三七 迫り来る日本軍
一九四二年二月一七日。
この日、ただでさえ狭い瀬戸内海は、いつにもまして混雑していた。
理由は単純で、日本軍による英領マレー攻略作戦、通称E作戦が発動されたからである。
広島の宇品港に集結していた帝国陸軍第三軍の諸部隊は、六隻の第一号型揚陸艦を始め、海運会社からかき集めた大型輸送船等に次々に乗り込み、そして港の岸壁や海上に浮かぶ漁船から大勢の見送りを受けながら、次々に碇をあげて出港して行った。
しかし何しろ三個歩兵師団他の大部隊である。
その輸送船の数も当然のことながら、一〇〇隻を優に超える膨大なものであり、これらを護衛する帝国海軍の艦艇数も半端なものではない。
今回、マレー攻略作戦を支援する高橋伊望海軍中将率いる第一南遣艦隊は、例によって寄せ集めの艦隊である。
もっとも、最大の敵であるアメリカ太平洋艦隊を撃破した帝国海軍にとって、もはや戦艦や空母を集中配備した第一艦隊や第一機動艦隊は主役ではない。
いくら寄せ集めとは言え、南方に進出する帝国陸軍の支援という、非常に重要な任務をおびた第一南遣艦隊は、この時点では帝国海軍の主役なのだ。
傘下においている戦艦は、先の比島沖海戦においてほとんど、と言うよりまったくの無傷であった『武蔵』と文字通り突貫工事で修理を終えた『越前』と『伊勢』の三隻。
空母は第三航空戦隊の『飛龍』と『翔龍』、第五航空戦隊の『飛鷹』と『隼鷹』、第七航空戦隊の『蔵王』『筑波』『笠置』それから『白馬』の大小合わせて八隻、艦載機の合計は約五〇〇機。
ちなみに、八隻の空母とも第一航空戦隊から消耗した分だけ搭乗員込みの補充を受け、艦載機数は定数を保っている。
第六艦隊を改称した第二南遣艦隊に配置されている第二航空戦隊や、第三艦隊隸下の第四航空戦隊も同様で、第一航空戦隊に残った者は教官として、搭乗員の大量養成に一役かっている。
正規にしろ改造にしろ空母の数はこれからどんどん増えていくわけであるから、搭乗員は一人でも多く養成しておく必要があるわけなのだ。
話が少し逸れたが、その他は重巡六、軽巡七、駆逐艦三〇、護衛艦一二という大艦隊である。
本来、輸送船の護衛は専門の護衛艦隊が担うべきなのだが、帝国海軍に『海上護衛総隊』が創設されるのは、戦時急造の小型護衛艦の数がある程度揃うこの年の三月中旬のことである。
また満州に配置されていたために唯一別行動をとる第二機甲師団は、臨時の輸送列車を仕立てて韓国の釜山に集結しており、一八日に釜山を出港している。
一方のイギリスである。
マレー半島におけるイギリス軍を指揮するアーサー・パーシバル陸軍中将は、東洋のジブラルタルと呼ばれるシンガポール要塞や、マレー半島に築いた多数の陣地群により、侵攻してくる日本陸軍を少なくとも半年は食い止めると豪語していた。
彼が本国に求めていた増援も、決して希望通りではないが到着しつつあり、日本艦隊が接近するまでに陸軍は一〇万、空軍は作戦機だけで三〇〇余機が揃う予定で、戦意はともかくとしても数の上では史実のそれを上回っている。
しかし、シンガポールの港からインド方面へと向かう民間の貨客船乗り場は、大きな荷物を抱えた民間人で溢れかえっていた。
というのも日本軍の情報部が、大胆にも『これから攻めに行くぞ!』という恐ろしい予告と、現地の行政府の情報統制によって知らされていなかった情報……東洋艦隊が壊滅した、等々……を、マレー半島で話されている様々な言語で録音したのだ。
そしてそれらを絶えず西を向いた八木アンテナ……電波の指向性に優れ、二一世紀の今も、それを上回る性能を持つアンテナは開発されていない。例をあげるなら屋根の上のテレビアンテナがそれである……から凄まじい出力で発信したため、ラジオからそれを聞いた民間人達が、皆恐れをなしたというわけだ。
さらには、すでに日本軍が占領したボルネオ島に進出した陸海軍の航空隊が、連日のように大量のビラを積んだ一〇〇式司令部偵察機、もしくは同じものだが名前の違う零式陸上偵察機を飛ばしては、そのビラをあちらこちらにばらまいていった。
ビラに書かれていることは言語こそ多種多様だったが内容は皆同じである。
その内容も基本的にラジオ放送と同じであるが、内容よりもビラをばらまきに来ている日の丸を描いた双発機を、迎撃に上がった英軍機が一機も落とせていない、という事実もある。
ビラは街にだけ降ってくるのではなく、無論軍隊の駐屯地にも降ってくる。
上層部からの命令でそれを拾うことやラジオをつけることは固く禁じられている。
しかし完全には無理である。
どこからともなく噂は広がり、特に英印部隊……将校は英国人、下士官と兵はインド人……は動揺を始めていた。
インド人にしてみれば自身とは縁の無いマレー半島で、祖国を牛耳っているイギリスのために命を投げ出すことなどしたくもないのだ。
さて、日本艦隊は速力一二ノットという鈍速で、一路上陸地点であるコタバルを目指した。
民間から徴用した輸送船を使っているために、速力をそれらの船に合わせなければならない。
単純に考えても一週間以上かかるが、元々予定外の作戦である以上仕方がない。
それでも帝国陸軍がついていたのは、長期戦になったときに備えて、南方に広がるジャングル地帯で戦うために特別訓練を受けさせた歩兵師団が四個あったということだ。
これらは一応関係が良好な状態にある、蒋介石率いる中国国民党政府のバックアップによるもので、彼らは……実際には海上機動旅団や一部の海軍陸戦隊を含む……華南や海南島を中心に約半年に渡って訓練に励んできたのだ。
その内二個師団は本来予備部隊となるはずだったが、英国の参戦を受けて第三軍に組み込まれている。
日本軍らしからぬ鈍速で南下する第一南遣艦隊であるが、第三、第五航空戦隊を基幹とする機動部隊だけは、二五ノットの快速で南下を始めた。
上陸部隊が接近するまでにマレー半島の制空権を握るためだ。
また同時並行で蘭印攻略作戦、通称H作戦も進行していた。
すでに良質な石油や基地を得るためにボルネオ島は手中におさめているが、最終的な目的地であるジャワ島に向け、第二段階としてセレベス島とモルッカ諸島に向けて部隊を派遣したのだ。
セレベス島は海軍陸戦隊が、モルッカ諸島は第二軍が攻略にあたり、二一日にそれぞれ四〇〇〇の兵力で上陸を開始した。
連合国側にとってショックだったのは、オランダが占領してから三〇〇年以上に渡ってモルッカ諸島の中心地であり要塞でもあったアンボンが、あっという間に日本軍に占領しまったことだ。
特にジャワの総督は多大なショックを受けたらしく、アンボン攻略後の戦い方が気持ち消極的になったという。
しかし、基地航空隊の陸攻隊に機動部隊、さらには艦砲射撃による爆弾と砲弾の三重奏を受けた結果であるから、要塞の陥落は必然であったかもしれない。
意気揚々と上陸した兵士達が見たものは、五〇〇キロと八〇〇キロ爆弾、二〇,三センチ砲弾に掘り返され、ボロボロにされた哀れな要塞、いや要塞だったものの姿だった。
ところでいつ第二南遣艦隊に重巡を配備したのかといえば、最初から配備されている。
実は金剛型軽巡に代わって旗艦に抜擢されたのは、例の『磐梯』なのだ。
ここで少し時間を戻す。
日付は二〇日、ボルネオ島ブルネイのとある飛行場。
「長峰大尉、オイル交換終わりました」
駐機されている雷電のエンジンをいじっていた整備兵が、傍らで煙草をくわえていた第三四三海軍航空隊第二戦闘隊長の長峰義郎海軍大尉に声をかけた。
「おっ、ありがとう」
長峰が煙草を吸いながら答えると、その整備兵は軽く会釈しあたりに散らばった自身の作業道具をかき集め、隣の雷電をいじり始めた。
ブルネイは日本が欲しくて欲しくて仕方がない良質な石油の産地である。
また位置的に南方の重要な拠点の一つとしても活用出来る。
この戦略的な価値に目をつけた帝国海軍は、帝国陸軍にろくに相談もせずにほぼ抜け駆け的に陸戦隊と航空隊を派遣して、パッと占領してしまった。
当然の如く、後からそのことを聞いた陸軍関係者は皆嫌な顔をした。
いくら史実よりも陸海軍の仲が良いとは言ってもさすがに限度がある。
まぁその話は置いておくとして、帝国海軍はこのブルネイの港や飛行場、陣地といったものをほとんど無傷で手に入れていた。
というのも、帝国海軍が世界的にも珍しい海軍陸戦隊による空挺部隊を投入したからで、彼等横須賀鎮守府特別陸戦空挺隊の約六〇〇名の将兵は、イギリスの守備隊の隙をついてほとんど損害を出すことなく降下し、元々戦意の無い守備隊は形ばかり戦うと降伏してきたからなのだ。
これにより帝国海軍は南方の拠点を得たわけだが、思わぬおまけ付きであった。
具体的にはまったくの無傷の油田施設、スピットファイア等の航空機、さらには二万トン級のタンカーが三隻という素晴らしいものだった。
「やっぱりすぐそばに油田があると便利ですね。何しろこうしていつでも上質な燃料を使えるのですから。松山じゃぁこうはいきませんよ」
嬉しそうに第四中隊長の大林徹海軍中尉が言う。
「まったくだな」
吸い殻を足で踏みながら長峰が答える。
「でも個人的にはバリクパパンの飛行場のほうが良かったです。あっちのほうが敵に近いですし、第一ここからでは燃料が持ちませんから」
「まぁそう言うな。蘭印作戦の航空支援は機動部隊がやるということは、前々から決まってたのだからな。……それにあの飛行場は使いたくても使えんよ。陸攻隊と艦爆隊の連中が耕しちまったらしいからな」
「はぁ。でも何でそんなになったのですか? 後々自分達が使う飛行場を使用不能に追い込んでしまうなんて」
「うーん、噂じゃあ元々飛行場は艦爆隊の精密爆撃だけで済ませる予定だったらしいが、偶然追い詰められた敵の陸上部隊が飛行場に集まっていてなぁ、陸さんの誰かが後のことも考えずに陸攻隊の指揮官に電話を入れたことが原因なんだそうだ」
「はは、新型の無線機が裏目に出ましたね。従来の無線機じゃあ一度サンボアンガを経由させなきゃいけなかったのに、直接出来るようになったと思ったらこれですから」
「しかし無線機のせいじやぁないな。陸海軍間の連絡の悪さが原因だな。…って人のことは言えんか」
そう言うと長峰は軽やかに笑った。
「しかし飛行場が修復されるまで、バリクパパンの防空はどうするんだろうな? 修復するための工兵隊はまだサンボアンガにいるだろうに」
「あぁ、それでしたら今日中に四五一空がバリクパパンに到着すると……さっき司令部で話題になってましたよ」
「福山……何だその……四五一空というのは? 聞いたことがないぞ。大林、お前は?」
「さぁ……でも四〇〇番台の航空隊は水上機部隊でしょうに…」
ちなみに帝国海軍は艦載機部隊に限って一月の終わりから空地分離方式を採用している。
この第四五一海軍航空隊の場合は、四隻の特設水上機母艦が搭載する四八機の水上機からなっている。
「水上機? まさか水偵で防空しようなんてわけじゃああるまいし……」
「強風、ですよ」
「強風? スコールでもくるのか?」
「……違いますよ。四五一空の戦闘機の名前です」
「そんな名前の戦闘機なんてあったか?」
「……そうだ思い出しました! ウェーク島沖に関する新聞記事にでてましたよ『一四試水戦採用確実か』って。きっとそれですよ。そうだろう?」
と、得意満面な様子で大林は言った。
隊内で浮く理由はこんな態度をとるからだ、と福山は思いながらもうなずいた。
そうとは知らない大林はそのままの表情で、長峰に……新聞記事とまるで同じ……強風についての説明を始めた。
「なるほどねぇ、だけど重たいフロートをつけているわけだろう。その分性能が悪くなるんじゃないか?」
「きっと色々な新技術が使われているのですよ」
新聞記事にそんな細かいことは書いてないので、大林の答えも当然アバウトなものになる。
一歩引いた所で福山は、自身の愛機にもたれかかりながら苦笑いを浮かべ、自分の上官達の愉快な会話を眺めていた。