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異説 太平洋戦記  作者: 水谷祐介
第三章 欧州大戦、再び
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一二 帝国海軍・一九四〇

 ここで少し話をそらして、この世界における大日本帝国海軍の艦艇の要目等をみていこう。


 まずは戦艦である。

 帝国海軍以外の海軍はいまだに“大艦巨砲主義”で動いているため、微妙に“航空主兵論”に傾いている帝国海軍の戦艦は数的には少ない。しかしそれでも性能的には、なかなかのものを持っているといえるだろう。


 まずは最古参の天城型戦艦。

 一番艦「天城」は一九一三年に英国に発注された超弩級巡洋戦艦で、その後日本で建造された「日高」「阿蘇」「丹沢」は、主砲に三六センチ連装砲を四基八門積み、竣工当時は世界最強の巡洋戦艦として名をはせた。

 その後、防御力の強化や対空兵装の充実がはかられ、必然的に重くなり速力が低下し艦種は戦艦に変更された。

 ロンドン海軍軍縮条約以降のいわゆる海軍休日の間も度々小改造が行われ、カタパルトの設置や不燃塗料の使用等も天城型が最初であった。

 さらに日本で初めて副砲を全て取っ払い、代わりに多量の高角砲や機銃……後述……を取り付けた艦でもある。

 また三年前の大改装のときに最大出力一八万馬力の新型機関を搭載したため、最大三三ノットの速力を発揮し、まだ試験段階の電探を設置している。


 次に信濃型戦艦。

 前述したように主砲は五〇口径四一センチ三連装砲を四基であり、世界的に見ても有数の攻撃力を持っている。

 天城型と同じように対空火器がところ狭しと置いてあり、開発中の……完成する見込みもないが……近接信管装備の砲弾を使わなくても、かなり濃密な対空弾幕を張れると期待されている。

 しかし機関部や主砲塔といったいわゆる主要防御区画には、四六センチ砲弾の直撃にも何とか耐えられるという分厚い装甲板……舷側最大三九〇ミリ、甲板最大一九〇ミリ、主砲防盾五六〇ミリ……を張ったため、基準排水量は五万六〇〇〇トンにもなり、一八万馬力の新型機関に換装しても、速力は二九ノットが限界になっている。


 その次に建造された戦艦は、それほど好景気というわけでもないが、かといって“昭和不況”でもないこの世界の日本において、多少無理して獲得した予算で建造された伊勢型高速戦艦である。

 「伊勢」「日向」は一見すると、というより設計思想からして天城型の拡大版であり、主砲に五〇口径四一センチ連装砲を四基搭載し、この世界の日本戦艦らしく対空兵装が針ネズミのように設置されている。

 また急速注排水装置とバルバス・バウを帝国海軍で初めて採用した艦でもある。


 ところで帝国海軍の艦艇に搭載されている対空火器は、九六式五〇口径一二,七センチ高角砲と九八式六五口径三〇ミリ機銃に順次取り替えられている。

 九六式は先に開発された八九式の改良型で、一隻の艦艇になるべく多数を載せられるように軽量化が図られると共に、長砲身化による射程の増大や旋回速度といった性能もそれなりに向上しており、操作に必要な人員も八九式の一一人から七人へと四人減っている。

 九八式はフランスのホチキス社から輸入した九六式二五ミリ機銃をもとに、陸軍と共同開発した対空機関銃で、給弾方式にベルト式を採用している。

 ちなみに高角砲の使用弾は前に登場した“呉の技官の自慢の品”である“九九式対空炸裂弾”の一二,七センチ砲用のものだ。


 さて、伊勢型以来改装されても新造されることのない戦艦の代わりに、ロンドン海軍軍縮条約の主力艦保有枠をうめていったのは航空母艦であった。


 “八八艦隊計画”の白紙撤回化の後、一から練り直された建艦計画の目玉の一つとして建造されたのが、商船を改造した「鳳翔」と帝国海軍初の正規空母、翔鶴型航空母艦である。

 基準排水量は両者とも一万トンに満たず、搭載機数も二〇機程しかない小型空母だが、翔鶴型一番艦「翔鶴」は世界初の正規空母の称号を得ている。ちなみに二番艦は「瑞鶴」である。


 一九二三年九月一日に起きた関東大震災の影響で横須賀鎮守府の工廠が使えないなか、帝都復興予算の捻出のために大きく削られた海軍予算を何とかやりくりし、呉工廠で律儀に三隻の空母が建造されていた。

 松島型航空母艦がそれで一九二六年に三隻まとめて竣工した。

 いわゆる三景艦……「松島」「橋立」「厳島」……の名前を受け継いだ三艦はいろいろな意味で、後の帝国海軍の空母建造に貢献している。

 例えば、日本空母の共通点である“右舷に艦橋と煙突を一体化させた構造物を設置したアイランド型”は「橋立」でまず採用され、一九三二年に起きた「厳島」の弾薬庫爆発事故は、弾薬庫や燃料タンク回りの防御力を高め、格納庫を一部開放式に改めるきっかけになった。

 基準排水量は一万八五〇〇トン、最高速度は三三ノット、搭載機数は六〇機から七〇機である。


 伊勢型戦艦と共に“昭和元年海軍増強計画”の中心的な存在となったのが、翔鶴型と松島型の運用実績をもとに設計された、飛龍型航空母艦である。

 改装の結果、排水量は二万四〇〇〇トンとなったが、三四ノットの高速を発揮し搭載機数は予備を含めて八〇機から九〇機という、帝国海軍は初の大型正規空母だ。

 同型艦は「飛龍」と「翔龍」。


 さらに空母を、という声もあったが、世界中を襲った大恐慌の発生で国家予算は減額を余儀なくされ、海軍予算もつられて減ったためいったん取り止めとなる。

 そして経済の復調と共に増額された海軍予算を使い、一九三六年になってようやく建造されたのは、大方の予想に反して中型の大鷹型航空母艦であった。

 基準排水量一万九〇〇〇トン……改装工事を受けているため二万トンを超える予定……の艦に七〇機から七五機を載せ三三ノットを出す、松島型の改良型である。

 ところで規模的には微妙なこの大鷹型空母が建造された理由の一つとしては、大日本帝国という国家の工業力の問題があるといわれている。

 もし仮想敵国第一位のアメリカと戦争になれば、先方は大型正規空母をそれこそポンポンと戦場に送り出してくるだろうが、日本にそんな能力は無く、せいぜい中型正規空母をそれもチマチマとしか造れないだろうから、その中型正規空母のデータをとりたかったのだ、ということにされている。

 同型艦は「大鷹」「沖鷹」「雲鷹」。


 その平和な時にしか造れない待望の大型正規空母は、一九三八年に飛鷹型航空母艦として誕生した。

 基準排水量二万八〇〇〇トンの艦体に九〇機から最大一〇〇機程度の艦上機をのせ、最高三四ノットの高速を発揮する。

 防御力、居住性とも日本空母史上最高のものを持っているといわれ、従来よりも広い飛行甲板は規模の大きくなった母艦航空隊の運用にも十分差し支えないとされている。


 以上が帝国海軍の保有する航空母艦であるが、この他にも空母化改造を前提に建造された水上機母艦や潜水母艦、補助金を出した優速大型の貨客船など、数だけなら相当なものである。

 しかし海軍はその他沢山の補助艦艇があって始めて成立する。


 第一次世界大戦後、帝国海軍が巡洋艦に求めた性能及び役割は、大きく分けると主に三つあった。

 一つ目は駆逐艦等の小艦艇を率いての敵艦隊への突撃、すなわち水雷戦隊旗艦としての役割。

 二つ目は戦艦や航空母艦と共に行動し、その護衛や補助としての役割。

 三つ目は新しく日本の統治下に入った南洋諸島などの、植民地での警備行動及び現地の小艦隊の旗艦としての役割、という具合である。

 ところで史実のように合衆国海軍が建造した艦艇に対抗するかのような建艦政策はこの世界では行われていない。

 争ったところで負けるに決まっているのだから、独自の艦隊を造ろう、というある程度割り切った考え方をこの世界の帝国海軍はしているのだ。


 そんなわけで一九二一年に完成したのが長良型軽巡洋艦である。

 基準排水量五四〇〇トン、最高三七ノットを出し一四センチ単装砲を七門、六一センチ魚雷発射管を連装で四基積んだ長良型は、当時の帝国海軍が持てる技術を最大限に発揮し、水雷戦隊旗艦としては非常に優秀だったが、居住性が悪く防御力も弱い、凌波性に欠ける等の欠点も数多く存在し、水雷戦隊旗艦以外としては高速輸送艦としか使えない中途半端な艦になってしまった。

 それでも設計に余裕を持たせたおかげで、旧式となった今でも改装工事を実施することにより現役である。

 同型艦は「長良」「五十鈴」「名取」「由良」「鬼怒」「四万十」の六隻。


 いくら中途半端とはいえ、それなりに使える高速巡洋艦を手に入れた帝国海軍が次に造ったのは、八八艦隊計画艦の名前を引き継ぎ一九二五年に竣工した金剛型重巡洋艦である。

 基準排水量が一万一〇〇〇トンで速力は三二ノット、二〇センチ連装砲を四基積んだ金剛型は、“三つ目”のタイプとして活動するために司令部として大きめの艦橋を持ち、強力な通信設備を載せていた。

 しかし悲しいかな、金剛型もまた中途半端だった。

 小艦隊の旗艦及び外国への親善航海、果てには練習巡洋艦としても活躍したが、そのわりに対艦攻撃力が突出していたのだ。

 いざ戦争になっても、基本的に前線で暴れるというよりは後方で支援任務に付くことになろう金剛型に二〇センチ砲は大きすぎる。

 そのような判断が艦政本部内で行われ、二度の改装工事を受けた結果、一五,五センチ三連装砲四基、六一センチ三連装魚雷発射管四基、一二,七センチ連装高角砲五基、水上機二機搭載というバランスのとれた艦に生まれかわった。そして当然のことだが艦種は軽巡洋艦に変更されている。

 同型艦は「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」。


 さてその次に建造されたのは古鷹型重巡洋艦……前にちらっと登場した艦で、満州事変のゴタゴタをうやむやにするために早々とその存在を公表された……である。

 古鷹型が竣工し始めた一九二七年は伊勢型戦艦と飛龍型航空母艦が竣工した年でもあり、この頃から帝国海軍は“空母機動部隊”というものを現実化しようとしていた。

 その護衛役として対艦、対空能力に優れた艦艇が必要となったわけだ。

 近代化改装を施し、基準排水量は一万一五〇〇トン、最高三四ノットの速力を誇り二〇,三センチ連装砲を四基、六一センチ三連装魚雷発射管を四基、一二,七センチ連装高角砲を六基、水上機を三機搭載している。

 同型艦は「古鷹」「高雄」「愛宕」「蓼科」「衣笠」「鞍馬」の六隻。


 ロンドンで開催された軍縮会議の後、一九三五年から帝国海軍が建造したのが鳥海型重巡洋艦だ。

 古鷹型の拡大改良版であり、基準排水量一万三五〇〇トンの艦体に二〇,三センチ連装砲を五基、六一センチ三連装魚雷発射管を四基、一二,七センチ連装高角砲を六基、水上機を三機積んで、最高三三ノットの速力を発揮し重巡としては世界トップレベルの攻撃力と防御力を備えているとされている。

 同型艦は「鳥海」「妙高」「摩耶」「羽黒」「足柄」「那智」の六隻。


 鳥海型を建造した後、帝国海軍は重巡洋艦ばかり造る代わりに整備が著しく遅れていた軽巡洋艦の建造を慌てて再開した。

 ちなみにこの時帝国海軍は世界にむけてとんでもない嘘をついている。

 金剛型、古鷹型、鳥海型と条約違反の一万トン超えの巡洋艦を何と一六隻も持っているのである。


 それはさておき、まず最初に造られたのが利根型軽巡洋艦。

 基準排水量七七〇〇トン、最大速力三五ノットで、長良型の発展型といえるが、問題の居住性と防御力、凌波性は年月が経過し帝国海軍の技術力が大幅に上がっていたため、だいぶ改善されている。

 一五,五センチ連装砲四基、六一センチ四連装発射管二基、一二,七センチ連装高角砲を四基、水上機を二機搭載し、あらゆる任務に耐えられる汎用巡洋艦として活躍が期待されている。

 同型艦は「利根」「筑摩」「最上」「川内」「神通」「那珂」の六隻。


 利根型の次に金剛型の発展改良型の“司令部巡洋艦”として建造されたのが次の熊野型軽巡洋艦だ。

 一五,五センチ三連装砲を二基、一二,七センチ連装高角砲を六基、水上機を六機搭載した熊野型は通信、偵察、旗艦任務といったものを主任務とするために、攻撃力には欠けるが防御力や通信能力、偵察能力等は相当優秀なものである。

 基準排水量八四〇〇トンで最大速力は三〇ノットとなっている。

 同型艦は「熊野」「仁淀」「矢矧」「酒匂」の四隻。


 一九三九年になり、残りの保有枠をうめるべく、また空母の直衛艦として隅田型軽巡洋艦が建造された。

 特筆すべきことは“防空巡洋艦”として設計及び建造されたことで、基準排水量六三〇〇トンで七基の一二,七センチ連装高角砲を装備している。

 “巡洋艦”というわりには対艦攻撃能力はたいしたことはないが、針山のような高角砲と対空機銃を駆使しての対空戦闘が楽しみな艦である。最高速度は三三ノット。

 同型艦は「隅田」「多摩」「養老」「渡良瀬」の四隻。


 帝国海軍の駆逐艦の再古参は、小型の二等駆逐艦を除けば今のところ、大戦中から大戦後にかけて造られた峯風型駆逐艦である。

 その後、神風型という似たようなものが建造された。

 これらの合わせて二四隻の駆逐艦は、“八八艦隊計画”に基づいたもので、計画がなくなるとその立場が微妙になった。

 攻撃力、運動性、凌波性等は素晴らしいが、しかし明らかに機動部隊向きではない。

 全艦現役で、一応水雷戦隊を組んでいたりするが、水雷兵装を取っ払った“護衛艦”への転換が検討されている。


 次に建造されたのが睦月型駆逐艦と、その改良型で居住性と復元性を高めた吹雪型駆逐艦だ。

 一六〇〇トンの艦体に一二,七センチ単装砲を五基、次発装填機能付の六一センチ四連装魚雷発射管を二基載せ、三七ノットの速力を発揮するなど、帝国海軍の漸減作戦計画を実行するにあたり実に優秀な駆逐艦とされた。

 建造数は睦月型が一二隻、吹雪型も一二隻。


 さらに次、例の“昭和元年……”で建造されたのが初春型駆逐艦六隻だ。

 機動部隊直衛用に設計され、基準排水量一七五〇トンで速力は三二ノットと駆逐艦にしてはたいしたことないが、航続距離は一八ノットで六〇〇〇海里と当時の駆逐艦にしては異様に長い。

 基本的に吹雪型を基にしており、武装は一二,七センチ単装砲をそのまま単装高角砲に置き換え、魚雷発射管を五連装にする代わりに一基に減らし対潜能力を高めている。

 見たところ優秀な艦だが、帝国海軍が始めて造った空母直衞艦であるため、色々と不具合が多かった。


 その後恐慌や軍縮があり、いったんストップした駆逐艦建造が再開したのは一九三四年のことだ。

 改初春型の白露型駆逐艦……一〇隻建造……は排水量を条約一杯の一八五〇トンに引き上げ、速力三四ノットと増速した以外はこれといった変化はない……と思われていたが実際は大きく違っていた。

 それは機関配置を“シフトエンジン方式”に改めたことだ。

 これは二つある機関を今までは縦に並べていたのを、ずらして配置することにより、片方が浸水でやられても……並んでいると両方お陀仏……もう片方には被害が及ばないというものだ。

 建造に手間がかかるが生存性のことを考えれば明らかにこちらのほうがよい。


 ところで帝国海軍は軍縮条約が切れる一九四一年までは魚雷を主武装とした駆逐艦は建造しないつもりだった。

 希望の性能をもたすにはどう考えても二〇〇〇トン以上の排水量を要する。

 一万三五〇〇トンの鳥海型重巡洋艦を一万トンと言い張っている帝国海軍としては、これ以上嘘を並べるのは……バレたら大変だし……得策ではないと考えたのだ。

 しかしまだ保有枠は……峯風型以前の旧型を除けば……五万トンの余裕がある。

 

 そこでまず改白露型の朝潮型駆逐艦を一〇隻建造した。

 しかし、“改”と言いつつほとんど変わっていないように見えた。

 事実そうで、変わったのは艦内と艦底で、居住性の向上と新型の九五式聴音機を積んでいる。もっとも新型とはいえ性能はまだ満足のいくものではなく、現在さらに新型の聴音機とソナーを開発中である。


 さて、このあたりで艦政本部の技官達は本気で悩やみ始めていた。

 朝潮型以上の性能を、次期空母直衞駆逐艦に求めるとなるとどうしても二〇〇〇トン以上は必要なのだ。とは言え、旧式駆逐艦を艦種変更していくと帝国海軍に与えられた駆逐艦保有枠にはまだ三万トンの余裕があった。

 ここで日本人特有の“もったいない根性”が現れる。

 軍縮条約に定められた“保有枠”は「それだけ持って良いよ」であるにも関わらず、帝国海軍はどういうわけか「持たなければならない」と勘違いしているため、どうにかしてうめようと考えるのだ。

 そこで考えだされたのが、護衛駆逐艦だ。帝国海軍の基準だと、ただの護衛艦は魚雷を積んでいないことを条件とするため、一応駆逐艦なのだ。

 帝国海軍の基本戦略は侵攻してくる敵を防ぐ、という防御的なものだ。

 その一方、限られた国力の中で、世界第三位と呼ばれる大海軍を保有するために、後方支援にあたる艦艇の整備はなおざりにされてきた。

 「いまこそ整備すべきときではないか!」という具合である。

 第一〇一号型駆逐艦は、基準排水量一二五〇トンで速力は二八ノット、一二,七センチ単装高角砲三基に六一センチ四連装魚雷発射管を一基備え、対空機銃、爆雷共に排水量の割に多く積んでいる。

 小型かつ安価の割りに優秀な性能を発揮したためか、同型艦はなんと二四隻も造られた。


 “駆逐艦”が誕生したころの敵は高速で肉薄して戦艦を狙う“水雷艇”だったが、今や海中に潜んで誰ともなしに魚雷を放つ“潜水艦”である。

 帝国海軍の潜水艦の歴史は、日露戦争の頃にアメリカから輸入した“ホランド型”に始まる。

 しかし当時はまだ装甲巡洋艦でさえ、国産出来るかどうか分からないというレベルの帝国海軍の技術力では、実用化など夢のまた夢で、事故ばかりおこす潜水艦の開発は停滞していた。

 しかし第一次世界大戦が終了し、超弩級戦艦や航空母艦を自前で揃えられるようにまで成長した帝国海軍は、再び潜水艦の開発を始めることとなる。

 

 まず大型の伊号潜水艦。

 太平洋を挟んだ遥か彼方の仮想敵国アメリカの動向を探ったり、必要に応じて攻撃もかけられるだけの偵察能力、通信能力、居住性、航続性を備えた二〇〇〇トンクラスの大型潜水艦だ。

 最新型の伊号第九号型潜水艦のように、一部水上偵察機を搭載しカタパルトを持った艦も存在するが、大半はそのような無理をせず量産性を意識した設計になっている。

 主力として配備されている伊号第三〇号型潜水艦は、水上基準排水量二二〇〇トンで水上最高速力二二ノット。一二,七センチ単装高角砲を一基、魚雷発射管を六門に五三センチ魚雷を二〇本積んでいる。


 そして中型の呂号潜水艦。

 与えられた主任務は哨戒、局地防衛、通商破壊、隠密輸送など多岐にわたっている。

 そのため居住性はもちろんのこと、特に水中航洋能力が優れている。

 同じく主力として配備が進められている呂号第二〇号型潜水艦は戦時急造を前提にした設計で、水上基準排水量一一五〇トンで水上最高速力一八ノット。一〇センチ単装高角砲を一基、魚雷発射管を四門に五三センチ魚雷を一二本積んでいる。



 一九四〇年五月七日。愛媛県松山市の帝国海軍吉田浜飛行場。

 史実ではまだ建設さえされていないこの飛行場では、この飛行場を原隊とする第三四三海軍航空隊が訓練に励んでいた。

 滑走路脇の管制塔には、海軍大尉に昇進した上に肩書きも変わった、長峰義郎第二戦闘隊隊長が双眼鏡で空を眺めるの姿があった。

 その視線の先には、一六機の“零式艦上戦闘機三一型”が飛んでいる。

 彼らが中国戦線で使ったのが“一一型”で、どうしても生じる不具合を調整した母艦搭載用の二一型が造られ、陸上基地用に改良されたのが三一型である。

 名称こそ“艦上戦闘機”だが、着艦フックや主翼折りたたみ機構、無線帰投方位測定器等がついていない。代わりに機体強度が若干向上している。……どちらかと言うと零戦の帝国陸軍版である一〇〇式戦闘機“隼”の“逆輸入版”というような機体だ。

 随分と登場が早いようだが、そのかわり塗装などはほとんどされていない。日の丸がなければ、ただの怪しいジュラルミンの塊だ。


 「やぁご苦労さん」

 銀色に輝く零戦から飛び降りてきた大原義時海軍中尉に、管制塔から降りてきていた長峰が声をかけた。

 「あぁ長峰隊長。わざわざありがとうございます」

 「どうだった? 改良機の調子は?」

 「まずまずですね。無線機が新型にかわっていてその性能はなかなかでしたけど、いくら改良型とはいえその初期型ですから」

 「無理矢理一個中隊分揃えたみたいだしな。とりあえずこいつらは返品しよう」

 「それがいいですよ。ちゃんとした報告書をそえてね」

 海軍航空本部が出来立てホヤホヤの三一型を松山に送った理由は、一一型の装備部隊であることと、実戦部隊のパイロットの意見が欲しかったからだ。

 きちんとした三一型は二ヶ月後に再びやって来ることになっている。



 その二日後、イギリスはロンドン、ダウニング街一〇番地。

 「ナカムラに電報を送れ。大至急だ」

 大英帝国首相、ウィンストン・チャーチルはお気に入りの葉巻をくわえながら、そう言った。


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