四二 忍び寄る米国爆撃隊
一九四二年四月五日。
夕方を迎え、辺り一面が橙色に染まっていくなか、北太平洋にあるミッドウェー島から西に約一〇〇キロ程いった海上にそれは浮かんで、いや正確には北に向かってノロノロと進んでいた。
宮野正巳海軍少佐が艦長を務める呂号第三五型潜水艦の八番艦、「呂号第四二潜水艦」である。
この呂号第三五型潜水艦とは、帝国海軍が量産している中型の戦時急造潜水艦である。
水上においての基準排水量一一〇〇トン、一〇センチ単装高角砲一基、五三センチ魚雷発射管を艦首に四門、潜水艦用の酸素魚雷である九五式魚雷を一〇本装備している。
最大速力は水上で一八ノット、水中で八ノット、安全潜航深度は九〇メートルである。
「艦隊司令部からの通達によれば、敵艦隊がこの付近を通るのは今から二時間後といったところでしょう」
見張り塔に立って双眼鏡を構える宮野の隣で、航海長の鈴木好之海軍中尉が付近の海図を新聞を見開くように持ちながら言った。
「ふむ、二時間後か。それは敵さんが巡航速度で、しかも針路をミッドウェー方面にとった場合だろう。はたしてここに来るのだろうかね」
「まぁ、確かにそうですが。……しかし空母を含む艦隊が真珠湾を出港して、いったん針路を西にとったことは、ハワイ近海にいる友軍潜水艦が確認していますから、そのまま西に進む可能性は高いと見るべきでしょう」
「でもそうすると、敵の目的は一体何なんでしょう? ヨークタウン級空母一隻ということは、艦上機にして約九〇機程度ですが、その程度の航空戦力が出来ることなんてたかが知れています」
見張り長の小宮山悟海軍中尉が疑問を口にする。
「あながちそうとも言えんだろう。狙われる側に経って見れば、九〇機の艦上機の評価は分かれる所だ。そう、南鳥島あたりの身になってみればそれなりの脅威だろうな」
「南鳥島……ははぁ分かりました。それで我が軍を混乱させ……」
「電測より艦長! 対空電探に感! 右一一〇度方向、距離二万メートル! 小型機、少数の編隊!」
「急速潜航!」
電測長の中田義直海軍中尉の突然の絶叫が艦を揺らし、反射的に宮野が叫び、鈴木は海図をたたんで梯子の脇にある鉄棒をつかみ、艦内に向かって滑り降りていく。
潜水艦はまともな対空兵器を持っておらず、装甲も無きに等しいから、航空機相手には戦うよりむしろ隠れなければならない。
静かに動いていたディーゼルエンジンの音が止み、代わりに電動機が回りだす。ただし、電動機と台座の間やその部屋全体がゴムでおおわれているため、音はほとんど聞こえない。
「艦長も急いで下さい!」
鈴木に続いて二名の見張り員が艦内に滑り込み、鉄棒をつかんだ小宮山もそう言うとそのまま滑り降りていく。
小宮山の声を半ば無視したように、宮野は双眼鏡でジッと東の空を見つめていたが、そうする間にも「呂四二潜」のメインタンクに海水が勢いよく流入し、艦体はみるみる海中に沈んでいく。
しかしそこは潜水艦の艦長だけあって、宮野は絶妙のタイミングでハッチを閉め鉄棒を滑り降りた。
「深さ一五」
「一番潜望鏡上げ!」
「深さ一五!」
「針路そのまま、両舷前進原速」
「……艦長、どうですか?」
「……うーん、あれはどこからどう見てもドーントレスとかいう艦爆だな。四機編隊だ……潜望鏡下げ、深さ三〇」
潜望鏡から目を離した宮野は帽子をかぶり直し、「呂四二潜」自体は前のめりになってさらに深く潜っていく。
「……ではまさか」
鈴木が微妙に引きつった顔で言う。
「まだ断定は出来ないが、敵の空母がこちらに向かっている可能性は高いな」
「いずれにしてもこれからどうしましょう? このまままた浮かび上がるわけにはいきませんし、かといって……」
「とりあえずこのままこの辺りに止まって暗くなるのを待とう。空母がミッドウェー近海に進出している、というだけでも大きな収穫だ。まぁ敵に気付かれた可能性はそれなりにあるがな」
「失礼します」
約二時間後、マーシャル諸島の中にあるクェゼリン環礁。
今ここには潜水艦部隊である帝国海軍第四艦隊の司令部が進出してきている。
マーシャル諸島といえば文字通りの最前線であるが、アメリカの情勢を知るためにはやはりアメリカに近いほうが良いのだ。
「ミッドウェー近海の『呂四二潜』からの報告電です。『我、敵艦隊の通過を確認す。一四二六』以上です」
「……何だそれだけか?」
第四艦隊司令長官の清水光美海軍中将は司令長官公室の椅子に座って、電文の綴りを持ってきた通信参謀の立松真史海軍少佐に、拍子抜けしたように聞き返した。
「はぁ、しかしこれだけであります」
「おそらく敵艦隊がまだ近くにいるのでしょう。それで一瞬浮上してこの電文を送信して、また潜って、という具合にすれば発見される確率は減りますから」
すると脇から、参謀長の三戸寿海軍少将が意見を述べる。
「なるほどな。ということわだ、しばらくすれば追加の情報が……来たようだな」
「は、はい。また『呂四二潜』からです。『敵艦隊は空母二を含む。一四二九』以上です」
「……終わりかね?」
通信士から受け取った電文を読み終えた立松に、清水は確認を求めるような口調で言った。
「はい、これで終わりであります」
「しかし長官。空母が二隻とはどういうことでしょう? 最新の情報では真珠湾にいる空母は一隻だけのはず」
「分からん。だが少なくとも良い事ではなさそうだな」
三戸の疑問提起に、清水がややぶっきらぼうにそう応えると、またもや電文を手にした通信士が長官公室に入ってきて、立松にそれを手渡す。
「『呂四二潜』かね?」
「はい『我の現在地、北緯二八度一〇分、西経一七九度三分。一四三一』以上です」
「ふむ、ということは浮上して位置を測れるほどに敵艦隊とは離れてしまったということだな。……君達はこの艦隊の目的をどうみる?」
自分一人だけ考えても解答には行き着かないと思ったのか、居並ぶ参謀達をぐるりと見渡しながら清水は言った。
「気がかりなのはハワイと我が本土を結ぶ直線上付近にいるということですが……しかし正直、さすがのアメリカも空母二隻で我が本土を攻撃しよう、とは思わないでしょう」
「すると狙いは……いや今は議論すべきときではないな。直ちに連合艦隊総司令部にこれらの情報を送ってくれ。それから、日付変更線より西にいる潜水艦に全力を持って、この敵艦隊を捕捉するよう命令を出せ」
最前線の基地とは言え、この段階ではまだ平和だった。
最も危険な事態を予測した参謀が一人いたが、本気にそのことを気にしてその可能性を総司令部に伝えようとした者は誰一人いなかったのだから。
それから二日経った四月九日、午前八時。
徴用された漁船に、機関銃と無線機を積んだだけの特設監視艇の犠牲のもと、最も危険な事態に陥りつつあることを自覚した日本政府及び帝国陸海軍は、遅ればせながら対策をとりはじめていた。
すでに関東地方一円には、「小笠原諸島付近に航空母艦を含む有力な米国艦隊が出現した模様。帝国陸海軍の諸部隊は全力で迎撃に当たっているが、関東地方に敵爆撃機が襲来する恐れあり。これは演習にあらず……」という、事実そのままだが何とも緊張感の無いラジオ放送が配信され続けている。
しかしだからといって、関東地方に住む人達が慌てふためいたかといえば否だ。
この世界の日本は史実に比べて格段に情報の出入りがスムーズであるため、少なくとも街に住んでいる日本人はイギリスやドイツの首都が爆撃されたことを知っているし、日本がその例外でないことも分かっていた。
だが、分かっているであって理解しているわけではない。
頭の上から爆弾が降ってくる、ということを想像してみなさい。と言われて想像出来るはずはないのである。
さてそんななか、東京の羽田飛行場の一角に建っている、本土防空特別航空軍の司令部の中は、てんやわんやの大騒ぎになっていた。
文字通り、帝都東京を空を守る部隊をその一手に統轄しているわけだが、その豪華な名称とは裏腹に、守備範囲は関東地方のみ、隸下部隊もたいしたことはない、というお寒い状況で、後にこの組織が発展して“帝国空軍”の中核となることを予想出来た者はいなかっただろう。
「小笠原監視所から報告電です。『我、敵編隊見ゆ。敵機は双発の中型機、機数は一六、速力二一〇ノット、針路〇度。〇八一一』以上です」
「双発だと!? 間違い無いのか!」
「参謀長、ここで疑念を持っても仕方あるまい。どうやら敵は空母に陸軍機を載せて来たようだな。我が本土からなるべく遠い所から攻撃するためにな」
司令長官の井上成美海軍中将が、帝国陸海軍合同部隊であるが故に、この部隊の参謀長を務めている山本健児陸軍少将に対し、落ち着いた口調で諭すように言う。
「だが今はそんなことはどうでもよい。各部隊の迎撃準備は進んでいるのかね?」
「はい、今のところ地上部隊については問題ありません。すでに東部高射砲集団の各部隊及び近衛高射砲連隊、それに横須賀鎮守府特別防空隊、我が航空軍隷下の機動防空隊からは、すでに全部隊戦闘準備についているとの報告が入っております」
「戦闘機隊につきましても、現在最終調整段階です。後三〇分もすれば、全機出撃出来ます」
井上の問いかけに、防空参謀鈴木実次陸軍少佐と、特別航空軍隷下の航空隊を統括する第一〇一航空戦隊司令官の松永貞市海軍少将が相次いで返答を返す。
ちなみにこの時、特別航空軍の指揮下にあった稼働機の内、帝国海軍の戦闘機は九六式四号艦上戦闘機に零式艦上戦闘機三一型が一個中隊ずつ、つまり合わせて三二機。
帝国陸軍の戦闘機は九七式戦闘機が七機に一〇〇式戦闘機“隼”二型が一〇機、一式複座戦闘機“屠龍”が一三機。
合計すると、たったの六二機である。
戦闘機、という枠組みを取っ払っても他にあるのは機上電探と磁探を装備した一式大型飛行艇が六機、一〇〇式司令部偵察機が一〇機、その他輸送機や連絡機が合わせて一〇数機でしかない。
寂しい限りだが、決して冷遇されているわけではない。仮にも帝都の空を守る部隊なのだ。
その証拠に、羽田飛行場の後方支援を担う成増飛行場には、工場から出てきたばかりでピカピカの局地戦闘機“雷電”が三二機、屠龍が二〇機の合計五二機が並んでいる。おまけにこの二〇機の屠龍には、新兵器の“二〇ミリ斜銃”が搭載されているときている。
要するに機体はあるのだ。
ただ、これを動かす肝心塔乗員が足りないのだ。
帝国海軍に関しては数年前から搭乗員の増員策を練り、その要請方式も従来の少数精鋭主義から脱却しつつあるが、需要を満たすまでには程遠いのが現状である。
「とりあえず大艇部隊に出撃命令を出しましょう。あれは最新式の電探と無線機を積んでいますから、各地の監視所と連絡して戦闘機隊を誘導させられます」
いくらか落ち着きを取り戻した山本が具申すると、井上はゆっくりと応えた。
「よし、そうしてくれ。敵機が伊豆諸島にかかったら戦闘機隊に出撃命令を出そう。敵機を本土上空に入れるわけにはいかん」
一方その頃、レイモンド・スプルーアンス海軍中将率いる合衆国海軍第一七任務部隊は、合衆国陸軍の双発爆撃機であるB25“ミッチェル”を載せてきた空母「ホーネット」の飛行甲板に本来の艦上機を上げつつ、荒れる太平洋を全速力でハワイに向かっていた。
すでにミッドウェー島の近くで発見されたことを……確証は無かったが……考えると、日本側も迎撃体制を整えている可能性は高く、また何度も潜水艦の接近を確認しているため、とにかく逃げることが先決というわけなのだ。
事実この時、念のため、と伊豆諸島沖に集結していた日本艦隊や飛行艇部隊は血眼になって、第一七任務部隊の行方を探していたから、スプルーアンスのこの方針は的を得ていた。
そして結局、第一七任務部隊はこれといった被害にあうことなく、空母機動部隊の特色である高速を充分に生かして離脱して行った。
一方の帝国海軍による追跡作戦も、潜水艦からの報告に基づいて、午前中に大小合わせて六隻の空母や二隻の戦艦等を動員して開始されたが、悪天候に見舞われ切り札の艦上機を出せず、失敗に終わっている。
「長官! 大艇隊出撃完了です!」
「横須賀鎮守府特別防空隊司令部より入電『我、対空戦闘用意よし』」
「東部高射砲連隊司令部その他、帝都周辺の防空部隊からも同文入電です!」
地上部隊の方はこれが初陣とは言え、この段階までは訓練通りだから上手くいって当たり前ともいえる。
問題は狙われている帝都東京の住人達と航空隊の方である。
「宮城のご様子はどうだ? それに一般市民達は大丈夫なのか?」
「近衛師団司令部からの報告では、陛下を始めとする皇族方はすでに宮城内の防空壕に退避されたとのことです。一般市民に関しては目下、留守歩兵第一師団と警視庁、あと在郷軍人会の面々が市民達を地下鉄の駅等に誘導しているとのことですが……」
「市民の避難については訓練不足だ。防空壕も全然足りておらんからな……それで戦闘機隊はどうだ?」
どこか焦った表情を浮かべた井上の問いに、松永が答える。
「全機出撃準備完了です。それから館山飛行場に展開中の六〇一空戦闘機隊もまもなく準備が完了するとのことです。もっとも問題が無いわけではないのですが……」
こちらは全員が初陣というわけではなく、台湾でB17を叩き落とした経験を持つ者等も少数だが混じっている。
では何が問題かと言えば、電探や無線を駆使して、目標とする敵機に近い戦闘機をその目標に誘導させるということだ。
相手は時速にして四〇〇キロ弱の速さで北上してくるから、この誘導にもたついていれば本土上空への敵機の侵入を許すことになってしまう。
「総合作戦本部より入電です。『敵機接近につき時刻〇九〇〇に南関東地域に空襲警報を発令す。当初の方針通り警報の発令と同時に帝都防空の指揮を貴官に一任す』以上です」
総合作戦本部とは要するに、事実上の“大日本帝国軍総司令部”のことである。
本来、井上成美という人物が命令がくだせるのは、彼自身が長官を務める特別航空軍に所属する部隊のみである。
しかし、東京を中心する地域に空襲警報が発令されるという緊急事態に限り、帝都防空に関する指揮全権を掌握出来るという特権を持っていた。
もしそうなった場合、たとえ近衛師団であろと第一機動艦隊であろうと、彼の命令には従わなければならないのである。
そして、B25の編隊が北緯三〇度を越えた頃、時計の針が午前九時を示し、南関東地域に空襲警報が発令された。
それと同時に井上は、眥を決して以下のような電文を全軍に向けて打電させた。
「発、本土防空特別航空軍司令長官。宛、帝国陸海軍全部隊。我、只今より帝都防空戦の指揮をとる」