七一 トラック海軍航空隊
「いらっしゃいッ!」
一九四二年一一月三日、正午過ぎ。
神奈川県の横須賀市街にあるとある定食屋の暖簾を三人の海軍士官が相次いでくぐり、昼時で賑わっている店内の一番奥にある卓に、威勢の良い従業員に誘導されながら歩を進めた。
軍港のすぐそばであるためか、客の多くは海軍の軍服や水兵服を身にまとい、脇を通る佐官の存在にすら気付かずに黙々と箸を運んでいる。
席についた三人の士官は、壁に掲げられた品目が書かれた板を一通り見渡すと、それぞれ従業員に注文する。
「かしこまりました!」とその従業員が去っていくと、一人の士官がかぶっていた帽子をとって、短く刈り込まれた頭を軽く叩きながら微笑を浮かべた。
「嬉しそうだな、村田」
その様子を向かいの椅子に座って見ていた第六四一海軍航空隊飛行隊長の江草隆繁海軍少佐は、同じように微笑を浮かべながら口を開いた。
「まあな。艦攻乗りにとってあそこ程腕を試される場所はないからな」
と、一昨日の一一月一日付けで第六八一海軍航空隊飛行隊長に異動した村田重治海軍少佐は、表情を変えずに答えた。
「それはあそこの水深が浅いからか?」
もう一人の士官、第四航空戦隊航空参謀の奥宮正武海軍少佐が、帽子についた埃を払いながら問い掛けた。
「あぁ。帝国海軍艦攻隊の秘密兵器、零式航空魚雷はまさにあそこで使うためにあるようなものだからな」
「そういえば俺のところの友永が言っていたが、村田貴様、曲芸飛行士に転身するつもりらしいな。それも二艦隊の雷撃隊全員を引き連れて」
「鹿児島のことか?」
江草の発言に、村田は表情を微笑から悪戯がばれた子供のような笑みに切り替え、そう言った。
「仕方がないさ。次の作戦を見事成功させるにはあれだけのことをしなければならない。零式もそこまでしてこそ威力を発揮するのだからな」
「だが江草。そうは言っても貴様の所の雷撃隊から不満なんて出ていないのだろう?」
奥宮が江草に尋ねると、江草は無論だ、とうなづいた。
「たとえどんな訓練だろうと、不満を言うような奴に対空砲火の中に飛び込む勇気など無い。そして逆もまた然りだ」
「それに六四一空は司令官がすぐそばにいるし、その山口中将はこの人のためなら死ねる、そういう方だからな……別に塚原長官に文句があるわけじゃないぞ。ただあの方は常に参謀達に囲まれて巡洋艦に乗っているからな」
一昨々日まで第六〇一海軍航空隊に籍を置いていた村田は、話の途中で江草と奥宮の懐疑的な視線を感じ、動揺したように付け足した。
「なるほどな。確かに山口司令官は一緒にいて気持ちの良い指揮官だ。航空機のことにも精通されているし話も分かる」
「その点、俺の所の角田司令官も同じだな。南太平洋海戦の時の、航空隊を自分自身のことのように思いながらの采配ぶりは素晴らしかった。無論、それ以外でも砲術出身とはとても思えないご活躍だし、常に勉強なさっている」
というふうに、江草と奥宮がそれぞれの上司の自慢話のようなものを繰り広げていると、三人が注文した品々が次々と卓に運ばれてきた。
海軍兵学校の同期生三人は一瞬会話をストップさせると、取り決めでもあったか、一斉に手を箸に伸ばす。
「……ところで、吉良司令官とはもう何か話をしたのか? これから先、飛行隊の訓練が終わるまで会う暇はないだろう」
思い出したように奥宮が村田に尋ねると、村田は味噌汁の器を持ったまま答えた。
「あぁ。挨拶程度だが、一応したよ。だから詳しい話はしてないが、あの方は文字通り海軍航空隊の草分けだ。貴様達の二航戦や四航戦のように、三航戦もまた良い指揮官に恵まれたわけだな」
満足そうに村田は言う。
彼は他人を笑わせ場の空気をほぐす能力には長けていても、自分の事では滅多に感情を表には出さない。
そのことを充分に知っている江草と奥宮は、そんな村田の様子を意外そうに見ていたが、彼等はあえてそのことを指摘せず、航空関係の別の話題を持ち出した。
「四航戦、と言うか六艦隊も補修の完了した艦艇からやはり訓練に入るのか?」
「うむ、我々は二艦隊のような悪路を行くわけではないが、油断は禁物だからな。……来月二日の出撃のギリギリまで、小澤長官は徹底的にやるおつもりらしい」
奥宮は声を潜めて言った。
帝国海軍の次期作戦は当たり前だが極秘事項であり、中身は各部隊の参謀や飛行隊長クラス以上の幹部しか知らない。
そのようなことを、よりによってこのような場所で大声で言えるはずはないのだ。
結局、次期作戦の詳細を知っている三人の士官達の会話は、軍事関係のことから他愛の無い世間話へと変わっていった。
それから一週間後。
内地において、帝国海軍の主力艦隊や母艦航空隊が次期作戦に向けて猛訓練に励んでいる頃、遥か南のトラック諸島の近辺では壮烈な実戦が繰り広げられていた。
日本軍の最前線がトラック諸島なら、アメリカ軍の最前線はラバウルだ。
開戦から半年間に渡って、米軍は散発的に爆撃をしかけてきていたが、彼等はそれほど爆撃に熱心ではなく、どちらかと言えば不気味な静寂が両地点の間の海域を支配していた。
しかし、六月上旬に行われた南太平洋海戦の折りに、四発の重爆撃機B17と双発双胴の重戦闘機P38の大編隊がトラックを襲って以来、一〇日から一五日に一回程の割合で、両地点の間では激しい航空戦が繰り広げられるようになった。
一方で、帝国総合作戦本部の基本方針である“戦域の不拡大”に従い、日本軍にトラックより南へ進出する気など無い。
だがトラックは南方の最重要拠点の一つであり、何があっても守り通さねばならない。
そのためトラック諸島には海軍航空隊の精鋭が多数配置され、これらの航空隊は所属の第一航空艦隊ではなく“トラック海軍航空隊”と総称されるようになり、その活躍ぶりは内地の新聞各紙を賑わせていた。
「長谷部一番より指揮所。目標発見。夏島より方位一八〇、七〇海里、高度六〇。B17約一五〇機、P38約六〇機。我、これより攻撃す」
「長峰一番より三四三空各機へ。全軍突撃せよ!」
「長谷部一番より一八一空各機へ。全軍突撃せよ!」
この日もトラック諸島の南約七〇海里の地点で、ラバウルより発進したと思われる一五〇機のB17と六〇機のP38に、胴体や翼に鮮やかな日の丸を描いた戦闘機隊が襲いかかっていた。
合わせて二一〇機の大編隊の面前に立ち塞がるのは、三日前に機体と搭乗員の補充を受け、また優秀な整備員のおかげで定数を保っている第三四三海軍航空隊の紫電一一型九六機と、多少消耗している第一八一海軍航空隊の月光三一型七六機の合わせて一七二機である。
三〇機ずつ五つの梯団を組んで、整然と進むB17の胴体上面に設けられた旋回機銃座から吹き上げられる多数の火箭を巧みにかわしながら、一八一空の月光が逆落としに突っ込んでいく。
そしてその一〇〇〇メートル程上空において、三四三空の紫電はP38との戦闘に突入しようとしていた。
ところで本来、戦闘機であるP38の掃討は機動力に優れる零戦隊の役目であり、二〇ミリ機銃を四挺積んでいる紫電の担当はB17の掃討だ。
ではなぜ紫電がP38に取り付いているのかというと、第一航空艦隊隷下の零戦隊である第二二一海軍航空隊と第二五一海軍航空隊が、そもそもトラックにいないからだ。
前者がいない理由は、陸軍航空隊の編入に伴い搭乗員のほとんどを陸軍航空隊出身者に入れ替えるためであり、後者がいない理由は、搭乗員の補充もさることながら連合艦隊総司令部直々の呼び出しによるものだ。
……などということはともかく、三四三空の紫電隊は春嵐エンジンにフルスロットルの雄叫びを上げさせながら、P38隊のほぼ真っ正面から突っ込んだ。
無数の真っ赤な火箭が飛び交い、いきなりそれらにからめとられてしまった数機ずつの不運な紫電とP38が、火を吹きながら墜落していく。
そんななか、三四三空第一〇小隊の小隊長を務める福山和樹海軍飛行兵曹長の放った射弾は、見事なまでに空を切っていた。
外した! と思った次の瞬間には、彼の紫電と目標としたP38は猛速ですれ違っている。
だが三四三空の任務は、P38部隊の牽制及び撃滅だ。
福山は逃してはならじと、小隊の列機を従えながら、帝国海軍の中では零戦に次ぐ短さの旋回半径を描いて、先程のP38の後を追った。
「福山三番より一番! 敵機一番の右後方!」
すると突然、小隊の第二区隊長浅野誠司海軍一等飛行兵曹の絶叫が左耳に飛び込み、福山は咄嗟に操縦桿を右に思いっきり倒し、右足でフットバーを蹴飛ばした。
そして主翼の左端が持ち上がった途端、そのすぐ脇を火箭が貫いていく。
「福山三番より一番。あの敵機はお任せください!」
「了解! 頼んだぞ!」
福山は今まで追っていた敵機の処理を浅野に任せ、岩谷昌文海軍二等飛行兵曹の二番機と共に、たった今襲ってきた敵機の追跡を開始した。
そのP38は、得意の一撃離脱戦法をかわされたことに慌てたのか、戦法の名の通り急降下で戦域からの離脱をはかった。
福山と岩谷も、スロットルをフルに開いたまま急降下に移る。
三機の戦闘機はそのまま、月光とB17の死闘を横目に見ながら、自らのエンジンと地球の引力に引っ張られ、高度が急速に落ちていく代わりに速度をグングン上げていく。
紫電のカタログ上の最高速度は、高度六〇〇〇メートル付近における時速六一七キロとされているが、速度計の針はすでに七〇〇キロを、高度計の針も四〇〇〇メートルを突破している。
「……素人か? こいつは」
急降下により高度がかなり落ちたにも関わらず、いっこうに急降下を止めようとしない敵機を追いかけなから、福山は思わずつぶやいた。
これまでの戦歴からP38の特徴はある程度は福山も知っているのだが、その中に低空に降りると運動性が低下する、というものがある。
福山は当たり前だが海軍兵学校出の士官搭乗員ではなく、ごく平凡な頭脳を持つ下士官搭乗員であるため、なぜそうなるのかは良く分かっていない。
しかし、事実は事実である。
その証拠に、照準器の環の中のP38は次第に大きくなってきている。
敵の搭乗員は逃げることで頭が一杯なのかもしれないが、だとすればとんでもない思い違いだ。
やがて高度計の針が三〇〇〇メートルを突破したあたりで、さすがに不利を悟ったのだろう。そのP38は機首を持ち上げて急上昇に移った。
(あの噂は本当だったのか)
P38の動きを見て操縦桿を引きながら、福山はトラックの基地内で聞いた噂を思い出した。
その噂とは、大型の増槽を抱えて遥かラバウルからやって来るP38は、その過酷な任務のせいで消耗が激しく、数を揃えるために技量の劣る搭乗員も戦場に投入されている、というものだ。
確かに夏までは必ずB17に随伴してきていたP38も、秋に入ってからはB17の数が多いときに限って出撃してきている。
米国の国力は日本のそれに比べて破格に大きいということは、もはや小学生でも知っている全国民の常識となっているが、案外脆いところもあるらしい。
と、福山が考えている間に、彼の紫電はさりげなくP38を射程内におさめていた。
理屈は簡単。前を行くP38と比べて機首を持ち上げる際の動きに無駄が無かったのだ。
上向きの射撃であるため狙いづらいものがあるが、満中戦争の頃から戦闘機を操っている福山にすれば造作も無い。
主翼から伸びた四条の火箭は的確に、P38の左のエンジンに吸い込まれていった。
間髪入れずに岩谷機からも火箭がほとばしり、これは垂直尾翼を吹き飛ばした。
「撃墜、だな」
火を噴きながら文字通り空中をのたうっているP38を見ながら、福山はぼそりと言った。
「小隊長。どうやらP38は駆逐されたようです」
不意に岩谷の声が左耳に響き、福山は周囲を見渡しその発言を裏付けた。
「よし、俺達も行くぞ!」
福山はそう言うと、操縦桿を引きB17の編隊に機首を向けた。