七 満中戦争勃発す
一九三八年九月一六日。
北洋軍閥満州派の実力者である張作霖の息子でありながら、満州事変の際に国民党政府に寝返ったあの張学良率いる中国国民党軍の大軍が国境線を乗り越えて、満州帝国領内に侵入してきた。
その兵力は一二個師団他二五万を数え、戦車二〇〇両、三〇〇機の航空機をもともなっていた。
戦車はドイツ製の二号戦車やソ連製のBT−7やT−27、アメリカ製のM3軽戦車など寄せ集めの軽戦車軍団で、独自に機甲部隊は構成しておらず、歩兵師団に適当に割り振られて配備されていた。
航空機も状況は似たようなもので、戦闘機はP−36やF3F、I−16、爆撃機はJu87やSB2U、B−10とやはり寄せ集めの部隊であった。
これは中華民国に戦車や航空機を製造する能力がなかったからだが、大砲程度なら自作する能力はある。
であるから砲兵部隊は強大で、うかうかと出ていけば砲弾の嵐にあうことになるだろう。
対する満州帝国陸軍は歩兵戦力こそ勝っているが、それ以外は同等かあるいは劣っていた。
中華民国と違い戦車も航空機も自前で揃えることの出来るだけの能力及び設備は持っていたが、戦車などの装甲車両はもっぱら日本や英領マレー向けのものが多く、自国の分がなぜか少ないという奇妙な現象が起きていた。
これは日本政府が意図的に行なったことで、兵器の生産は満州帝国に任せてその分余裕のできた国内の工場で民需製品、特に機械製品を生産させていたのである。
おかげで例えば日本の自動車事情は史実に比べてはるかに良く、中南米や東南アジアなどに向けて輸出さえも出来るようになっていた。
ベンツやフォード、ロールスロイスのような欧米車に比べて高級感やパワーはないが、堅実な設計のおかげで壊れにくく小回りがきいて燃費の良い日本車は、輸出先でも好評であった。
話がそれたが、そんなわけで機甲戦力が心許無い満州帝国の防衛方針は前線司令部を奉天に置き、二手に別れて侵攻してくる国民党軍を錦州と熱河の地で食い止め、『満州』製の戦車を装備した帝国陸軍の援軍を待つ、ということに決まった。
一九三八年九月二三日。
雪が降る前に少なくとも奉天まで進んでおきたい国民党軍は、総勢一〇万の兵力でもって錦州に攻めかかった。
この地を守る満州帝国陸軍は、四個師団プラス帝国陸軍満州駐屯軍から一個師団の同じく一〇万であった。
まだ応援にかけつけるはずの帝国陸軍第一機甲師団と第六師団は旅順に上陸し始めたばかりで、到着するまであと二、三日はかかりそうだった。
この段階では、とりあえずかきあつめた重砲と帝国海軍航空隊の応援をうけた航空部隊でしのぐしかない。
ちなみに宣戦布告はこの日満州帝国と大日本帝国から中華民国に向けて宣告された。
日満両国は中華民国を国家としてとりあえず承認していたが、蒋介石にとってみれば日本はともかく満州などは勝手に反乱をおこした不届きな連中にしか見えないのである。
なにはともあれ、戦いは重砲の撃ち合いから始まった。
しかし国民党軍はいくら沢山の重砲を持っているとはいえ、その『人数』のわりに重砲の数が少なく一門あたりの弾薬数も少なかった。
だから一〇分もすると、早々とBT−7とM3軽戦車を先頭にたてて進撃してきた。
対して満州帝国陸軍には日露戦争の戦訓がいきていて、一門あたりの弾薬数に関しては余裕のあるものだった。
国民党軍が出撃してきたとみるや、待ってましたとばかりに一五,五センチ榴弾砲が雨霰と弾を国民党軍の頭上に降らせた。
そこへ厄介な砲台を潰すべくJu87とSB2U合わせて三〇機が爆弾を抱えて飛来した。護衛はP−36戦闘機二〇機である。
「対空戦闘用意!」
日満陸軍の高射砲や機関砲が大空をにらむ。
「撃ち方始めッ!」
高射砲が一斉に火を吹き上空に鉄片をばらまく。
だがそう簡単には当たらない。敵機の群れは隊形を崩されながらも突っ込んでくる。
「後方より航空機接近! 四〇機程の戦闘機と思われます。」
「あれは……日の丸です。帝国海軍航空隊の応援です!」
この時やってきた日本機は空母『橋立』『厳島』所属の九六式艦上戦闘機であった。
率いるのは『橋立』の戦闘機部隊長の木宮昌憲海軍大尉である。
橋立隊は爆撃機、厳島隊は戦闘機めがけて飛んで行く。
本来急降下爆撃機であるJu87とSB2Uであるが、連度の劣る国民党軍パイロットは皆緩降下爆撃しかおこなわない。
そこへちょうど頭上から七,七ミリ機銃の連射を浴びたのだからたまらない。
パイロットが撃ち抜かれた機体などは回転しながら落ちて派手に爆発を起こす。
P−36は日本機に気付くと直ぐに矛先を変えたが、ベテランパイロットが操る九六艦戦の機動に着いていけずに、あっという間に後ろをとられて撃墜される機体が相次いだ。
しかも国民党軍が運用しているP−36は値段を抑えるために、固定脚バージョンの機体であり、さらにはきちんとした整備が施されていないため、本来の高性能が発揮出来ずにいた。
九六艦戦の中でも最も優秀な四号艦戦の相手ではなかったのだ。
最終的に、国民党軍が放った五〇機の航空隊のうち帰ってこれたのは、Ju87が五機、SB2Uが一二機、P−36が六機の合わせて二三機……つまり半分であった。
無論これ以外にも、よく帰ってきたな、というようなボロボロの機体もある。当然そんな機体は使えない。
さて、エアカバーを失った国民党軍はさらなる不運に襲われることになる。
旅順沖に展開している帝国海軍第二航空戦隊……『橋立』『厳島』『松島』……から攻撃隊が一斉に飛び立ったのである。
制空権は握っているから艦爆、艦攻合わせて七二機の第一波はそれこそ悠々と爆弾を投下した。
特に九八式艦上爆撃機(史実の九九艦爆)の活躍は素晴らしく、的確な急降下爆撃により国民党軍将兵に心理的なダメージをも与えた。
この一連の戦いの間にも例の一五,五センチ榴弾砲は律義にも撃ち続けていた。
爆弾と砲弾の嵐をくらった国民党軍の多くは戦意を喪失しジリジリと後退を始めた。
何とか日満連合軍の防衛ラインまで迫った一部の部隊も、迫撃砲や機関銃の猛射を浴びて結局後退した。
そこへすかさず日満連合軍が追撃をかけ、国民党軍は総崩れとなった。
日満連合軍も深追いはせずにひととおりひっかき回すと引き上げた。
翌日、同じく一〇万の兵力を持つ国民党軍の別動隊が熱河に攻撃をかけてきた。
しかし熱河は油田があるということもあって元々その防衛能力は高く、増援を受けたその兵力は六個師団他一二万に及んでいた。
さらに奉天に進出した帝国陸軍第二航空師団が絶えず九七式司令部偵察機を飛ばしていたため、国民党軍の動きは手にとるように分かり、彼らは錦州を襲った部隊と同じように爆弾と砲弾の洗礼を受けるはめになった。
慌てて飛び上がってきたP−36(固定脚)やI−16も、増槽を付けてやって来た帝国陸軍が誇る『空の狙撃兵』九七式戦闘機の前には無力だった。
さて熱河という都市は国境線のすぐ近くにある。
大打撃を受けていったん自国領内に引き上げた国民党軍をそのまま追撃すれば……なにしろ六個師団もの兵力を持っているのだから……勢いにのって北京占領も可能である。
奉天に設けられた日満連合軍前線司令部でも、満州陸軍の若手参謀は追撃を主張した。
『満州帝国』と呼ばれているが、元々は『清帝国』なのだ。
北京を占領し、そのまま一気に中国全土を再占領して栄光の大清帝国を復興しようではないか、というある意味魅力的な案ではある。
しかし、日本軍や満州軍の中でも老練の参謀達は皆強硬に反対した。
確かに両国が協力して、なおかつ総力をもって攻めかかれば、まったく無理、ということもないだろう。
そしてそのあとどうなるか?
間違いなく両国は国際社会から孤立し史実のように底無し沼に……考えるだけでも恐ろしい。
もっともそんなふうに考えている人間はいない(いるはずがない)。
では何を考えているのかというと、今までの長い中国の歴史である。
中華民国は漢民族国家であり、連中から見れば満州帝国は異民族国家なのだ。
古来いくつもの異民族(主に北方の騎馬民族)が南下してきては漢民族を支配下におき、失政を重ねては漢民族が政権を取り返し、また弱体化すれば異民族が、と中国史は同じことの繰り返しでもある。
また同じことをするなど愚か者のやることだ、しかも昔と違い敵は漢民族だけではないのだ。
結局、基本戦略はあくまでやってきたらぶっつぶす、ということに落ち着いた。
もちろんただ待っているだけではない。
一〇月に入ると、帝国陸軍の九七式重爆撃機、帝国海軍の九六式陸上攻撃機が奉天や旅順に進出してきていて、日満連合軍はこれらの機体……史実よりもすぐれた技術と賢明な判断により爆弾搭載量はそれぞれ一二〇〇キロ……を使った、戦略爆撃を計画した。
これまでも空母艦載機や陸軍の軽爆による敵陣地に対する戦術爆撃は毎日のようにしてきているが、敵の兵站線や補給基地等を狙う戦略爆撃は戦争が始まって以来初めて、いや日本軍に航空隊が出来て以来初めてだろう。
一〇月一〇日。
旅順の飛行場から帝国海軍第一連合航空隊の九六式陸上攻撃機三六機が、護衛に二五機の九六式艦上戦闘機を伴い出撃した。
目指すは北京の東一五〇キロにある都市、唐山である。
同じ頃、旅順軍港から第五艦隊と名付けられた艦隊が出撃した。
この時帝国海軍は連合艦隊から艦艇を引き抜き、支那方面艦隊という部隊を編成していた。
先の第一連合航空隊もその隸下部隊の一つである。
そして第五艦隊もまた隸下部隊の一つであるが、方面艦隊司令部が第五艦隊司令部を兼任している。
「面舵一杯、針路三〇〇。両舷前進原速」
艦長の号令に従い、旗艦である戦艦『伊勢』を先頭に第五艦隊は渤海目指して二〇ノットの速度で進んで行くと共に、『伊勢』『日向』から二機ずつの水上偵察機がカタパルト発進した。
「零時の方向より友軍機多数、接近します」
見張り員の報告に艦橋にいた司令長官の及川古志郎海軍中将以下参謀達は、双眼鏡をかまえた。
「思ったより早く来たな」
「ええ、これで肩の荷が一つおります」
ホッとしたように参謀長の草鹿仁一海軍少将が答える。
「偵察機から入電。『天津港に停泊中の敵艦艇は、駆逐艦三、その他小艦艇及び輸送船一〇隻程度と認む。敵戦闘機発進の気配あるにつき我これより帰投す』です」
「水偵には旅順に向かうように伝えたまえ。……司令官、思ったより大したことはありませんな。わざわざ橋立航空隊に応援を頼まなくても」
「参謀長、現に天津には敵の航空機がいる。油断は禁物だ」
「こちら隊長機。目標の唐山はすぐそこだ。出撃前にも言ったが今回は厳密な目標はない。ただ爆弾を落として帰ってくるだけだ。しかし……」
「三時方向から敵機! あっ五時方向からも。三〇機ほどの敵戦闘機接近してきます!」
「攻撃隊は密集して速度を上げろ! 戦闘機隊は……」
ここで通信は途切れた。
二五〇キロ爆弾を四つも抱えてただでさえ鈍重な九六式陸攻は、いくら相手が古いI−16でも格好の的でしかない。
しかも当時の日本軍用機は共通して防御力が弱い。
四挺の七,六二ミリ機銃の攻撃をくらっただけなのに、それだけで陸攻は炎上したのである。
この唐山上空の空戦で帝国海軍は、一〇機の陸攻と幾人ものベテラン塔乗員を失う代わりに大きな戦訓を得た。
軍用機には防御のための防御が必要であること、そして戦略爆撃の重要性……敵の輸送部隊を狙った九七重爆のほうは成功していた……をあらためて知ったのである。
さらにもうひとつ戦訓があった。
それは撃墜されなくても煙を吹いている五機の陸攻が独断で奉天に向かったことからうまれたものである。
いつ墜ちるかわからない状況だったため、多少遠くても陸地が下にあるほうがいざというとき安心というわけだ。
幸い脱落するものもなく奉天飛行場にたどり着いたが、ここからが問題である。
誰もこのボロボロの陸攻を修理することができなかったのだ。
三機はもうどうしようもなく後に破棄されるが、二機は修理すればまた使えそうだった。
しかし陸軍機しか修理したことのない陸軍の整備兵にとって、海軍機はまさに未知の物体だったのだ。
後にこれは陸海軍で同一機種を使用するという画期的な改革につながることになるのである。