一五 ルフトヴァッフェ
「インド洋は平和を取り戻しつつあるそうだが、本土がこうなってしまっては……」
ロンドンダウニング街一〇番地に住んでいるヘビースモーカー、すなわち英国首相のウィンストン・チャーチルはため息をついた。
「ルフトヴァッフェがこれほどまでに強いとは……」
そのルフトヴァッフェ、つまりドイツ空軍は史実よりも賢明な発想をしていた。
まず第一に、英仏海峡を航行する商船への攻撃を、爆撃機をちょっといじった雷撃機もどきではなく、Ju88を徹底改造したちゃんとした雷撃機を造って行ったこと。
第二にBf110とかいう怪しげな双発戦闘機を投入する代わりに、その分多めに生産されたBf109を積極的に使ったこと。
第三に航続距離の短さが欠点だったBf109に、日本から譲渡されたものを参考に作られた落下増槽を搭載して、英国本土上空での活動時間をそれなりに伸ばしたこと等である。
「我が軍の戦闘機の生産状況を聞きたい!」
閣議の席で、チャーチルは親友でもあるマクスウェル・ビーバーブルック航空機生産大臣に問いかけた。
「南部の工事群は壊滅的打撃を受けてしまいましたが、現在は北部に移転したものも含めて、スピットファイアやハリケーン戦闘機の生産はいたって順調です」
「しかし搭乗員の養成がまったく追い付きません。外国人パイロットの受け入れはすすんでいますが、それでも足りません」
「困ったことだ。そろそろ植民地からの引き抜きを本気で考えたほうが良さそうだな」
チャーチルがそう言ったその時、けたたましいサイレンと共に爆発音が聞こえてきた。
「何事だ!?」
時は一九四〇年八月二四日。
実際はただの航法ミスだったのだが、ロンドン市街に爆弾が降ってきたのである。
それから一週間後。
所変わって地球の裏側、東京霞ヶ関にある海軍省の一室。
ここには陸海軍の航空関係者、それに民間からも航空関係の技術者が集まっていた。
「ロンドン大使館からの報告では、英国空軍が先のロンドン空襲に対する報復として、ベルリンを空爆したようです」
「おそらくドイツも反撃に出るでしょう。来月には双方の爆撃機がお互いの首都を叩き合うことになるかもしれませんな」
と言ったのは井上成美海軍中将。そして彼が言ったことはある程度正しかった。しかしここではそんなことは関係無い。
「我が国も『防空』について真剣に考える必要が出てきたということです」
民間の技術者がわざわざ呼ばれてきた理由はここにあった。日本で初めて人が空を飛んでからというもの、陸海軍とも『迎撃機』なるものを研究したことは一度もなかった。
帝国海軍が防御的な艦隊を編成し、帝国陸軍が持てる工兵を総動員して南洋諸島を要塞化するなか、生産される航空機に限って妙に攻撃的であった。
そして関係が悪化しつつある日米関係……後述……からもし戦争となって、一番先に爆撃機がやって来るのは台湾や南洋諸島だ。
だがそのうち東京にやって来ないとも限らない。台湾や南洋諸島も守らなければならない。
そんなわけで、『防空戦研究会』なる会議は始まった。
ちなみにこの会議は『陸海軍共同航空本部』という、文字通り日本の航空軍政をつかさどる組織の下部組織というかたちをとっていた。
しかし半ば名ばかりの組織でもあった。
まだ防空戦略を考えるには材料が足らず、防空体制の確立も信頼のおける対空電探が実用化されていないから無理だ。
従って、やることといえば『航空本部』ではやはり提案されない……史実のように中国爆撃機に悩まされていないため……『迎撃戦闘機』について議論することぐらいであった。
「今のところ、我が国が保有する戦闘機のなかで『迎撃戦闘機』と呼べるのは、海軍では零戦三一型、陸軍では一〇〇式戦つまり隼二型です」
「しかしどちらとも完全なものではありません」
「左様、米軍のB17という最新型の重爆は相当にかたく防御火力も強力だそうですから」
「一二,七ミリ四挺では無理、ということですか」
「やはり二十ミリですね」
「ですが零戦に二〇ミリは載せられません。出来ても元々が一二,七ミリ用ですから携行弾数はごく少量になります」
と言ったのは零戦の開発者である三菱の堀越二郎技師。
「それに私が言うのもなんですが、零戦が四発の爆撃機が飛ぶような高高度で活躍することは不可能です」
「そもそも迎撃戦闘機と零戦のような制空戦闘機では性格が違いますから」
と言ったのは川西の菊原静男技師。
迎撃戦闘機は制空戦闘機に比べて航続距離は短くても良いが、武装に高高度性能、上昇能力等はより高いものを求められる。
「するとやはり新規に開発する必要がありますな」
「あと夜間に襲来する爆撃機にも対処出来なければなりません。しかしそのためには機載電探の開発が急務です。何せ見えませんから」
「それは夜間戦闘機としてさらに別に開発しなければならないでしょうね」
そんなこんなで第一回の会議はお開きになった。
しかしなぜかこの会議の権限は大きく、このあと行われた航空本部での新規開発の会議で、いきなり試作命令がでることになる。
さて再び英国はロンドン。
首相のチャーチルとしては、たとえロンドンがドイツ空軍の空襲によってボロボロにされても良いと思っていた。
なぜならその隙にすでにボロボロにされた沿岸部の施設や、戦闘機部隊の再編が出来るからだ。
しかしこの世界のドイツ空軍はしたたかだった。
一回だけ、報復の報復として第二、三航空艦隊の総力をあげてロンドンを猛爆したのだが、それで満足したのか再び軍事拠点に対する爆撃に切り替えてしまった。
チャーチルの物騒な目論見もついえてしまったといえた。
そしてさらにイギリスにとって悪いことが起きた。
フォッケウルフFw190ヴェルガーが早々と戦場の空に現れたのである。
「やれやれ、まったくどうしたものか」
ワシントンはホワイトハウスの住人で車椅子に乗った初老の男、つまりフランクリン・ルーズベルト米大統領はぼやくように言った。
「イギリスのことですか?」
側近のハリー・ホプキンスが応じる。
「そうだ、このままでは本当にまずい。あのヒトラーのことだ、上陸作戦もやりかねん」
「確かに……」
「しかし私は自分で自分を縛ってしまった。表だって助けるわけにはいかん」
ルーズベルトはそう言って肩をすくめた。
「はは、あの公約のことですか」
ホプキンスも苦笑いを浮かべて応じる。
「うむ、大統領になるためとはいえ決して戦争はしない、などと言うべきではなかった」
「しかし言ってしまったのですから仕方ありません」
それから先、二人の会話は国内問題に変わった。レンドリース法も何もないこの時点では、欧州に対して何もすることがないのである。
「で、どうなのだ被害の状況は?」
と、側近に向かってチャーチルはぶっきらぼうに尋ねた。
「はぁ、文字通りだいぶやられました。ご覧のとおりロンドンはもはやロンドンではありません」
「だが戦略的にはいくらロンドンがやられようとも問題はない。市民は皆地下鉄なりに避難しているのだからな。問題は我が軍の防衛設備だ」
「その防衛設備ですが、沿岸部の第一線及び第二線はあちらこちらに穴が出来ています。至急復旧するとともに第三線以降も整備しなければなりません」
陸軍の担当官が言いにくそうに報告すると、続けて海軍の担当官がおずおずと口を開く。
「さらに悪い知らせです首相。英仏海峡に大量の航空機雷がばらまかれたらしく、船舶の通行が不可能となりました。掃海作業にもかなりの時間をようするでしょう……」
「いいか、何があろうともナチスの連中を我が本土に踏みいらせてはならん。……英仏海峡に我が海軍が入ればそれが出来るだろう。何としても、一秒でも早く掃海作業を完了させろ」
チャーチルは語気を荒くして言った。しかし担当官達の表情は冴えない。
「はぁ、そうは申されましても毎日のようにあちらこちらにばらまかれていまして、本国艦隊所属の艦艇だけでは追いつかないのです。それにご存知のように、掃海作業というのは一朝一夕に出来るものではありませんから」
「ナチスはついこのあいだ、一隻だけだが優秀な戦艦を手に入れた。もし本気で我が本土に上陸しようすれば……案外安々と上陸されるかもしれんな」
チャーチルはあえて弱気な口調でそう言った。今最も重要なことは、この側近達の弱気をどうにかすることである。
とは言え、確かにFw190の戦線投入により、この時点では英国本土、特に南部の制空権はドイツ空軍のものになりつつあった。
「首相閣下! 何を弱気なことを!」
「いや、冗談だよ」
側近の表情の素早い変化にチャーチルは笑みを浮かべて先の発言を取り消した。
「……アメリカの支援はやはり期待出来ませんか」
「何しろルーズベルトは支援しないと公約してしまっているからな。まぁUボートがへまをやって、アメリカの船を攻撃でもすれば話は別だが」
「やはり空軍だけでなく海軍も引き抜きが必要なのでは? 幸いにもインド洋方面のドイツ海軍は駆逐出来ましたから」
「しかし警戒が薄くなったところにまたUボートが出てくればえらいことになるぞ」
「……そこはやはり日本海軍に頼むしかないでしょう」
「ああ、やっぱりそうなるのか……」
さて、ドイツ空軍がこんなにも早く、本来はバックアップ戦闘機として開発したはずのFw190を大々的に投入したのかというと、ヘルマン・ゲーリング航空大臣がこの半年前に倒れてしまっているからだ。
このモルヒネ中毒の急降下爆撃大好き人間が表舞台から消えたことは、ヨーロッパの空に大きな影響を与えずにはおかなかった。
彼の後を継いだウーデット空軍大将は、急降下爆撃を過信したゲーリングにより開発されることのなかった雷撃機を開発し、海軍航空隊の設立にも尽力した。これにより空母の建造が可能になったほか、Uボートの補助に哨戒機を飛ばせるようにもなった。
そして彼の数ある業績の中でも特筆されることは、フォッケウルフ社とハインケル社に対する待遇の改善である。
これまで政治的な理由から、ドイツ空軍はメッサーシュミット社を優遇していたが、Bf109シリーズの限界や欠点にいち早く気づいたガーランド少佐やメルダース大尉といったエースパイロットの意見により、彼はFw190シリーズの大増産を決意し、ハインケル社にも夜間戦闘機や戦略爆撃機の開発を命じている。
ただ彼も完璧ではなく、その証拠に英仏連合軍によるダンゲルク撤退作戦に対して妨害活動をする際、主力の爆撃機部隊を出撃させなかった。
しかしなんだかんだ言って、バトル・オブ・ブリテンを有利に進めているだけあって、彼に対する評価はそれなりに高いものとなっていた。
一九四〇年九月三日、東京。
「総理、英国のチャーチル首相より電報です」
「……前にも似たようなことがあったな」
「何かおっしゃいました?」
「いやなんでもない」
そう言うと中村総理は電文に目を落とした。
「やれやれ、内容まで似ている」
「なんですかな?」
たまたま首相執務室を訪れていた米内光政海軍大臣がそう言うと、中村は苦笑いを浮かべながら電文を手渡した。
「……ほう、ほう、東南アジアからインド洋、果てには地中海まで警備艦艇の派遣を求める……相当焦っていると見えますなすなイギリスは」
「えぇ、ナチスドイツの英国上陸作戦を何が何でも阻止したいのでしょう。そのために艦艇の引き抜きをして……」
「その穴埋めを我が海軍に、というわけですか」
「まぁ、そんなところでしょう。……お願い出来ますか?」
「無論やりますよ。ちょうど、新型駆逐艦が竣工し始めてしますから艦艇数にはある程度余裕があります」
「最新型の陽炎型ですか」
「えぇ、まだ完璧とはいえませんが、とりあえず音波探信儀を載せてますから、Uボート狩りにはもってこいですな」
「ではそういうことでよろしくお願いします」
二週間後。
例によって吉田浜飛行場。
「新しい戦法はどうだ?」
「中々ですね。あまり技量を要求されないわりには、対戦闘機戦法としてけっこう使えそうですね」
「そうかそうか。それで…」
「大変です隊長!」
「……何だ福山か。どうしたんだ、そんなに慌てて」
「どうしたもこうしたもありませんよ! ドイツが動いたようです。たった今ラジオで……」
「なんだって……」
まさにその頃ヨーロッパでは、ドイツ陸軍将兵を満載した揚陸艦が、ルフトヴァッフェの傘のもと一斉に英仏海峡を渡っていた。
ナチスドイツによる英国本土上陸作戦、いわゆる『アシカ(海獅子)作戦』である。