四五 ニミッツの悩み事
「まったく……困ったことだ」
アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ海軍大将は、書類の束を長官公室の執務机の上に放り出して、目頭を押さえた。
「……こんなことは想定の範囲外だ。参謀長、君はこの異常事態をどう見る?」
ニミッツは執務机の前に置いてあるソファーに座っていた、太平洋艦隊参謀長のレイモンド・スプルーアンス海軍中将に視線を向け尋ねた。
「方針自体は間違っていません。しかし詰めが甘かったことは事実でしょう」
ニミッツはその通りだ、と頷き席を立って自分の姿を外部から隠していたカーテンを開けた。
そのまま続けて窓も開けると、長官公室に潮の香りを伴った生暖かい風が吹き込んできた。
ちなみに太平洋艦隊総司令部の建物はパール・ハーバーのすぐ近くにあり、長官公室の窓からは軍港を一望出来た。
「……我が太平洋艦隊の母港のパール・ハーバーも、こうして見ると殺風景なものだな」
ニミッツは苦笑しながらつぶやいた。
半年程前、パール・ハーバーには、合衆国海軍が誇る最新鋭戦艦六隻を含む一二隻の戦艦、六隻の巡洋戦艦、六隻の航空母艦以下、文字通り数えきれないほどの艦艇が停泊しており、その壮大な光景はまさに合衆国海軍、そして太平洋艦隊の栄光そのものだった。
しかし、長年の仮想敵である帝国海軍連合艦隊との決戦のため、クリスマスのネオンの中を出撃して行った太平洋艦隊は、数を大きく減らし見るも無惨な姿で帰ってきた。
そして今……一九四二年五月一日……パール・ハーバーに停泊している戦艦はわずかに四隻、空母は二隻でしかない。
巡洋艦や駆逐艦等も数を大きく減らしており、変わっていないのは敷設艇や駆潜艇等の、“出撃しなかった”艦艇達ぐらいだ。
「……私が危惧しているのは、我が太平洋艦隊に充分な戦力が補充されるまでの間に、日本海軍が新たな作戦を発起することだ。連中は戦艦だけで最新型を含めて一〇隻も持っておる。いくら日本海軍のドクトリンが迎撃であるとしても、何かしてくるはずだ。……問題はその目標なのだがな」
ニミッツはそう言うと振り返った。
「候補はいくつかあります。まず第一にインド洋に進出してイギリス東洋艦隊を撃滅する。第二にニューブリテン、ソロモン、ニューカレドニアと南下して、我が国とオーストラリアの連絡を遮断する。第三に…」
「東に進んでここハワイ、そして我が本土を狙う、かね?」
「はぁ、その通りです。もっとも、その可能性は低いと思われますが」
「おそらく敵の次の目標はインド洋だろう。なにしろ一度徹底的に叩いてしまえば、戦力が補充される心配は今のところないのだからな」
「私もそう思います。あのヤマモト率いる日本海軍が、自ら長期戦を仕掛けてくるとは思えませんからね」
「共に戦っているイギリスには悪いが、太平洋艦隊の指揮官としては、日本海軍の主力が西に向かうということは喜ばしいことだ。今の太平洋艦隊の戦力で日本海軍を防ぐことは、確実に不可能だ。……なにしろ唯一の攻撃手段ですらこれなのだから」
ニミッツはつい先程机に放り出した書類の束を見つめながら言った。
「……確かに、魚雷が命中しても爆発しないのでは意味ありませんね」
「太平洋艦隊の水上部隊が復活するまで、我々は水中で戦わなければならん。だと言うのに、不発弾が多すぎる!」
合衆国海軍が使用する魚雷は当たり前だが空気魚雷である。
しかしただの空気魚雷ではなく、目標とする敵艦の磁気を感知してその艦底で爆発するように作られた、いわゆる“磁気感応魚雷”だ。つまり、敵艦の直下を通過する際に起こる磁場の変化を感知して、敵艦の直下で炸裂し竜骨をへし折ることを狙ったものだ。
これが説明書通りに作動すれば何の問題もないが、作動しないから大変なのだ。
「第一に潜水艦の絶対数が足りないのだ。まったく、戦艦を造るのもいいが、もっと潜水艦とちゃんと爆発する魚雷も造ってもらいたいものだ」
潜水艦部隊の司令官だったこともあるニミッツは、苦労して発射した魚雷が不発に終わった時の乗組員達の落胆ぶりが、嫌と言うほどに良く分かっていたのだ。
また潜水艦の喪失数の多さもまた、ニミッツの苦悩の元の一つである。
石油や鉱物資源の豊富な蘭印と日本本土を結ぶ航路は、まさに日本の生命線であり、ろくな水上部隊を持たないニミッツが出来る唯一にしてまともな対日攻勢は、潜水艦を使いその航路を使って行われる戦略物資の輸送を妨害することだった。
ところが、そのことを一番良く分かっていた第二護衛艦隊司令長官の新見政一海軍中将は、この航路を通る商船や輸送艦に単独行動を禁じ、効率は悪いが極力、護送船団方式を採用し、アメリカ潜水艦の接近を許さなかった。
そんなわけで、多数の駆逐艦や護衛艦が耳をすませ、対潜哨戒機が常に上空を飛行している中、無理に攻撃をかけようとしたアメリカ潜水艦は、不発率の高い魚雷さえ発射する間もなく、そのほとんどが見つかって撃沈されているのだ。
「後、空母もですね」
この時点で帝国海軍との間に最も開きのある海上航空戦力の無さを嘆くように、スプルーアンスがボソリとつぶやいた。
「アメリカはある意味賭けに出たようだな」
三日後の帝国海軍連合艦隊総司令部。連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将は、作戦室に置かれた世界地図を眺めながらそう言った。
「えぇ、欧州戦線の状況を見てみても、この時期に大西洋艦隊唯一の正規空母を太平洋に回してくるとは驚きです」
「しかし……わずか一隻で欧州戦線の様相を変えてしまうかもしれないとは、相変わらず正規空母の存在は大きいですね」
航空参謀の樋端久利雄海軍中佐がしみじみとそう言った。
この世界の大日本帝国は、この時点において欧州に同盟国を持っていない。
にもかかわらず、合衆国海軍大西洋艦隊が傘下に持つ唯一の正規空母……「ワスプ」の動向や欧州戦線の戦況を的確に掴んでいるのには、無論それなりの理由がある。
東部及び北アフリカ戦線の情報は、日本を自陣営に引き込みたくて仕方のないドイツやイタリアからもたされるものが多いが、戦果が誇張されたりしている可能性が高いとされ、日本政府は参考程度にしか見ていなかった。
反対に、日本政府が信頼を寄せたのがフィンランドとトルコからの情報であった。
この両国は日露戦争の頃からの親日国家であり、何か企んでいるわけでもない……と言いたいところだが、フィンランドはソ連と戦っているため、やはりどうしても誇張が入るがドイツに比べればまだましだった。
その点、中立のトルコからの情報は最も正確であり、ソ連やイギリスに日々圧迫されていることもあり、得た情報のほとんど全てを日本大使館の外交官に手渡してくれていた。
そして大西洋の情報を送ってきてくれるのは、歴史的に見ても反英国家のスペインやアメリカに領土をかすめ盗られた歴史を持つメキシコ等の国家だった。
こうして各地の日本大使館等に蓄積された様々な情報は、開戦前、外務省に採用された一式欧文印字機によって暗号化され、次々と東京の外務省に届けられていたのだ。
この一式欧文印字機は、合衆国陸軍によって“パープル暗号”と名付けられた九七式の後継機だが、設計を一からやり直し暗号の強度を相当高めた外務省ご自慢の新型暗号機で、合衆国陸軍も“ルビー暗号”と名付けて解読作業に入っていたが、解読完了には程遠い状況だった。
「アメリカの目的はいったい何なのでしょう? ドイツ海軍も空母を一隻持っていますから……」
「そのドイツ海軍の空母、『ザイドリッツ』の動向は掴めていません。理由は今のところ不明ですが、少なくとも通商破壊戦には参加していないのでしょう」
欧州戦線の情報に最も詳しい情報参謀の早乙女勝弘海軍中佐が発言する。
「ふむ、アメリカ海軍は商船改造の戦時急造空母を増産しているとも聞く。大西洋における空母の存在意義は船団護衛と上陸支援が主なものであるから、正規空母にこだわる必要は無いのだろう」
「なるほど……しかし長官の言われる通りなら、アメリカは太平洋において正規空母にこだわらなければならない理由がある、ということになりますね」
参謀長の宇垣纒海軍少将が思案顔でつぶやく。
「参謀長の言う通りだ。『ワスプ』がニミッツの指揮下に入ることで、アメリカ太平洋艦隊の正規空母は三隻になる。決してあなどってはならん」
山本は強い口調でそう言った。
「するとアメリカは、やはりまた攻勢に出て来るのでしょうか?」
「我が連合艦隊はウェーク島沖で多数の敵艦を沈めたが、しかし四隻の戦艦を取り逃がしている。内一隻が高速の巡洋戦艦、二隻は戦前に出てきた新型戦艦だ。規模はそれほど大きいということはないが、一つの機動部隊としては充分な戦力を有しておる。……果たしてニミッツが、と言うよりワシントンの連中がこれを遊ばせるかどうか」
「アメリカの出方によっては次期作戦の艦隊編成等に影響が出ます。場合によってはある程度の戦力を南洋に配置しなければならなくなります」
宇垣は黄金仮面と呼ばれるゆえんである、その不機嫌そうな表情を崩さずに言った。
「参謀長、今日の君はいささか鈍いのではないかね?」
一方、ついさっきまでの厳しい表情を崩し、笑みを浮かべながら山本は言った。
「何のために今日、この場に伊藤君と山口君を呼んだと思っているのかね? まぁ事の元凶は黒島君だかな」
この言葉に、それまで黙っていた連合艦隊首席参謀の黒島亀人海軍大佐と軍令部次長の伊藤整一海軍中将は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
しかし、当の宇垣や第二航空戦隊司令官の山口多聞海軍少将は何の話か分からず、キョトンとしたまま、海軍兵学校の同期生同士で顔を見合わせていた。
そしてさらに三日後。
太平洋艦隊総司令部の長官公室でニミッツは、つい先程通信参謀が持ってきた二枚の電文を凝視していた。
「……レイ、作戦本部はさっそく新たな作戦を発令してきたぞ。三隻ずつの高速戦艦と空母を基幹に任務部隊を編成し、今月中にサモアに進出せよ。ということだ。詳しいことは明日、サンディエゴから飛んでくる参謀が説明するらしいがな」
ニミッツは顔を上げてスプルーアンスに向かってそう言った。
「……すると、目標はトラック、もしくはまたもやマーシャルでしょうか?」
「あぁ、おそらくどちらかだろうな。そして太平洋艦隊に『ワスプ』を配備したのは、この作戦が成功する確立を引き上げるためだったわけだ」
「しかし……『ワスプ』を含めたところで、艦上機数はせいぜい二五〇機です。先の戦いから、マーシャルには少なくとも同数の戦闘機が配置されていると予想されます。トラックも似たようなものだとすれば、正直勝ち目があるとは思えません」
スプルーアンスは心配そうに言った。
「それは私も同意見だ。だが我が合衆国海軍に残された三隻の正規空母を全て使用するのだ。何か秘策のようなものでもあるのだろう」
そう言ったニミッツの表情も、どこか不安そうであった。秘策がある、という保証はどこにもないのだ。
「……これはあくまで私個人の意見だが、この新編の任務部隊の司令官にはブルがふさわしいのではないかな」
「ハルゼー中将、ですか」
ウェーク島沖海戦の時、いや正確にはその少し前、帝国海軍潜水艦部隊の夜襲により、合衆国海軍砲戦部隊の主力であったレキシントン級巡洋戦艦を含む多数の艦艇や、その後の航空戦で艦上機、その塔乗員の多くを失ったウィリアム・ハルゼー海軍中将は、その責任をとらされて閑職に回されるだろう、と誰もが思っていた。
しかし、海軍少将の身から大抜擢を受けて太平洋艦隊の司令長官に就任したニミッツは、有能な幕僚や指揮官の交代を嫌い、ハルゼーをとりあえず基地航空隊の司令官にして、ほとぼりが冷めるのを待っていた。
そして一週間前、ハルゼーは再び空母部隊の指揮官に返り咲き、まさに文字通りの猛訓練を開始していた。
スプルーアンスは、哨戒中の駆逐艦を目標に爆撃訓練を行なっている艦載機の一群を窓越しに見つめながら口を開いた。
「私は賛成です。わずか一週間で彼ら航空隊の技量はハルゼー中将のもと確実に向上しています。彼が一番の適任です」
「レイもそう思うなら間違いない。彼なら確実に任務をこなしてくれるだろうな。……それに偶然だが、時期的に日本海軍の主力はインド洋方面にいるだろう」
「ということは……日本海軍の目的が分かったのですか?」
「あぁまだ言っていなかったな。シンガポールから日本海軍の機動部隊が西に向かって出撃したらしい。主力部隊の情報はまだだが、やはり彼らの興味はインド洋方面にあるようだ」
そう言ったニミッツはまた窓を開けた。
長官室に潮の香りと共に、航空機の爆音が入り込んできた。