六九 忘れられたルソン島
一九四二年九月一日。
大日本帝国の首都、東京では、街を上げてある一大行事が行われていた。
約二〇年前に東京を襲い、多数の死傷者と避難民を出した忌まわしき大震災を教訓とした、年に一度の大規模な避難訓練である。
しかし、今年のそれは例年に比べ遥かに盛大なものだった。
街を上げたこのイベントも基本的には強制ではなく、中には訓練など無視して普段通りに仕事等をこなす人もいた。
だが今回は主催者が東京市から大日本帝国そのものになり、東京市の住民及び東京市に職場を持つ郊外の住民まで、よほどのことが無い限り参加を義務付けられ、学校や会社はもちろん休みで、近郊列車や地下鉄も大幅に本数を減らして運転している。
このことを知らない地方から夜行列車に乗って上京してきた人々が、上野駅や東京駅で唖然としながら立ち往生する姿が翌日の新聞の『二面』を騒がせた程だ。
何しろただの避難訓練ではなく、大日本帝国が始まって以来最大規模の『防空演習』なのだ。
「搭乗員整列!」
東京市中で避難訓練が行われている一方、その東京の空を守る拠点である羽田飛行場のスピーカーが震えた。
「訓練、敵機来襲。防空戦闘機隊は発進準備、空中警戒隊は直ちに発進せよ! 急げ!」
帝国海軍第一一航空艦隊司令長官の井上成美海軍中将直々の命令を受けて、飛行服に身を包んだ搭乗員達が我先にと駐機場へ、飛行艇用桟橋に駆けて行く。
ところで、井上成美の肩書きは元々『本土防空特別航空軍』という、陸海軍の連合部隊の司令長官だったのだが、陸軍航空隊が海軍航空隊に編入されるにあたり、この組織も純粋な帝国海軍の一部隊に落ち着いたのだ。
しかし、帝都東京の防空という重大な任務に変わりは無い。
日本本土を爆撃出来るような機体や基地、そして空母を米軍が持たないという現実があるため、ドーリットル爆撃隊の来襲という事実をもってしても、最新式の機材は集まりきっていないというのが第一一航空艦隊の実状だが、搭乗員達の士気は非常に高いのだ。
「指揮所より高山一番。応答せよ」
「こちら高山一番。感度良好どうぞ」
第三〇一海軍航空隊の飛行隊長、高山皆房海軍大尉の無線機から第一一航空艦隊隷下の航空隊を総轄する、第二二航空戦隊司令官の松永貞市海軍少将の声が響く。
「三〇一空は直ちに全機発進せよ。針路は一八〇。敵機は伊豆諸島に沿って北上してくる模様」
「了解しました。三〇一空発進します」
「高山一番より三〇一空全機へ。直ちに離陸する」
松永からの指示に簡潔に答えると、高山は隊内用小型無線機に繋がっているマイク、つまり自身の左耳にかかっているそれに向かってやはり簡潔に指示を出した。
「チョークはらえ!」
その後高山は主輪の車止めを整備兵に取り払わせると、機体を滑走路に向けて滑らせ始めた
そして滑走路に新入するやいなや、彼はいきなりスロットルレバーを押し込んだ。
それまで暖気運転程度の勢いでしか回っていなかった機首の春嵐一一型エンジンが、一五〇〇馬力の猛々しい咆哮を上げて彼が操る紫電を思いっきり引っ張る。
訓練とは言え緊急発進をしたため、高山は特に考えもせずに指揮所の言う最寄りの滑走路から飛び立ったのだが、結果的に彼の紫電は西の方角に向けて高度を上げ始めていた。
ほんの一分かそこらで川崎市街の上空に達すると、高山は機体を旋回させながら部下達の集合を待った。
しばらくして全部で四七機の単発機が彼のもとに集まり、三つの編隊を組み始めた。
だが、最新鋭の局地戦闘機である紫電は高山機を含めて一六機、一個中隊分しかおらず、残りの二個中隊三二機は零戦だ。
空母に搭載されるものや一部の侵攻型の基地航空隊向けの機体はともかく、一般的な基地航空隊向けの零戦はすでに旧式化したものが多い。
しかしだからと言って、搭乗員達の練度が低いわけでも何でもない。
そんな彼等が操る四八機の戦闘機は勇躍、本来はいるはずのない敵機目指して南下を開始した。
その頃、フィリピンのルソン島の沖合いにはインド洋におけるい号作戦を終了し、本土に向けて帰還途上にある帝国海軍第二艦隊が姿を現していた。
「旗艦より入電。『挺身隊針路三四〇。発動時刻一〇三〇』以上です」
「旗艦宛て返信。『一戦隊了解せり』」
挺身隊と呼ばれる部隊の最後尾を行く六隻の戦艦の先頭を行く、第一戦隊旗艦『大和』の昼戦艦橋で第一戦隊司令官の西村祥治海軍少将が口を開く。
「電測より艦橋。対空電探に感有り。本艦正面に一〇〇機以上の大編隊を探知しました。距離は一一〇海里」
「友軍機、ですね」
「あぁ、米軍の航空部隊は無いに等しいからな」
『大和』艦長、高柳儀八海軍大佐の発言に西村はのんびりと答えた。
そして二人の観測を裏付けるように通信室からの報告が入る。
「通信より艦橋。陸軍航空隊第五航空軍司令部より入電。『貴艦隊正面の編隊は我が五航軍攻撃隊なり。貴艦隊の協力に感謝す』以上です」
挺身隊からの問い合わせに答える形で報告電が入る。
「ほう、予定通りだ。となると今頃ミンドロ島から降伏勧告の電波が飛んでいるわけだ」
「艦橋より通信。第一軍からの通信はないか?」
「……ルソン島の米軍司令部宛てに絶えず飛ばされています。英文で……脅迫めいてますが」
通信長からの報告に、西村と高柳は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
おおかた、「さもなくば沖合いの艦隊が……」といったところだろう。
さて、そうこうしている間に第二艦隊司令部が指定した時刻を迎えた。
「挺身隊針路三四〇。速力そのまま、右砲戦準備!」
「右砲戦準備! 観測機発進せよ!」
「電測より艦橋。『長良』取舵に転舵、針路三四〇。一水戦各艦続行します」
挺身隊の指揮をも執る西村の命令が伝わるやいなや、電測室から部隊の先頭の第一水雷戦隊の素早い動きが報じられる。
「見張りより艦橋。『那智』取舵に転舵」
そして見張り員からの報告が入ると高柳が口を開いた。
「取舵一杯! 本艦針路三四〇度!」
即座に舵機室の舵輪が勢い良く回されるが、『大和』は巨大過ぎるため何も起こらない。
しばらく何事も無かったかのように直進を続けたが、やがて戦艦とは思えない程の小さな旋回半径を描きながら回頭を始める。
回頭を終了して再び艦が直進を始めると、四基の主砲塔が滑らかに旋回して一二門の砲身をもたげた。
「艦橋より砲術。目標、右舷の米軍基地。使用弾は二式通常弾。一斉撃ち方でいけ」
「砲術より艦橋。了解です」
「艦橋より通信。通信波に変化はないか?」
「ありません。第一軍司令部からの降伏勧告文はひたすら流されていますし、それに対する米軍からの返信もありません」
通信室からの返事に、高柳は何とも言えない焦りを覚えた。
「『信濃』より入電。『二戦隊砲撃準備完了』」
「『伊勢』より入電。『三戦隊砲撃準備完了』」
「旗艦宛て通信。『挺身隊砲撃準備完了』」
やがて飛び込んできた僚艦からの相次ぐ報告を聞いた西村は、努めて冷静にそう言った。
しかし、その口から「砲撃始め」の命令が出ることも、後方で待機している第二艦隊旗艦の『仁淀』から砲撃開始の催促がくることもない。
「観測機から入電。『陸軍航空隊、米軍基地に突撃を開始す』以上です」
「一水戦及び九戦隊に命令。砲撃始め。目標、右舷の米軍基地。使用弾は徹甲弾!」
西村の命令は例によって迅速に伝わり、『大和』の前を進む第一水雷戦隊と第九戦隊がその砲門を開き、弾丸を轟音と共に放り出した。
だが相変わらず戦艦は沈黙したまま、徹甲弾や爆弾、機銃弾の雨が降っている米軍基地を横目に見ながら、ただひたすらにスクリューを回している。
第二艦隊司令部や西村が、戦艦部隊に砲撃開始の命令を口にしない理由は二つある。
まずは口径四一センチの二式通常弾を米軍基地の上空で炸裂させると、低空に舞い降りているかもしれない陸軍機を墜としかねないということ。
そしてもう一つの理由は、この作戦が予定外のものであるということだ。
と言うのも、第二艦隊の戦艦はインド洋でい号作戦を遂行するにあたり、英国海軍の妨害が無いことを良いことに縦横無尽に暴れまわり、執拗なまでの艦砲射撃を敢行してきた。
つまり、弾薬庫がスカスカの状態であるということだ。
さらに『大和』と『武蔵』に至っては、竣工後の公試運転と訓練が終わるや否や実戦に投入され、それから今に至るまで戦い続けてきたため、主砲の命数も残り僅かになっているのだ。
「こうなるのなら、インド洋でもう少し抑えるべきでした」
高柳が主砲を撃てないもどかしさを口にすると、隣で西村が諭すように言った。
「仕方がない。我々は陸軍の要請に従い今ここにいるわけだが、それが無ければ今頃は一機艦と共に本土を目の前にしているところだ。フィリピンのルソン島など、誰もがその存在を忘れていたも同然だ。何しろあの島は三南艦が封鎖しているから、味方との連絡さえつかんよう……」
「水測より艦橋! 本艦より右五〇度、距離三〇にスクリュー音探知! 潜水艦と思われる!」
そんなとき、唐突に飛び込んできた通報に『大和』の昼戦艦橋は騒然となった。
「一水戦砲撃止め! 対潜戦闘始め!」
「面舵一杯! 本艦針路三〇度!」
西村と高柳は顔色を変えて絶叫したが、その潜水艦から魚雷が放たれることはなかった。
「指揮所より高山一番。訓練終了。帰投せよ」
一方、防空演習の一つとして三〇一空に課せられた迎撃訓練も、羽田の司令部に横須賀や館山の海軍基地、そして伊豆諸島の島々に設けられた監視所の対空電探のデータをリアルタイムで送信し、戦闘機隊を誘導する訓練を一通り終えたため、こちらも終了を迎えようとしていた。
「高山一番より各機。これより羽田に帰投する。針路〇度」
高山はそう部下達に伝えると、愛機の右のフットバーを軽く踏み込みつつ操縦桿を右に倒して、機体を一八〇度旋回させた。
そんな彼の頭の中には、訓練を無事に終えつつあるという安堵感と、基地に着いてから開かれるであろう訓練の反省会のことがグルグルと回っていた。
言うなれば物思いに耽っていたわけであるが、三〇一空の編隊が三宅島上空を通過しようとしたまさにその瞬間、無線機から松永の切迫した絶叫が響いてきた。
「指揮所より高山一番! 応答せよ!」
「こ、こちら高山一番。どうしました!?」
突然の変事に高山はやや慌てながらも問い返した。
「三宅島監視所の対空電探に敵味方不明機の大編隊が写った。詳細は不明だが、三〇一空戦闘機隊は直ちに迎撃に向かってもらいたい」
「高山一番了解です。それでその不明機の位置は?」
「三宅島からの方位二〇〇、距離三〇海里。高度は上昇しつつある!」
「分かりました! 直ちに迎撃に向かいます!」
「高山一番より各機へ。三宅島からの方位二〇〇、距離三〇海里に敵味方不明機が発見された。我々はこれより迎撃に向かう!」
高山は叩きつけるように言葉を発し、機体を再び旋回させた。
急な動きにも関わらず、帝都防空という重責を背負った部下の搭乗員達の動きに乱れは無い。
高山はそんな部下達の事を頼もしく思ったが、同時に大きな疑問が頭に浮かんでいた。
三宅島監視所の言うことが事実なら、その敵味方不明の編隊は突然わいて出てきたということになる。
だが普通友軍機はそんなことはしないし、敵機だとするならなお不自然だ。
少なくともこの時点で、米軍は東京を爆撃出来る爆撃機も基地も持たない。
空母も四ヶ月前の南太平洋海戦で全滅しているはずで、新しく竣工したものだとしてもどうやって厳重な警戒網を突破したのか。
考えれば考える程、疑問はどんどん増えていく。
「指揮所より高山一番。目標の位置は貴隊の右五度だ。まもなく視界に入るだろう」
そうこうしている間に松永からの指示が飛び込む。
ちなみに高山はこの後、松永の微妙な口調の変化に気付けなかったことを、おおいに悔しがったという。
第二九話から第三二話まで加筆訂正しました。
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