六四 兵力の集中と分散
「淵田一番より入電、『第一次攻撃隊は攻撃を完了せり。トリンコマリー基地は壊滅したと認むも、コロンボ基地に対する攻撃は不充分なり。第二次攻撃隊の出撃を具申す』以上です」
と、第一次攻撃隊の総指揮官である淵田美津雄海軍中佐からの報告電が、第一機動艦隊旗艦の『矢矧』の羅針艦橋に響いたが、司令長官の塚原二四三海軍中将以下幕僚達の表情には、それどころではないと言わんばかりに焦りの色が滲み出ていた。
「索敵機からの報告はまだなのか?」
英国空軍の空襲を受けている間はともかく、それらが直衛戦闘機や濃密な対空弾幕の前にバタバタと叩き落とされた後、塚原は何度目とも知れない問いをつぶやくように言った。
聞かれた通信士官も、口に出して答えるのが億劫になったのか肩をすくめるだけだ。
「この際、二艦隊や二機艦にも東洋艦隊を捜してもらってはいかがでしょう? 考え難いことですが、敵はベンガル湾を北上しているのかもしれません」
参謀長の上野敬三海軍少将がそう言うと、塚原は少し間をおいて命令を発した。
「二艦隊司令部に通信。東洋艦隊の捜索に協力されたし」
「東洋艦隊の捜索に協力されたし。二艦隊司令部宛て、打電します」
一人の通信士官が塚原の命令を復唱して、艦内電話の受話器に手をかけたとき、隊内無線の受話器を手にした別の通信士官が塚原に話しかけた。
「長官、『熊野』の高須長官からお電話が入っております」
同じ頃、ボルネオのブルネイにある帝国海軍の飛行場に、多数の航空機のエンジン音が轟々と轟いていた。
そして、その音の発生源であると思われる一群がゆっくりと動き出し、駐機場から誘導路、滑走路へと移動して行き、やがて次々と大空に舞い上がり始めた。
機体上部を暗緑色に、下部を明灰色に塗り、さらに黄色く光る主翼の前部から四本の太い銃身を伸ばした機体は、しばらくして主脚と尾輪を機内に格納し落下増槽を一つぶら下げた状態のまま、基地の上空で編隊を組んでいく。
「柏田一番より指揮所。柏田隊集合完了です」
「了解せり。指揮所より伊藤一番、状況知らせ」
第三四三海軍航空隊第一戦闘隊隊長の柏田利郎海軍大尉は、編隊が組上がったことを地上の指揮所に報告すると、三一人の部下を引き連れながら基地の上空をぐるぐる周回し始めた。
「伊藤一番より指揮所。特に異常はありません」
「指揮所より柏田及び伊藤両隊へ。これより訓練を開始す。諸君の健闘を祈る……長峰及び藤牧両隊へ。離陸を開始せよ」
基地の司令部に設けられた指揮所から、三四三空の飛行長を務める山寺亮治海軍中佐による指示が連続して発信されていく。
「長峰一番了解。滑走路へ移動します」
その指示に対し、三四三空の飛行隊長兼第二戦闘隊隊長の長峰義郎海軍少佐は直ちに返事を返すと共に、ブレーキを緩めて誘導路上を滑走路に向かってゆっくりと進み始めた。
その途中彼がふと視線を頭上に向けると、合わせて三五機の単発機の群れが東の方角、ミンダナオ島のダバオへ飛び去っていく光景が目に入った。
その内三二機が彼が乗っているものと同じ紫電一一型であるが、残りの三機はまず戦闘機ですらない。
局地戦闘機である紫電と似たような塗装を施されたその機体の名は、艦上攻撃機天山、という。
とりあえず最新鋭の艦攻ではあるが、現時点における帝国海軍の主力艦攻である九六式三三型と比べ、劇的に性能が向上しているというわけではない。
おまけに、帝国海軍が愛知時計電機に試作させている雷爆兼用の流星艦爆の開発状況が、航空本部による航空機エンジンの生産方針の転換のおかげもあって比較的良好に推移していることや、九六艦攻がその初期型に比べ思いの外性能を向上させていることなどから、極論するとわざわざ天山を採用する必要性は無かった、とも言える。
にも関わらず天山が採用された理由は、開発を担当した中島飛行機の政治力と火星二五型エンジンが発揮する強力な馬力、そしてセミ・インテグラルタンクの採用による長大な航続距離が、哨戒機や早期警戒機として使うのにうってつけであったからだ。
本来この手の用途に使われるはずだった、一式大艇を生産する川西航空機の工場が、その輸送機型や紫電の生産で手一杯となり、お茶を濁すかたちで九六艦攻に電探や磁探を取り付けた哨戒及び早期警戒機型が作られ、主だった基地航空隊や根拠地隊に配備されているが、栄エンジンの出力不足はどうにも否めないものがあり、現場からも新型機の早期導入の声が多数あがっていた。
また流星の開発が予定通りに進んでも、初期故障の改善や量産体制が整うにはさらに時間がかかるし、巨大化しつつある母艦航空隊に優先配備されることは目に見えているため、基地航空隊向けの意味も込めて帝国海軍は天山の制式採用に踏み切ったのだ。
さて、そうこうしている間に長峰機は滑走路に進入していた。
長峰はいったんブレーキをかけて機体を減速させる。
滑走路の脇にある吹き流しは音をたててはためき、滑走路上に強い横風が吹いていることを示している。
紫電は尾輪式の機体であるため、滑走中に横風に吹かれると機体の安定性が失われかねない。
空襲警報が発令されているならともかく、今は訓練中だ。焦る必要は無い。
そしてそれから三〇秒程の時間が経過すると、風向きが向かい風に変わった。離陸するには絶好の風と言って良い。
吹き流しをじっと見つめていた士官が、右手に握っている旗を頭上にかざし、左右に大きく振った。離陸を許可する合図だ。
「長峰一番より指揮所。離陸を開始します」
長峰は簡潔に報告を済ませると、ブレーキを解除してスロットルレバーを押し込んだ。
機首の春嵐エンジンが一五〇〇馬力の咆哮をあげ、機体は一気に加速されていく。
まず機体の尾部がすっと持ち上がり、機体が地面に対して水平になったかと思うと、主翼が向かい風を受けて尾輪がまた接地しそうになる。
だがその時にはもう長峰機は離陸速度に達しており、長峰は操縦桿を思いっきり引き付けた。
刹那、彼の紫電は向かい風にあおられるように舞い上がり、急速に高度を上げ始める。
そして、長峰機の高度計の目盛りが二〇〇〇メートルを示し長峰が機体を水平にすると、彼が直率する第九小隊の二番から四番機が追い付いてきて後ろにつき、やはり直率する第三中隊の第一〇から一二までの各小隊が左右を固めてゆく。
二〇〇メートル程低空では、大原義時海軍大尉が率いる第四中隊の紫電が編隊を形成しており、やがて藤牧瑞恵海軍中尉が小隊長を務める第二偵察小隊の三機の天山が、三二機の紫電を誘導するように二つの四角形の前方につく。
三機とも機体から二本の八木アンテナを生やした、早期警戒機型の天山である。
「長峰一番より指揮所。長峰隊、集合完了しました」
「藤牧一番より指揮所。藤牧隊、指定位置につきました」
「指揮所了解。長峰及び藤牧両隊へ、これより訓練を開始す。諸君の……」
山寺が先程と同じ文句を喋る中、三五機の機体は針路を南西にとって進撃を開始した。
目指すは一四〇〇キロ彼方にあるパレンバン。
迎撃が主任務の部隊にとって、編隊飛行や航法の訓練はあまり重要ではないが、しかしやらない訳にはいかない。
しばらくして、長峰は操縦桿を握ったままおもむろに首をひねって後ろを見た。
彼の小隊の四番機は、陸軍航空隊から転向してきた藤幡影次郎海軍二等飛行兵曹が務めている。
彼が三四三空に配属されてからまだ一週間と経っていないし、紫電の操縦桿を握るのも今回が三回目だ。
人間的には何の問題も無く、配属されたその日には旧来の搭乗員達の中に溶け込んでいたが、それとこれとは関係無い。
長峰は上層部に今回の訓練の延期を申し入れていたが、上層部は彼の意見を採用しようとはしなかった。
そのことに多少の不満を抱いた長峰だが、結局は無駄な行動であったということを悟った。
今のところ、藤幡機は順調に飛び続けている。編隊の定位置をしっかりと守りふらつく素振りも見せない。
戦闘機搭乗員としての技量は未知数だが、どうやら凡庸でも無いらしい。
長峰は微笑を浮かべると、操縦桿を固く握った。
一月程前の南太平洋海戦の折りに大損害を被ったためか、しばらくトラックに姿を見せなかった米軍のB17が、またぞろ夜間空襲を始めたという話は長峰も聞いている。
訓練に焦りは禁物だが、出来る限り訓練を切り上げてトラックに帰ろう。長峰はこのときそう決心した。
「間違い無いのか!?」
一方、現地時間で正午を迎えたベンガル湾を北西に向かって進撃中の、第二艦隊旗艦『仁淀』の羅針艦橋に、参謀長の白石万隆海軍少将の声が響く。
「索敵機からの報告電は繰り返し発信されていますから、間違い無いと見て良いでしょう」
首席参謀の志岐常雄海軍大佐がそう言うと、艦橋内はざわめきで満たされた。
「索敵機からの情報が事実であるとして……」
司令長官の南雲忠一海軍中将がゆっくりと口を開くと、艦橋内のざわめきは一瞬で静まる。
「我が第二艦隊だけで対抗するのは非常に厳しい。二機艦の航空兵力と共にあたればおそらく勝てるであろうが、確証は無い」
「……一艦隊司令部は、セイロン攻撃隊を収容後、最大戦速でこちらに向かう、と言っておりますが」
「間に合うわけなかろう」
「はぁ……」
その後、南雲はしばらく押し黙っていたが、しばらくして眥を決して口を開いた。
「……二機艦司令部に通信。直ちに第三次攻撃隊の編成を開始せよ。兵装は対艦用。以上だ」
「長官、では?」
白石が自身の希望を込めた声で尋ねる。
「第三次攻撃隊の出撃及びチッタゴンを攻撃中の第二次攻撃隊の収容後、我が第二艦隊は敵艦隊に向け突撃しこれを殲滅する」
南雲が宣言するようにそう言うと、艦橋内にいる幕僚達の顔が引き締まった。
だが、その旨を艦隊全体に伝えるべく通信参謀が隊内無線の受話器を取る前に、見張り員の切迫した報告が飛び込んだ。
「『天城』より信号、『我、対空電探に感有り。方位二九〇度、距離五五海里より一〇〇機以上の編隊接近中!』」
「た、対空戦闘用意!」
その報告に対し、南雲はほぼ反射的に応えた。やって来る方角から見て敵の大編隊であることに間違いは無い。
「先を越されたか」
白石が無念そうに呻く。
「後部見張りより艦橋。直衛戦闘機隊、進撃開始します!」
新たな報告が入ると同時に、『仁淀』の上空を三〇機前後の零戦が駆け抜けて行ったが、『仁淀』の甲板上に帽子を振る余裕を持つ者は一人もいない。
皆必死の形相で甲板上を走り回り、高角砲の砲塔内に飛び込んだり弾薬箱を機銃座のすぐ脇に積み上げていく。
三個航空戦隊の六隻の空母からは零戦が次々とカタパルトによって打ち出され、戦艦や重巡の主砲も大きな仰角をかけられて大空を睨んだ。
「砲術より艦橋。対空戦闘用意良し!」
「見張りより艦橋。天城より信号!」 それから二、三分後、二つの報告が時間差をおくこと無く南雲の両耳に飛び込んだ。
前者はともかく、後者の報告に南雲は何とも言えない不気味なもの感じた。どんな、と言われても表現のしようが無い、長い海軍生活の中で会得した独特の勘が頭の中で囁いたのである。
「『方位三二〇度、距離六〇海里より五〇機前後の編隊接近中!』以上です!」
「波状攻撃か!」
白石が再び呻く。そして南雲は自分の勘が当たったことを自覚した。
圧倒的に優勢な水上及び航空兵力を頼みに部隊を二つに分割した自分達に対し、敵は海空軍の残存兵力を結集して挑みかかってきたのだ。
およそ一五〇機の敵機を防げるだけの零戦をいまさら上げることはまず不可能であり、致命的とは言わなくても、第二艦隊と第二機動艦隊がそれなりの被害を受けることは、忌々しいことだが間違い無い。
しかし司令長官の立場上、この状況下において南雲に出来ることはそう多くは無い。
今はただ、戦闘機隊の奮戦と各艦の艦長と砲術長の腕前を頼みとする他は無いのである。
第一八話、第一九話加筆訂正しました。