六八 沈鬱する大英帝国
「失礼します」
一九四二年七月三一日、正午過ぎ。
帝国海軍連合艦隊の情報参謀、早乙女勝弘海軍中佐はそう言いながら、総司令部の作戦室に入室した。
「例の結果についてまとまったのかね?」
巨大な地図の隣に置かれた会議用の机の一番奥の椅子に座っている司令長官の山本五十六海軍大将は、目をつむり顔を机に肘をついた手の上にのせながら言った。
「はい、天道中佐のご協力を得まして」
早乙女は共に入室した陸軍参謀の天道早太陸軍中佐をちらりと見ると、目の前に鎮座している地図を迂回するように歩き、自分の席に腰を下ろした。
「いえ私はただ陸軍の諸機関との連絡をつけただけです。それに畑大臣の陸軍省執行部も、海軍には出来る限り協力するようにとの通達を出していますから」
「ありがたいことだ。さて全員集まったな。始めよう」
天道が謙遜しながら席につくと山本はそう一言言い、会議の開始を宣言した。
それを合図にさっき座ったばかりの早乙女が、持ち込んだ書類を手に取り立ち上がった。
「まず結果から申し上げます。英国海軍によるマルタ島に対する輸送作戦は例によって失敗したようです。結局マルタ島には何一つ物資は届かず、同島の降伏は時間の問題と思われます」
「確か……英国海軍の護衛部隊は戦艦四隻と空母四隻を基幹としていたと思うが」
それだけの兵力を持っていても失敗したのか、と参謀長の宇垣纏海軍少将が口を開いた。
「確かに参謀長のおっしゃる通りです。ですがネルソン級やキング・ジョージ五世級を揃えた戦艦部隊と違い、正規空母は一隻のみで残りはアメリカ製の護衛空母だった模様です。とりあえず、現時点で判明した地中海における一連の戦闘の経過をご説明します」
そう言うと早乙女は書類を捲った。
「まず七月一八日の正午前に、一五隻前後の輸送船団が、四〇隻近い護衛部隊に守られながらジフラルタル海峡を突破し地中海に進出しました。……ただイギリス艦隊からの通信を陸軍参謀本部の情報部が解析したところによると、地中海に進出した直後からドイツのUボートによる妨害を受けていたようです」
「イタリア艦隊はどうしたのです?」
作戦参謀の山本祐二海軍中佐が尋ねると、早乙女は書類に書かれた文字を指で追って該当箇所を見極めた上で答えた。
「翌一九日の早朝に、戦艦四隻を基幹とする艦隊がタラントを出港しています。率いたのはアンジェロ・イアキーノ提督ですね」
「その戦艦の種別は分かりますか?」
「二隻が最新型のヴィットリオ・ベネト級、もう二隻が旧式のコンテ・ディ・カブール級とみられます」
「しかし、それだとネルソン級やキング・ジョージ五世級との撃ち合いはちときついな」
なぜか諸外国の艦艇に詳しい宇垣が指摘する。
「はぁ、二二日の早朝に英国艦隊はマルタ島まで一五〇キロの地点にたどり着いた模様ですが、通信を解析した限りそれまでにかなりの数の艦艇が脱落及び後送されたと推測されます。そしてここで英国艦隊は枢軸軍による最大規模の迎撃を受け、作戦中止という最悪の事態を迎えたようです」
「その詳細は分かるのか?」
「いえ、それは……」
「参謀長、それは無理だ。大方その情報はスペイン軍とスペインの駐在武官からのものなのだろう? ジブラルタル宛てならともかく、艦隊内通信の電波をイベリア半島から捕まえられるとは思えんからな」
言葉に詰まった早乙女に助け船を出すように、山本が宇垣を諭した。
「長官のおっしゃる通り、何とか受信出来たものも切々で細かい戦闘経過は不明ですが、一つ気になることがあります。その切々の通信の中に、ジュディという単語が含まれていたそうです」
早乙女が『ジュディ』という言葉を口にした瞬間、それまでじっとしていた航空参謀の樋端久利雄海軍中佐が眉をピクリと動かし、目を閉じて右手の指で眉間を軽く押さえていた首席参謀の黒島亀人海軍大佐はハッと目を開いた。
「前後の内容が不明ですので何とも言えませんが、素直に考えるとこの単語は我が帝国海軍の主力艦爆である彗星に、米英等の連合軍がつけたコードネームということになります」
「彗星が遥か地中海に? まさかドイツ軍か?」
信じられないという口調で宇垣が言うと、一人だけカーキ色の軍服をまとった天道が静かに口を開いた。
「おそらく約三ヶ月前にインド洋で拿捕された不審船、つまり我が陸軍の統制派を中心とした対独同盟を唱える連中が、伊領ソマリランドに派遣した軍事交流船の仕業でしょう。首謀者以下ほとんどの幹部が口を割っていないため未だに確証はありませんが、船員の話を聞く限りでは日本からの積み荷に彗星の設計図が含まれていたようですから」
ちなみに、史実ではすでに崩壊している伊領東アフリカ帝国は、イギリスが対ドイツの戦いで手一杯のため、しぶとく生き残っている。
「それは分かっているが、しかしドイツ軍はもう戦力化して実戦投入したとは……」
「物事を自分の尺度で計るのは禁物だ、参謀長。確かに早いが事実だ。だが、このことは実働部隊である我々の議論することではない」
と、再び山本が宇垣を諭す。
「我が国の立場上、外務省には厄介なことを押し付ける形になりますが、我々にもそれなりに収穫はありましたから、もうあの不審船について議論する必要はないでしょう。……ところで、情報参謀。イタリア艦隊は?」
その興味の出所は良く分からないが、イタリア艦隊のことが気になって仕方のないもう一人の山本が言う。
「それが英国艦隊とは砲火を交えていないようです。その代わりマルタ島に艦砲射撃をかけたらしく、ジブラルタルの英国海軍司令部が途端に慌てた様子が届いています。とりあえず、現時点で分かった事実は以上です」
「……うむ、ご苦労。これで近い内にマルタ島は陥落するだろうな。まったく、イギリスも気の毒なことだ」
イギリスを気の毒にしている張本人の一人である山本が、自分のことは棚に上げてぼそりとつぶやく。
その姿を目にした早乙女は、苦笑いを浮かべながら書類を畳み席についた。
だが少なくとも、マルタ島が陥落することはもはや事実であり、北アフリカ戦線に大きな動きが出るだろう。
思えばマルタ島は、帝国海軍の体質を改善するきっかけとなった第二特務艦隊の寄港地の一つであった。
そう考えると、マルタ島という所は二つの世界大戦を通じて、それぞれ意味合いは違えども参戦国に大きな影響を及ぼす存在のようだ。
早乙女が一人物思いにふけっている間に、会議の議題はインド洋の事へと変化していった。
同じ頃、と言っても現地時間では午前一〇時前。
インド半島の先に浮かぶ英領セイロン島の沖合いに、旭日旗をはためかせた六隻の巨艦がその姿を現していた。
英国海軍東洋艦隊の撃滅。というい号作戦の第一目標を達成した帝国海軍は、潜水艦を除く全艦艇を一旦マレー半島西岸のペナン島に引き上げ、艦隊と航空隊の再編を行なった。
ここで損傷を負った艦艇等を本土に後送し、残った艦艇を選抜して第一機動艦隊と第二艦隊に振り分け、これを改めてインド洋に送り込んだのだ。
海軍兵学校第三六期コンビの塚原二四三海軍中将と南雲忠一海軍中将に言い渡された次の任務は、インド洋航路を麻痺させるために沿岸の港湾施設等を破壊することだ。
ちなみにこのとき、重巡『磐梯』を旗艦とする南西方面艦隊の本隊に、若干の特設艦艇を編入した通商破壊部隊もインド洋に進出している。
「第一戦隊司令部より入電。『我、展開を完了す。砲撃開始の命を待つ』以上です」
「よろしい。第一から第三各戦隊に命令。目標、トリンコマリー軍港及び周辺の敵拠点、飛行場。砲撃始め!」
六隻の巨艦から少し離れた所に浮かぶ帝国海軍第二艦隊旗艦、司令部巡洋艦『仁淀』の羅針艦橋に南雲の号令が響く。
それから一呼吸置いて、セイロン島の沖合におどろおどろしい砲声が響き渡り、さらに一呼吸置いて、セイロン島の大地に二四発の巨弾が着弾、炸裂した。
六隻の巨艦は続いて第二射を放ったが、何一つ反撃を受ける気配は無い。
「もうイギリスに航空機はなかったのですかね?」
再びセイロン島の大地が轟音と共に揺さぶられるなか、南雲の脇で首席参謀の志岐常雄海軍大佐がぼそりと言った。
「まぁ、残っていた航空機は昨日、一機艦の艦載機があらかた潰したのだろう。そしてイギリスにはセイロンに航空機を増援する余裕が無かったわけだ」
巨艦群の第三射の砲声に邪魔されながら、参謀長の白石万隆海軍少将が答える。
「この調子だとコロンボも似たような状況でしょうね」
どこか張り合い無さげに志岐が言うと、これまでに無い巨大な砲声が羅針艦橋の防弾ガラスを震わせた。
第一、二、三各戦隊の戦艦群、『大和』『武蔵』『信濃』『三河』『出雲』『越前』が斉射に転じ、各々一二門搭載している四一センチ主砲から、対地、対空攻撃用に使用することを前提に開発された新兵器、二式通常弾をいっぺんに撃ち出したのである。
これら七二発の巨弾はこれまでの一式徹甲弾とは違い、陸地に激突する寸前に時計信管が作動して炸裂し、膨大な数の焼夷榴散弾と破砕弾丸を撒き散らす。
『仁淀』の艦橋からでは遠過ぎて良くは分からないが、炸裂した周囲は文字通りの恐慌状態に陥った。
第一機動艦隊曰く沿岸砲台は破壊されたとは言え、一応念のために撃ち込まれた一式徹甲弾はあくまでもある程度の防弾性能のある軍事施設破壊用だが、二式通常弾は基本的にそれ以外のもの全てに被害を与える。
可燃性のものには即座に引火し、車両には多数の弾片が突き刺さって使い物にならなくなる。
いわゆる普通の建物や野砲も例外ではなく、生身の人間などそれこそ跡形もなくなってしまう。
「通信より艦橋。六八一空飛行隊長機よりの通信を受信しました。『我、これよりコロンボに突撃す。一〇〇五』以上です」
「塚原長官の方も順調なようですな」
「うむ、そのようだな」
白石の発言に、南雲はややのんびりと答えた。
「見張りより艦橋。一から三戦隊撃ち方止めました」
六隻の戦艦は所定の弾を撃ち尽くしたらしく、その主砲は沈黙している。
「観測機より入電。『トリンコマリー軍港及び飛行場周辺よりの反撃の気配無し。同地の英軍は戦力を喪失したものと認む』以上です」
「長官、もうよろしいかと」
「そうだな。観測機に通信、直ちに帰還せよ。なお観測機収容後、我が第二艦隊はコロンボ攻撃に向かう」
この時点における第二艦隊は、第一艦隊からベンガル湾海戦で受けた損害を埋めて有り余る、と言うよりゴッソリと艦艇を引き抜いて編成されているため、その戦力は非常に強大だ。
具体的には戦艦が六隻、軽空母が四隻、重巡が六隻、軽巡が六隻、駆逐艦が二四隻、護衛艦が四隻の合わせて五〇隻だ。
これだけ強力な艦隊と真っ向から勝負をして、勝てるような水上部隊はインド洋には、いや世界中を見渡しても無いのではないだろうか。
そしてインド洋にいるもう一つの艦隊、第二艦隊の前路掃討を担当する第一機動艦隊もまた世界最強の、いや世界でただ一つの空母機動部隊である。
第二機動艦隊から艦艇を引き抜いたため、正規空母七隻、改造空母二隻、軽巡五隻、防巡四隻、駆逐艦一九隻、護衛艦八隻の合わせて四五隻の大艦隊だ。
対する在インドの英国海軍は、東洋艦隊が潜水艦を除いて全滅し、英国空軍もインド半島東岸からビルマにかけての主要な飛行場を片端から潰され、肝心の航空機も大半がビルマ上空における航空撃滅戦に敗れたため、帝国海軍の艦載機部隊に対抗出来るだけのまともな数を揃えることは不可能になっている。
「それにしても気の遠くなる作戦だな」
「えぇ、コロンボの後はモルディブ、ボンベイと続き、予定ではその後補給を済ませてチャゴスですからね。さすがにセイシェルとマダガスカルは目標から外されたようですが」
白石が苦笑しながらそう言うと、南雲はしみじみと言った。
「つくづく、向こう側の人間でなくて良かったと思う。まったく、とんでもないことだ」