六六 ベンガル湾海戦
「戦艦が五、巡洋艦が二、駆逐艦が七、だな」
「何ともバランスの悪い艦隊ですね」
「まったくだな。六八一空の連中も上手くやったもんだ。さて、邪魔者はいないな。春日、高度を落とせ。長田、艦隊向けの無電の用意」
「了解」
帝国海軍第二艦隊の艦載水上機を一括指揮する、第六四五海軍航空隊の第二中隊長を務めている高林昌介海軍中尉は、愛機である零式水上偵察機の偵察員席から眼下を進む英国海軍東洋艦隊の様子を見つめながら、前後に座る部下に指示を出した。
その指示に従い、操縦士の春日正邦海軍飛行兵曹長が操縦桿を押し込み、無線士の長田寿義海軍二等飛行兵曹が無線機のツマミを微調整する。
「……発、六四五空二中隊長機。宛、第二艦隊司令部。我、敵艦隊見ゆ。戦艦五、軽巡二、駆逐艦七。針路、方位一二〇。速力、二〇ノット。位置、二艦隊より方位三一〇、九〇海里。なお、敵艦隊上空に戦闘機無し……長田、発信しろ」
戦闘機の迎撃が無いことを良いことに、高度一〇〇〇メートル付近まで降下した零式水偵から、入念に偵察した内容がモールス信号となって発信される。
だが、驚いたことに高角砲による迎撃も無い。
高林達はこの東洋艦隊の怪しげな行動に疑問を持ったが、逆に考えればまたとないチャンスでもある。
「春日、燃料は大丈夫か?」
高林の問いに春日は一呼吸置いて答えた。
「後、五時間は余裕です」
「よし、本機はこのまま敵艦隊を追尾する。燃料を節約すれば戦闘が終了するまでもつだろう。……春日、一応念のため高度は上げとけ」
「現在位置、単冠湾より方位八〇、距離三〇海里です」
その頃、北方警備を担当する帝国海軍第五艦隊旗艦、軽巡『霧島』の羅針艦橋に航海参謀の伊藤泰介海軍中佐の声が響いた。
「三時間もすれば着くわけだな。それはそうと他の艦はちゃんとついてきているか?」
司令長官の細萱戊子郎海軍中将のいかにも心細げな問いかけに、参謀長の中沢佑海軍少将が淀みなく答えた。
「電測室からの報告が無いのですから問題無いでしょう」
「そうか、なら良い」
細萱はそう言うと安堵のため息をついた。
彼等第五艦隊は、インド洋にいる四個の艦隊や潜水艦主体の第四艦隊とは違い、あくまでもある一帯を守る防衛部隊だ。
しかし同じ防衛部隊とは言えその守っている場所は、南西方面艦隊隷下の三個南遣艦隊や南東方面艦隊隷下の第三艦隊のそれのような、南方の最前線ではない。
まず敵は来ないであろう北方の地がその担当地域であり、共に方面艦隊を組織するような航空艦隊もいない。
日本軍にアリューシャン列島を攻略する気などあるわけもなく、ソ連海軍極東艦隊の根拠地でありそのほとんどが集結しているウラジオストックは、舞鶴鎮守府と韓国海軍の艦艇が厳重に監視している。
そんな、敵と言えばたまに現れる潜水艦ぐらいの、哨戒が主任務の部隊に良い艦艇が回されるはずはなく、まともな戦闘艦艇は旗艦の『霧島』だけという、何とも寂しい艦隊なのだ。
残りは徴用された特設艦艇や戦時急造の小型艦であり、充分な訓練を行なったわけではない。
もっとも、ただの警備部隊ならそれでも良いのかもしれないが、第五艦隊のおかれている状況は尋常ではないのだ。
「気象班は確か、この状況があと三日は続くと言っていたな」
細萱がつぶやくように言うと、中沢が苦笑いを浮かべながら答えた。
「はぁ、その通りです。まったく、えらいところですな」
現在、彼等第五艦隊の艦艇群は深過ぎる霧の中を衝突を避けるために一〇ノットの低速で進んでいる。
霧が多発する季節なのだから仕方がない、と言えばそれまでだが、周囲はおろか目の前にある二基の主砲塔すら霞んでいるのだ。
一見すると戦闘とは無縁に見える第五艦隊も、常に戦闘中のような緊張感をもって任務を遂行しているのである。
「しかしまぁ、四〇一空の連中にすれば骨休みが出来て良いのかもしれんな」
「確かに。緊張感を持ちつつ単調な任務をこなすというのは、中々酷なことですからね」
第四〇一海軍航空隊は水上機や飛行艇を中心に装備する哨戒部隊であり、千島列島の島々に分散して配置され、日々太平洋に睨みをきかしている。霧さえ出なければ、という条件が付くが。
「だが我々がこのように北方を守っているからこそ、遥かインド洋で友軍が後顧の憂いを気にすることなく戦いに集中出来るのだ。いくら霧が発生しようともしっかりせねばならん」
そう自らに言い聞かせるように言った細萱の頭の中には、三〇年程前からの付き合いである海軍兵学校の同期生達の顔が浮かんでいた。
この時点において、帝国海軍にいくつかある司令長官のポストには、彼等海兵第三六期の面々が多数就いている。
南遣艦隊や護衛艦隊のように第五艦隊同様裏方の部隊の司令長官もいるが、一方で表舞台で暴れている司令長官も三人いる。
単冠湾の基地に帰ればインド洋の新たな情報が手に入る。
そのことを心待ちにしている自分がいることに、細萱は内心苦笑しながらもそれを否定しようとはしなかった。
さて、その細萱と同期でありかつ表舞台で暴れている司令長官の一人、第二艦隊司令長官南雲忠一海軍中将は、旗艦の司令部巡洋艦『仁淀』の羅針艦橋に仁王立ちになって、ただひたすら前を見据えていた。
第二艦隊は艦隊決戦用の単縦陣を組んで、三〇ノットの高速で英国海軍東洋艦隊の本隊を目指している。
本来、司令部巡洋艦は艦隊の後方にいるべきものだが、南雲はあえて三列ある単縦陣の真ん中の先頭を走らせている。
マストに旭日旗と中将旗をはためかせた巡洋艦が、後ろに第一二戦隊の軽巡三隻、第五戦隊の戦艦二隻、第六及び第七戦隊の重巡六隻、左側に第三艦隊から復帰した第二水雷戦隊の軽巡一隻と駆逐艦一二隻、右側に第二護衛艦隊から復帰した第四水雷戦隊の軽巡一隻と駆逐艦一二隻の艦艇を従え、白波を掻き分けている光景は見方によっては滑稽だが、別の見方をすれば司令長官の闘志が伝わってくる。
そして、全ては出し抜けに飛び込んだ報告によって始まった。
「後部見張りより艦橋。天城より信号。『対水上電探に感有り。大型艦五、中型艦二。右二〇度、三〇〇』」
「長官! 東洋艦隊です!」
参謀長の白石万隆海軍少将が狂喜の声を上げる。
東洋艦隊に張りついている索敵機からの報告から、接近しつつあることは分かっていたが、こうして目の前に現れるとやはり気持ちが高ぶってくる。
「うむ、観測機発進せよ!」
南雲はうなづくと、命令を発した。
直ちに合わせて一四機の、帝国海軍最後の複葉機である零式水上観測機がカタパルトによって射出され、瑞星エンジンの軽やかな爆音と共に複葉機らしくフワリと舞い上がっていく。
それ以上、南雲は新たな命令を出さない。これまでどおり仁王立ちになって、じきに敵艦隊が姿を現し始めるであろう水平線を凝視し続けている。
「電測より艦橋。対水上電探に感、右一七度、二六〇」
「見張りより艦橋。右一七度、二六〇に敵艦隊視認!」
「索敵機より入電。『敵艦隊より観測機発進せり』」
「電測より艦橋。敵艦隊面舵に転舵! ……針路二一〇度」
最初に動きを見せたのは東洋艦隊の方だった。
艦艇数の不利を戦術で補うべく、日本海海戦以来艦隊戦の理想と言われる丁字戦法を採ってきたのだ。
「距離、二一〇!」
「見張りより艦橋。敵艦隊より発砲閃光!」
「敵艦隊二隊に分離! 中型艦二、小型艦七、針路一三五度」
電測室からの報告が上がってきたところで、南雲はその両目をかっと見開き大音声で命令を口走った。
「全軍突撃せよ!」
「旗艦、五、六、七各戦隊及び二水戦目標、敵戦艦部隊。一二戦隊及び四水戦目標、敵軽快艦艇部隊!」
「長官……」
南雲の命令に白石以下第二艦隊の幕僚達は凍りついた。
彼等の耳がそろって異常をきたしていない限り、南雲は本来してはならないことをやろうとしていることになる。
すなわち、司令部巡洋艦という指揮専用艦に座乗しながら、先頭に立って突撃を敢行するという、ある意味恐るべきことである。
しかし艦長の西田正雄海軍大佐は、そんな幕僚達のことなどまるで眼中に無いと言わんばかりに、第二水雷戦隊の各艦が回頭を終えたのを待って、意気揚々と命令を下した。
「取舵一杯、針路二八〇度! 右砲戦用意!」
敵戦艦の射弾が飛んでくるなかをしばらく直進を続けた『仁淀』は、おもむろに艦首を左に振り始め、艦橋前に設置された二基の一五,五センチ三連装砲塔が旋回して右側を指向する。
「距離、一八五」
「後部見張りより艦橋。五戦隊取舵、本艦に続行します。二水戦増速、突撃します」
これまでの戦闘で華々しい戦果を上げてきた第二水雷戦隊が、その旗艦の『鬼怒』を先頭に『仁淀』を置いていくように進撃していく。
「六戦隊取舵、五戦隊に続行。七戦隊……五戦隊至近に弾着! 水柱多数!」
「艦橋より見張り。水柱の数報せ」
西田がいくらか表情を青ざめさせながら言う。
「……二〇本近くあります」
「長官、敵戦艦部隊は総力を上げて五戦隊を叩きにかかっています」
白石が慌てて具申する。
「各艦に通信。『天城』目標、敵一番艦。『日高』目標、敵二番艦。六戦隊目標、敵三番艦。七戦隊目標、敵四番艦。それから本艦の目標も敵一番艦だ」
対照的に南雲が冷静に下令すると、『仁淀』の通信アンテナから電波が発せられ、西田が射撃指揮所に命令を伝える。
「目標、敵一番艦。撃ち方始めッ!」
すでに照準はつけてあったのだろう。間髪入れずに二基の主砲の一番砲が唸りを上げた。
「敵艦隊、針路及び速力変わらず。距離、一五〇」
電測室からの定期的な報告が届いたとき、第二艦隊と東洋艦隊との戦いは文字通り五分五分に推移していた。
東洋艦隊の五隻の戦艦の内、一番艦と三番艦が『天城』に対して、そして四番艦が『日高』に対して斉射を行なっている。
『天城』も『日高』もそれぞれ目標とする戦艦に対し有効弾を得、すでに斉射に移っているが数のうえでの劣勢は否めない。
流れ弾を除けば弾がまったく飛んでこない第六、第七両戦隊も、指定された戦艦に向かって繰り返し斉射を行い、一度に二四発ずつの二〇,三センチ弾を叩きこんでいるが、相手が頑強な戦艦である以上目立った損傷を与えるには至らず、せいぜい火災を起こさせている程度だ。
「……艦長。あれを飛ばせ」
最初から分かっていたとは言え、砲撃戦における劣勢を悟った南雲がぼそりと西田に命じた。
「了解しました。艦橋より飛行。戦闘小隊発進せよ」
「了解。直ちに発進します」
しばらくして艦の後方から、カタパルトの射出音が短時間に四回聞こえた。
南雲個人の感情としては、水上戦闘機など使いたくなかったのだが、背に腹は代えられない。
敵戦艦の砲撃精度をほんの少しでも落とすべく、『仁淀』に搭載されていた四機の強風が、第二艦隊の上空を飛ぶ英国海軍の観測機、スーパーマリンウォーラスに向かって、軽やかに高度を上げていく。
「距離、一三〇」
「後部見張りより艦橋。『天城』に直撃弾多数! 第一及び第二砲塔損傷の模様」
「通信より艦橋。『天城』応答無し」
「『赤城』より入電。『日高』に直撃弾多数。第三及び第四砲塔損傷の模様」
「電測より艦橋。『天城』行き足止まります!」
「『天城』より信号! 『艦橋、主砲全滅。我、戦闘不能』」
相次ぐ悲劇的な報告に『仁淀』の羅針艦橋は再び凍りついた。
丁字を書くことには失敗した東洋艦隊だが、戦艦の数の優位を生かして第二艦隊に二隻しかいない戦艦の片方を戦闘不能に陥れたのである。
「長官、このままでは撃ち負けます!」
「『赤城』より入電。『我、砲撃を受く』『高雄』及び『愛宕』からも同文入電!」
「長官!」
冷静さを完全に失った白石の具申と通信室からの報告とが交錯するなか、一人冷静な南雲はゆっくりと新たな命令を下した。
「六、七戦隊及び二水戦に通信。魚雷発射始め」
第二二話、第二三話を加筆訂正しました。
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