられた零戦隊の姿が、第六艦隊の各艦から見えなくなる頃、四隻の空母は速力を一八ノットに落として、艦隊の定位置に戻っていた。
「それにしても米軍の哨戒体制はどうなっとるのだ? マーシャルを出撃してこのかた、一機の飛行機とも一隻の潜水艦や哨戒艦艇とも遭遇せんとは」
するといきなり、『大鷹』の羅針艦橋で角田は敵方のある種の怠慢を指摘し始めた。
位置を特定され難いようにするために電波封鎖をしているとは言え、電測室から敵の電探波を捉える逆探に反応があったという報告は無いし、水測室から敵の潜水艦が出す音を捉えたという報告も無い。
そもそも、第六艦隊はウェーク島の哨戒圏内を何の遠慮も無く思いっきり突っ切っているのだ。
攻撃をかけてくることは無いにせよ、後をつけるぐらいは普通するものだろう。
少なくとも、自分がウェーク島の米軍指揮官ならそうする。角田の表情はそう語っていた。
「確かに解せませんが、我々にすればある意味ありがたいことではないでしょうか?」
首席参謀の小田切政徳海軍中佐がそう言うと、その隣で航空参謀の奥宮正武海軍少佐が続けて口を開いた。
「別の見方をすれば、米軍がウェーク島のことをそれほど重要視していないということではないでしょうか? ウェーク島は現時点における米軍の最前線の一つであり戦略的にも重要拠点ですが、同時に絶海の孤島でもあります。海軍力が乏しい米軍にとって、我が軍の最前線であり強力な基地航空隊が駐留しているマーシャルから六〇〇海里しか離れていないウェーク島に、大兵力を置こうとするのは大変なことです」
「守りに徹する以上、例えばハワイさえ確保すれば他の島はどうでもいいということか?」
「どうでもいいというほどでもないでしょう。現に二航艦の攻撃隊は敵に監視されているようですから」
ちなみに、なぜ奥宮がそのようなことを知っているのかと言うと、林原が発した暗号電文にある「イコマヤマ」には「我、敵航空機に遭遇、監視を受く」という意味も含まれており、何も無い場合には「ツクバサン」、遭遇しただけなら「イワキヤマ」となる予定だったからだ。
「ふむ。要するに敵は、二航艦の攻撃隊に対処するだけで精一杯ということか。だとするならば、首席参謀の言う通りありがたいことだな。だが潜水艦はどうなのだ?」
「それは何とも……あえて予想するならば部隊の再編中、でしょうか」
「航空参謀の意見は一理あります。ここ数ヶ月だけを見ても、特に海護総隊や三南艦が撃沈した敵潜水艦の数はかなりのものですから」
角田は自らの疑問がある程度解決されたことに満足したのか、参謀達との会話を打ち切り艦橋内に置かれた海図に目をやった。
海図には第二艦隊の予定航路を示す赤い線が択捉島の単冠湾から、そして第六艦隊の予定航路を示す青い線がマーシャル諸島のクェゼリン環礁から、それぞれの目標海域へと続いていて、その海域の周辺には第四艦隊の潜水艦の展開地点を示す緑の点が多数うたれている。
彼の視線はこの海図に注がれたまま、しばらく動くことはなかった。
第三六話、第三七話加筆訂正しました。
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