第二百二十七話 カニニニ!!×3
モスキートの爆生とは……
―前回より―
「手を下すまでもない、か?」
「……前言撤回。やっぱ殺すわ」
デッドはすかさず右手のフォーゴを振り上げ、巨大な炎の波を発生させ素子にけしかける。
「ふン、その程度か。貴様如き腐れ童貞の策で私を仕留められる筈もなァい」
得意げな素子は、蚊とは思えない程の機動力で火炎の波を華麗に回避し続ける。
対するデッドはフォーゴを指揮棒に見立てて火炎の波を自在に操ってみせるが、生来の性格から何事も力押し一辺倒になりがちな彼のこと。よく見ればその動作は隙だらけであり、素子は余計調子に乗るばかりであった。
「事実は兎も角何で俺をそうまで童貞と言い切れるんだよお前は」
「ッハ、愚問だな。幾ら文明が発達しようと、ヒトの目的は繁殖だ。ならば個人の能力や品格もまた、繁殖能力によって決定するのは世の理。より早い段階で性的な技術や経験を積むことができる者こそ秀でているのなら、逆もまた然り。即ちお前のように無能な男は皆童貞で間違いない」
「へぇ、そうかよ(……突っ込むのもめんどくせえ)」
「童貞が許されるのは12までだ。20を過ぎて異性を知らん奴に生きている価値はない。女もまた然り」
「へぇ、そうかよ(……こんなひでえ馬鹿は初めてだ)」
余りにも極端な素子の思想に呆れ返ったデッドはフォーゴを下ろし火炎を引っ込め、続いてジェロを振り上げた。炎を操るフォーゴと対を成す此方は液体窒素に似た超低温の液体と冷凍ガスを噴射する力を持っており、命中精度や持続性こそフォーゴに劣るが、こと有機生命体相手の性能では此方に軍配が上がる。
デッドは可能な限り狙いを定め、冷凍ガスと低温液でホバリングのまま高速移動する素子を仕留めにかかる。
「(幾ら殻が分厚かろうが、虫である以上寒さにゃ弱ぇ筈だ!砂漠や火山の近くは兎も角、氷河や北極にゃ虫は住めねぇからな!)」
等と自信満々に思うデッドであったが『昆虫は寒さに弱い』という一般常識を覆すような生物というのは案外存在するものである。
まずカワゲラ目。トンボのようなライフサイクルと渓流魚の主食として知られるこのグループには、例外的に寒さに強い種が存在する。本州に棲息するセッケイカワゲラ(ユキクロカワゲラ)は2月から3月頃に積雪上や雪渓の上を歩く姿が見られたことからこの名がついた。カワゲラの特徴である翅は身体の表面積を小さくするためか退化しており(地域によっては痕跡の見られる個体も見付かる)、雪上を歩く様子が啓蟄をから俳句に於ける春の季語『雪虫』の由来にもなっている(高山部に棲息するものは『雪渓虫』と呼ばれ、夏の季語として扱われる)。
次にトビムシ目。初めて陸を歩いた動物の一つとされるこのグループは厳密に言うと昆虫ではなく、昆虫に極めて近縁な内顎綱を構成する3目の一つである。乾燥さえ防げればあとは何処でも構わないとばかりに湿地から地中、田畑、海岸、洞穴などに棲息する(そればかりか蟻の巣や白蟻の頭上に住まう種も確認されており、後者に至っては白蟻の餌を横取りするという)。そんなトビムシの中には、尻先のバネで氷雪上を跳ね回る種も確認されており、日本に留まらずアラスカ、パタゴニア、ヒマラヤ等世界各地の氷河や積雪上で確認されている。
続いて紹介するのは、作者がほぼ唯一全く擁護しきれない昆虫であるノミ目と並んで夏の季語にもなっているシラミ目。外部寄生生物の代名詞として『とりあえず外部寄生する虫はだいたいシラミ』という事で様々な動物がその名を冠する事でも有名かと思う(カメムシ目のトコジラミや甲殻類のウオジラミなどが有名か)。『宿主と共に進化した』ともされるシラミは、一つの属がそれぞれ哺乳類の特定の科またはそれに近縁の科と寄生関係を持つことで知られており、(ホモ・サピエンスと殆どの偶蹄類及び一部齧歯類という例外はあれども)原則的に宿主一種につきシラミ一種が寄生するという一途なスタイルが特徴である(因みに単孔類、有袋類、翼手目、長鼻目、鯨偶蹄目にはそもそもシラミ目の生物が寄生しない)。 そんなシラミ目の中で寒さに耐えうるのは、北海の鰭脚類に寄生するアザラシジラミという種である。名前通りアザラシに寄生するこのシラミは、立場上常にアザラシの身体へくっついていなければならない―宿主が氷上で休んでいるときも、氷の海へ潜るときも。故にこの虫はその小さく平たい身体でアザラシの分厚く耐寒性に優れた毛皮の隙間に潜り込み、鋭い爪で皮膚にしがみつきながら生き血を啜るのである。少々変則的な方法ではあるが、並大抵の昆虫より寒さに強いことは間違いない。
驚くべき事に―これはデッドが不利な状況に陥る暗示なのかもしれないが―何と蚊の中にもカワゲラと同じようにして寒さに耐える種が存在する。ヒョウガユスリカと呼ばれるこの種は、名前の通り南米ネパールはヒマラヤの氷河で発見された昆虫であり、翅はなく氷河上を歩いて移動する。主食は勿論動物の体液――などではなく、雪中に発生する藻類などである(そもそもユスリカ自体吸血しないのだが)。
このように、寒さに耐える昆虫というものは存在する。しかしながらこれらの種が幾ら低温への耐性を身に付けようとも、有機生命体である以上マイナス250度を下回る低温の前には成す術もない。よって素子もジェロの切っ先から放たれる冷凍ガスや低温液を受ければ一たまりもない―――筈である。
「喰らえやッ!」
「っ、しまっ――」
冷凍ガスが翅を掠った事で動きが鈍った素子に、デッドの放った低温液が降り注ぐ。外骨格に覆われた身体は濃い湯気を立てながら瞬く間に凍り付いていく――その途中、破殻化の時と同じ音が鳴り響く。音を聞いたデッドはすぐにそれが爆生によるものだと理解したが、どうせ自棄を起こしての悪あがきだろうとさして気にも留めずに立ち去ろうとした――が、次の瞬間。
「待て小僧、何所へ行く?」
デッドの背後から、つい先ほど殺した筈の女の声がした。その声にふと立ち止まり振り返ったデッドが目にしたのは、微かにヒト型と認識できる赤い物体であった。
「……!?」
「フん、驚いて言葉も出んか。それはそうだろうな、あのような冷凍液を浴びて生きていられる生命体など、幾ら魔術の奇跡と学術の英知が支配するこの世であろうとも、そうそう存在するわけがない。だが"そうそう"は"絶対"ではないのだ。物事にはみな例外がある。虚数の偶数乗が負の数となるように、超低温に生身を晒されようとも生き残る生物は存在する……」
「ああ、それなら俺も知ってるぜ。だがなぜその力をお前が扱える?爆生は象徴の近縁種に姿を変える能力だろ。で、お前の持つ象徴は蚊だ。クマムシが昆虫じゃねえってことくらい、幾らバカの俺でも知ってんぞ」
「……滑稽だな、やはり童貞などその程度か」
「何?」
「わからんか、道化めが。お前、どこの世の中にこんな赤く細長いクマムシがいる?そもそも私はお前と戦う中で一言でもクマムシと言ったか?言っとらんだろうが、愚か者めが」
爆生により変異した素子は、赤い外骨格に覆われた触手で抜け落ちたまま放置されていた右手から流星刀を抜き取り握り締める。
「隠遁生命活動が緩歩動物だけの特権だと思うなよ……」
長ぇよう……次回、冒頭に解説入れます。