三 満州帝国成立
一九二八年九月三〇日、正午。所は旅順沖。
この海域は本来ならば様々な商船が行き交い、文字通り活気にあふれているはずなのだが、この日に限っては商船と呼べる船舶はそのほとんどが港に閉じこもってしまっている。
その理由は単純なものであり、怖くて出て行けない、というものであった。
黄海に突き出た形をしている遼東半島を囲むように、永野修身海軍中将が指揮をとる第五艦隊が展開しているのである。
その主力は、普段なら第一艦隊に籍を置いている第二戦隊の天城型巡洋戦艦四隻と、第一航空戦隊の松島型航空母艦三隻である。
将来の空母機動部隊につながっていくことになる戦艦と空母を基幹とした高速部隊、をコンセプトに臨時編成され訓練に勤しむはずだった第五艦隊だったが、満州で起こった事変と日本政府の方針に従い、政府によって反乱軍という烙印を押された帝国陸軍満州派遣軍と朝鮮軍に対する威圧行動のために、旅順沖を遊弋しているのだ。
四隻の天城型巡洋戦艦は、それぞれに八門搭載された三六センチ砲に軽い仰角をかけて陸地側に砲身をむけているし、空母部隊は飛行甲板上に爆弾を吊るした攻撃機を並べていつでも発進できるように攻撃機のエンジンも始動させていた。
なにしろ市民や商船は第一次大戦初期に世界最強と言われた、天城型戦艦の三六センチ砲計三二門に睨まれているのである。いつ弾が降ってくるかと脅えきっていることはある意味当然であった。
「第五艦隊は予定通り旅順沖に展開、第二戦隊は何時でも弾丸を反乱軍敵施設に撃ち込めます。また第一航空戦隊には爆弾搭載の艦載機に即時発進体制をとらせています。第二水雷戦隊には朝鮮在駐の艦艇と合同で黄海を封鎖させています」
岡田啓介海軍大臣が総理の田中義一に報告すると、今度は白川義則陸軍大臣が立ち上がり報告を始めた。
「既に朝鮮軍のうち朝鮮人部隊の第二一、二二師団は鴨緑江を超えて引き上げ始めています。また満州派遣軍の指揮下にある第三航空連隊も、こちらの勧告に従い朝鮮の海軍の元山飛行場に到着しつつあります。また満朝国境は内地より緊急派遣した第一二師団が、展開しており国境を結ぶ道路及び鉄道路線を押さえております」
「そうか、ご苦労」
「総理、少し休まれたらいかがですか? 相当お疲れのようですが」
「ありがとう厚生大臣。だがこの状況では休むわけにもいかんよ。私個人より帝国のほうが大事なのだから」
しかし、田中は毎夜官邸に医者を呼んでいた。ある大臣が後に書いた回顧録には、元々心臓が悪かった田中の寿命をこの一件が著しく縮めた、と書かれている。
そしてその頃、満州の奉天飛行場に日本政府の切り札、天皇陛下の勅状を携えた勅使が降り立っていた。
当たり前だが事前の通告は無く、この勅使の不意の登場は、完全に今原繁満州派遣軍司令官ら反乱軍の幹部達の意表を衝いた。
中央政府の様々な圧力に抗することしか頭に無かった彼等が気がついたときには、その面前に勅状が突きつけられていたのである。
「……により満州派遣軍の武装解除を命じる。……これが陛下の御意思です。金谷大将、今原中将」
勅使が神妙な様子で勅書を読み終えると、今原と金谷範三朝鮮軍司令官、そして居並ぶ反乱軍幹部達はうなだれた。
もはや当初の計画を遂行することは不可能である。わずか三個師団プラスの兵力ではどうしようもない。逃げようにも、まさか中華民国やソ連領内には逃げられない。といって他のルートは既に封鎖されている。
だいいち最高司令官である陛下の命令に逆らえる帝国軍人などこの世にいない。
この瞬間、彼等の野望と将来の希望は打ち砕かれたのである。
三日後、今原を始めとする派遣軍幹部達は、東京からやって来た憲兵隊により連行され、合わせて捜査活動も始められていた。
約一ヶ月にも及んだ捜査の結果、様々なことが明るみになった。
例えば柳条湖事件等であるが、これらの事実は政府の方針で全て公開された。
日本でも大分普及したラジオ放送や、新聞等を通してこれを知った国民は、当然のことながら大騒ぎになった。
だが政府も何から何まで公開した訳ではなかった。
隠すものは徹底的に隠しとおしたのである。それはなにか?
早い話が満州国の建国裏話である。
満州国を実際に作ったのは満州派遣軍であり、溥儀はそれにつき合わされただけ。彼等の目的は満州に傀儡政権を樹立して間接的に満州を支配することであった……なんて話がばれたら大変なことになる。
国内ならともかく、国外に漏れ国際連盟の総会の議題にでもなれば、満州国など消えてなくなってしまうだろう。
なんだかんだ言って満州の利権は喉から手が出るほどに欲しい日本政府にとって、何があっても絶対に隠しとおさなければならなかった。
そして、満州国を作ったのは溥儀ら旧清王朝の連中であり、その目的は一度滅んだ清朝の復活である。現地の日本陸軍は満州国の支援要請に対して、中央政府の意向を無視して勝手に協力しただけである……というホラ話を必死にばらまいた。
実をいえば公開するものを、徹底的に公開したのはこの件から目をそらさせる目的があった。
さらに日本政府の情報開示はとどまらず、まだ竣工していない建造中の重巡や空母、はてには戦艦の存在まで明らかにした。
この空母……飛龍型航空母艦『飛龍』『翔龍』……は帝国海軍が翔鶴型、松島型空母を建造し、それを実際に運用してみて生じた問題点を可能な限りなくし、防御にも細心の注意を払うなど、帝国海軍の空母建造ノウハウを十分に注ぎ込んだ自信作であった。
実際、後に建造される日本空母は皆この飛龍型を原型としているほどである。
基準排水量二万二〇〇〇〇トン、八四機を搭載し三四ノットで海上を疾走する。
これらの性能は、同じ頃米国海軍が建造したヨークタウン級航空母艦と比べても遜色なく、まさに帝国海軍初の大型正規空母が誕生したのであった。
一方、戦艦……伊勢型戦艦『伊勢』『日向』……は米国や英国のように艦隊決戦のために造られた艦ではなく、どちらかといえば機動部隊に随伴する高速戦艦という位置付けで建造された。
しかし敵戦艦とぶつかっても大丈夫なように、主砲は信濃型と同じ四五口径四一センチ連装砲を載せている。ただし大型エンジンや燃料タンク、多量の対空兵器、徹底した防御を施したためにその数は四基に減り、一四センチ副砲も八門しか積んでいない。
火力では他の戦艦に多少劣る面もあるが、その足は戦艦にしては異常に速く三〇ノットを出した。ちなみに後の改装で最終的には三五ノットと駆逐艦並になる。
なお、重巡に関しては後々語ることにする。
日本政府には幸運なことに、これらのまだ竣工していない艦までだしたおかげで、この時点で満州国建国の負の面が表にでることはなかった。
一九二九年三月二〇日。
すでに日満協商条約を締結していた日本政府はこの月、満州国への援助を本格化した。
ところで先に行われた国際連盟による調査では、満州国独立云々よりも日本軍の関与が争点になっていた。
これは日本政府が必死になって行った隠蔽工作により、あくまで溥儀らの自発的行為であり、現地の日本軍は勝手に暴走しただけで、満州国自体にこれといった問題はない、という結果に落ち着いていた。
おかげで満州国は正当な独立国として国際連盟始め、各国……アメリカ、ソ連、中華民国を除く……の承認を得ていた。
そんなわけで、今回の援助も至って合法的行為となった。
具体的に何をしたかというと、第一に国土開発の援助である。
満州国の広大な国土のほとんどが未だに未開の地であった。
国家を繁栄させるにはまず鉄道や道路を縦横に走らせ、大規模農場や都市、工業地域を建設していかなければならない。
南満州鉄道はその名を満州国有鉄道と改めた。つまるところ満州国に譲渡されたのだ。
さらに日本から建設会社が相次いで進出し、都市建設や道路建設を押し進めた。
他にも近代的な農場建設のために、各地の大学の農学部の教授らや気の早い農民達が渡満して行った。
第二に経済の活性化、つまり外国資本の誘致である。
日本からはいち早く、中島飛行機が城北航空機と合同で奉天近郊に米国のボーイングフィールド並の馬鹿でかい工場を建て、三菱は新京郊外にこれまた巨大な工場を建設した。
同盟国のイギリスやその他英連邦の企業にも盛んな誘致活動を行なった結果、ある程度は……ロールスロイス等……誘致に成功したが、これといった成果はあげられずにいた。
満州国に本格的に外国資本が流れ込むのは、ナチス・ドイツが排斥したユダヤ人が亡命して来てからの話である。
第三に陸軍の整備である。
ちなみに『満州国海軍』は設立されなかった。ソ連との国境を守る河川部隊は満州国陸軍国境警備隊の指揮下にあり、黄海の警備その他は満州帝国陸軍海上部隊という海軍なのか沿岸警備隊なのか良く分からない部隊によって行われることになる。
ついでに『満州国空軍』も設立されなかった。
当時空軍という組織自体が珍しい存在であり、海軍が空軍の役割を担っている日本の真似をして、満州国陸軍航空隊として設立された。
ちなみに満州国陸軍の編成は五個軍プラス一個航空軍である。
ここで話はとんでこの年の一〇月二四日。
アメリカ合衆国の、そして世界の経済の中心地であるニューヨークウォール街、特にニューヨーク株式市場は修羅場と化した。
株価の大暴落はそのまま、経済大国アメリカの権威失墜につながった。
つまりヨーロッパの権威失墜でもある。
なぜなら膨大なアメリカ資本のおかげで、大戦で荒廃してしまったヨーロッパ経済は成り立っていたのだから。
ここで植民地を持つ国、すなわちアメリカやイギリス、フランスはブロック経済を組織して何とか乗りきった。
植民地を持たざる国、すなわちドイツ、イタリアはどうしようもなくなり、全体主義が台頭し独裁政権が組織される。
ちなみにソ連は社会主義だから関係ない。
さて微妙に持つ国、すなわち大日本帝国。
ささやかな円ブロックを形成するにはしたが、範囲が大したことないから大した効果はない。
とはいえ、開発が活発に行われていた満州と内地の一部地域の景気に限ってはそこまで落ち込まなかった。
裏を返せばその他の地域は非常に悲惨なことになっているということである。
折しも東北地方を襲った冷害によって、文字通り目もあてられない状況になっていた。
この時の総理大臣は田中内閣が田中の病気を理由に総辞職していたため、前大蔵大臣の後藤新一郎が務めていた。
後藤内閣の閣僚達は皆こう考えていた。
この超不景気から脱却するには……国民が皆働いていればよい。
……しかしその前に企業が相次いで潰れていく。……なら公共事業を盛んに行えば良い。
とまあここまでは良いのだが、問題はこの先にある。
つまり……「金がない」
そもそも明治以来、大日本帝国の基本方針は『殖産興業』『富国強兵』の二つである。
前者はそれで良いのだが、問題は後者のほうだ。
少なくともこの頃の日本に『富国』と『強兵』を両立出来る余裕などない。
結果、『強兵』が優先される。なるほど日本軍といえば世界的にも強い軍隊である。
しかし『富国』は置いて行かれる。
東京や大阪、それに筑波といった新興都市や、電化されて輸送力が飛躍的に伸びた東海道、山陽、東北本線沿線の街はともかく、いわゆるローカルな街は明治そのまま、へたしたら江戸である。
さて話を戻そう。
ようは『富国』政策を押し進めれば何とか復興の糸口は見つけられるだろう……後藤はそう考えていた。
ちなみにこの世界に『ワシントン条約』は存在しない。
だからこそ帝国海軍は敷島型の一部から伊勢型まで一四隻の戦艦と、鳳翔型から飛龍型まで八隻の空母を保有しているわけだが、その維持費が大変なのだ。
しかもこの世界の帝国海軍は航空主兵よりのバランス論に傾きつつあるから、駆逐艦や潜水艦、補給艦、護衛艦という様々な艦を主力艦が増えるのに比例して増やさなければならない。八八艦隊計画を没にしたからといって、簡単に楽になるわけではないのだ。
帝国陸軍も歩兵のいわゆる『人件費』が悩みの種である。しかも戦車や装甲車、航空機と開発しなければならない新兵器がわんさとある。
つまり……予算を確保するためには軍事費を削れば良い。という結論に達するのである。
後藤は閣議の席で、財部彪海軍大臣とう宇垣一成陸軍大臣に『軍縮』を打診した。
イギリスが海軍軍縮会議を主催しようとしている、という情報を得ていた財部は割合素直に受け入れた。
問題は陸軍である。
陸軍省にこの件を持ち帰った宇垣は、不運にも『反対』の嵐を受けた。
いかに国家財政が危機に瀕しているとは言え、陛下の軍隊を内閣が削るとは何事か、といった意見が陸軍の大勢を占めていた。
後藤もある程度は予想していたことではあるが、何個かの師団を削らなければ予算が持ちそうもない。
後藤が執務室で、自身の後任の中村祐二大蔵大臣と頭を抱えていると、一本の電話が入った。
それは、宮内省からの電話だった。
大至急、宇垣、財部両大臣をともない参内せよ。
つまり陛下からの呼び出しである。
後藤は正直、なぜ呼ばれたのかいまいち理解出来ていなかった。その訳を知ったとき、彼は非常に驚くことになる。