七三 クェゼリンの小澤艦隊
一九四二年一二月一一日。
いわゆる太平洋戦争が勃発してから、一年と少しの時間が経過していたが、この間アメリカ合衆国海軍はその勇名を轟かせるどころか、まったく良いところが無く恥をさらすだけだった。
まず、フィリピンのアジア艦隊が壊滅したマカッサル海峡海戦に始まり、太平洋艦隊の艦艇がことごとく沈められたウェーク島沖海戦、そして残存した主力艦艇を全て失ったラバウル北方海戦(日本名、南太平洋海戦)と、これまで帝国海軍との間に生起した全ての海戦で敗北している。
その結果、合衆国海軍の権威は文字通り地に落ち、議会でも論議される軍事関係の議題と言えば海軍の失態のことばかりで、さらに海軍びいきの合衆国大統領、フランクリン・ルーズベルトまでもが海軍を突き放すような発言をする程になっていた。
しかし、一方の合衆国陸軍は海軍がいないことには太平洋に散らばる島々に単独上陸することすら出来ず、ラバウルを拠点に行っているトラックに対する空襲作戦も、戦果よりも被害が大きいという状況があり、そして極東最後の根拠地であったフィリピンの極東軍が、まともな戦闘を一度も経験すること無く、それも徹底抗戦を命じた大統領に背く形で日本軍に降伏したこともあり、その発言力が急上昇することは無かった。
結局のところ、敵が島国である以上、主役は海軍しかなり得ないのである。
アメリカ東海岸の中央部に位置するバージニア州にある、合衆国海軍最大の軍港の一つのノーフォーク軍港。
その中の大型艦用岸壁の上に二人の海軍高官が立ち、大西洋での公試を終えチェサピーク湾の入り口を通り過ぎノーフォークに向かってくる艦隊を見つめていた。
彼等の名前は、合衆国海軍両洋艦隊司令長官兼海軍作戦本部長というやけに長い肩書きを持つアーネスト・キング海軍大将と、太平洋艦隊参謀長のレイモンド・スプルーアンス海軍中将である。
「それにしても開戦からわずか一年で、これらの艦艇が公試運転を行えるようになるとは思いませんでしたな」
スプルーアンスが傍らのキングの方を向いてそう言うと、キングは視線の向きを変えることなく口を開いた。
「大統領曰く、これが合衆国の底力。ということだ。だがまぁ、確かに驚くべきことだ」
その視線の先にある艦隊はまだ距離があって、各艦艇の細かな特徴を判別することは出来ないが、空母が四隻いることは誰にでも分かる。
四隻の空母の艦名は『エセックス』に『イントレピット』、『インディペンデンス』、『プリンストン』といい、始めの二隻は新鋭の正規空母であるエセックス級に属し、後の二隻はクリーブランド級軽巡の艦体を流用した軽空母であるインディペンデンス級に属する艦である。
前者は基準排水量二万七一〇〇トン、最高速度三三ノットで一〇〇機から一二〇機もの艦載機を搭載し、多数の一二,七センチ連装高角砲や四〇ミリ及び二〇ミリ機関砲で身を固めた大型空母だが、区分的には戦時急造艦である。
後者は基準排水量一万一〇〇〇トンで最高速度は三一ノット、搭載機数は四〇機から五〇機で、規模的には二隻で一隻のエセックス級に値する。
「当初の予定では『エセックス』はともかく、『イントレピット』の竣工は来年になるはずだった。それが今こうして目の前で動いている。大統領の言うことは間違ってはいないが、しかしその代償として我々は多くの工員を殉職させ、また予算も想定以上に膨らんでしまった。太平洋艦隊が日本海軍の戦力を超えるだけの艦艇を揃えるには、いったいいくらの予算を注ぎ込めばよいのか。何しろ戦艦にしろ空母にしろ、劣勢どころの話ではないのだからな」
キングは苦笑いを浮かべながらそう言った。というのも、開戦前には六隻いたいわゆる新鋭戦艦と、五隻いた正規空母はことごとく海の底に沈んでおり、合衆国海軍の再建は主力艦がまさに零の状態から始まっているのだ。
戦艦は高速戦艦たるアイオワ級が六隻、帝国海軍のヤマト・クラスをも凌駕すると言われるモンタナ級が四隻建造中であり、他にも六隻のアラスカ級大型巡洋艦やボルティモア級重巡、クリーブランド級軽巡等が合衆国各地の造船所で建造されている。
空母も来年の今頃にはエセックス級が一〇隻、インディペンデンス級が一二隻揃う予定で、これらを護る駆逐艦や、フィリピンに対する隠密輸送で消耗した潜水艦の建造も疎かにするわけにはいかない。
さらには船団護衛や大西洋を跳梁するUボートに対抗するための護衛空母や護衛駆逐艦の建造も進めなければならず、その分の艦載機パイロットも用意しなければならない。
流石のキングでさえ、予算のことを考えると我知らず寒気が体を走ることを感じる程だ。
「日本海軍が保有する正規空母は確か、一二隻だったな?」
「えぇ、その通りです。太平洋艦隊司令部の調査によれば、ちょうどエセックス級と同規模なものが二隻、一回り大きなものと小さなものが二隻ずつ、さらにかつての『ワスプ』よりも一回り小さい中型空母が六隻あります。また、艦載機数は一〇〇〇機以上と思われます。さらに、他艦種や大型商船を改造したと思われる軽空母が少なくとも一〇隻、護衛空母が六隻以上確認されており、これらをあわせれば艦載機数は一五〇〇機にも達します」
ふと思い出したように尋ねたキングに対し、スプルーアンスはあえて感情のこもっていない口調で淡々と答えた。
「新造の正規空母についてはどうだ?」
「我々の知る限り、大型が二隻、中型が四隻ないし五隻建造中のようです。仮にこれらが全て戦力化されますと、日本海軍の艦載機はさらに五〇〇機程度増えることになります。そして当然のごとく、我々は基地航空隊も相手取らねばなりませんが、ラバウルからの情報では、トラックに展開している日本軍の基地航空隊は、戦闘機だけで五〇〇機に迫る程の規模だそうです」
「……日本海軍は日本陸軍の航空部隊を編入したと聞く。海軍の航空戦力の強化という面では、我が軍は大きく遅れをとっているわけだな……ところで、太平洋艦隊司令部、いや君はマーシャル諸島に進出してきた日本艦隊のことをどう見ている?」
キングはこれ以上暗い話題を、よりによってこんな所で続けたくはなかったのだろう。話題をつい最近入ってきた日本海軍の動向に切り替えた。
「はぁ、情報によれば戦艦二隻、空母六隻を基幹とする機動部隊ということですが、その目的については主に二つの可能性が考えられます。まずマーシャルに駐在しハワイ方面に睨みをきかせる。そしてもう一つは、ウェーク、ミッドウェイ、ジョンストンといった我が軍の拠点に対する攻撃です。もっとも、これまでの日本軍の動きから考えれば、前者の可能性の方が高いと思います」
「戦艦六隻、空母七隻を基幹とする主力機動部隊が台湾沖に集結し、その後南下したという情報もあるが、そっちはどうだ?」
「インド洋方面にまた向かうのではないか、という意見が大勢を占めています。六月のラバウル北方海戦以来、事実上我が軍のことを気にする必要の無くなった日本軍は、その目を西に向け続けていますから。それに万が一、マーシャルの日本海軍が攻めてきても、ハワイには陸海軍合わせて九〇〇機の機体を抱える航空部隊があり、さらに増やす予定もあります。六隻の空母の艦載機は多くて五〇〇機。怖れるには足りません」
ですから心配するには及びません。と言わんばかりのスプルーアンスの発言を受け、キングの表情は幾分和らぎ、次いで例の艦隊が近づいてくるにつれて強気なものになっていった。
我が合衆国海軍は並みの海軍ではない。勝利のために払わねばならない時間や予算、そして犠牲は当初の想定を遥かに超えてしまうことは、今となってはどうしようもない事実だが、結局、最終的な勝利は合衆国のものであるという結果に変わりはない。と、彼は力強く決意していたのだ。
さて、合衆国海軍が新たに建造した四隻の空母がノーフォーク軍港に錨を下ろした頃、遠く離れたマーシャル諸島のクェゼリン環礁では、帝国海軍第六艦隊の艦艇群が次々と錨を上げて出撃しようとしていた。
前述したように、再編された帝国海軍の新たな主力部隊の一つであり、二隻の戦艦、五隻の正規空母、二隻の改造空母、六隻の重巡、四隻の軽巡、二隻の防巡、二〇隻の駆逐艦、六隻の護衛艦で構成され、司令長官の小澤治三郎海軍中将以下、基本的に旧第二機動艦隊の幕僚がそのまま横滑りで配置されている。
ただしこれはあくまでも書類上の編成であり、い号作戦の期間中に大破した正規空母『隼鷹』は、未だにドックの中に入っているためこの場にはいない。
しかしそれでも、この時点で世界第二位の戦力を持つ艦隊である、ということに変わりは無い事実である。
「風に立て!」
「取舵一杯! 本艦針路三四〇度!」
「艦載機収容準備始め!」
そんななか、角田覚治海軍中将率いる第四航空戦隊の旗艦『大鷹』の羅針艦橋は、文字通り喧騒に包まれていた。
帝国海軍の空母部隊には、艦が入泊中はその艦載機を近隣の飛行場に降ろすという慣習があるが、その艦載機を収容しようとしているのは、第四航空戦隊の三隻の空母のみで、艦隊司令部直率の第五航空戦隊の『飛鷹』や、『隼鷹』の代わりに一時的に第八航空戦隊を解隊して第五航空戦隊の一員となっている『穂高』と『乗鞍』にそのような動きは見られない。
後者は別に慣習を破っているわけではなく、ただ単に入港時間が短く艦載機を降ろす暇が無かったからであり、前者は南太平洋海戦の折りに大破した『冲鷹』と『雲鷹』の艦載機の一部の訓練場所が、角田の指示で最前線のマーシャルに指定されていたからだ。
もっともそれほど機数があるわけでもないため、その作業は比較的短時間で終わった。
「司令官。本艦を始め、四航戦全艦は艦載機を収容しました」
「分かった。戦隊針路八〇度、速力一八ノット。艦隊司令部に報告、『我、収容作業完了。これより隊列に復帰す』」
『大鷹』の羅針艦橋から自艦の飛行甲板を眺めつつ、二隻の僚艦と連絡を取り合っていた航空参謀の奥宮正武海軍少佐が、隊内無線の受話器を握ったまま角田に報告すると、角田はいたって簡潔な命令で返した。
その命令に従い、それまで風上に向かって全速力で走っていた『大鷹』は、急速に速度を落とし艦首を右に振っていく。
やがて第六艦隊の艦艇群の姿が羅針艦橋の正面にきたとき、奥宮はもう一度飛行甲板に視線を落とした。
するとそこには、第四航空戦隊の艦載機部隊である第六五一海軍航空隊飛行隊長の嶋崎重和海軍少佐が、艦爆隊長の三枝夕治海軍少佐と談笑している姿があった。
奥宮は今でこそ第四航空戦隊及び六五一空の航空参謀として勤務しているが、元々は士官搭乗員として艦爆の操縦桿を握っていた身だ。
しかし訓練中の事故により負傷し、今でも操縦桿を握って大空を駆け回れるような体ではない。
だが……と彼は思う。
もしあの時事故が起きずに艦爆乗りのままだったら、同期の村田や江草のように艦載航空隊の飛行隊長とはいかなくとも、基地航空隊の飛行隊長、いやむしろ、この六五一空の艦爆隊長程度にはなっていたのではないか。
そうであれば嶋崎少佐は言うに及ばず、彼の義兄にして艦爆乗りの六二一空(第六二一海軍航空隊。第五航空戦隊の艦載機部隊)飛行隊長の高橋中佐(高橋赫一海軍中佐。六二一空飛行隊長)の下で、六五一空に所属する彗星を率いて敵艦隊に突撃していたかもしれないのではないか。
実際、現実の艦爆隊長である一期後輩の三枝は、その経験を豊富に持っている……
「……いったい何を考えているんだ、俺は」
俺は角田司令部の航空参謀だ。それなのに、自分に都合の良い妄想を頭の中に描いていた。参謀どころか、軍人としてあるまじき行為だ。
この作戦の成否は皇国の行く末を大きく左右する。俺はただ帝国海軍の勝利のために全力で司令官を支えるのみだ。
などと奥宮が一人自分自身を戒めているなか、第六艦隊は隊形を整えつつ、ウォッゼとマロエラップの二つの環礁の間をすり抜けるようにしてマーシャル諸島に別れを告げ、太平洋へ、戦場へと踊り出していった。
久しぶりの加筆訂正。第三三話から第三五話です。
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