第百八十七話 誰の血も吸ってなるものか
璃桜、絶体絶命!
―第百七十九話より―
時空関系の魔術『ブランク・ディメンション』の貌(こんな書き出しで始まるのももう何度目だろうか)が一つ『REA-Q(Ruins enshrined into the abyss of Qinghai:青海の深淵に鎮座する廃墟 の略)』は、水棲種族など水と関わりの深い者の力を高める効果を持ち、全体的な風景もまた、深海底に鎮座する殺風景な海底遺跡のそれである。
そしてそんな場所での戦いは、当然の事ながらレノーギとデトラが璃桜を圧倒する形でのワンサイドゲームとなってしまっていた。
ただ一応言っておくと、璃桜はこの状況を打開するのに十分すぎるほどの解決策を持ち合わせてはいる。恐らく彼女の内部にて今にも暴れ回らんとして潜む夜魔幻の力に身を任せて暴れ回れば、レノーギやデトラ程の相手でも苦戦せずさくさくと抹殺―というより、捕食出来てしまう。
しかしそれは同時に、璃桜自身が最も恐れている事態でもあった。今まで散々自分を苦しめてきた夜魔幻の血を漸くこの身体から取り除ける可能性が出てきたというのに、ここでまた受け入れてしまえば今度こそ退路は断たれる。そうなれば後戻りなど当然出来はしない。
「(どんなに惨めでも無様でもいい。兎に角ヒトとして満足できる生涯を送れればそれで構わんのだ私は。例えあれを受け入れ手に入れた力で今までに失ったもの全てを取り戻せたとしても夜魔幻である以上血肉に対する欲求は抑えられない。どんなに平常を装えども何れ理性は崩壊し狂気と暴力に支配された精神は自我を破壊し無尽蔵の欲望を満たすため暴走を続ける。そんな有様では何を取り戻し何を得ようが結局は同じこと。あの頃の忌まわしき自分に逆戻りだ。老衰も苦痛もなくひたすら欲望の赴くまま快楽を求め続ける生活はある意味で言えば確かに楽なものだろう。だが私は誓ったのだ。この生涯はヒトとして終わらせると。如何なる変異も堕落も受け入れよう。今の私は無力な癖に誰かに頼らねば生きていけない最底辺の弱者だ。その立場から脱却しヒトとして独立できるというのなら何でも受け入れてやる)」
断続的な猛攻を無傷のままかいくぐった璃桜は、岩陰を伝って砂地に潜って隠れながら打開策について高速で思案していた。追い詰められたことで発揮された高速思考の速度は既にヒトを逸したレベルにまで達していた。例えるならば(本気の一歩か二歩手前ではあるが)桃李のそれに匹敵する。先程の長ったらしい文章を声に出して読んだとすれば、言い終わるのに20秒もかかりはしないだろう。
「(兎に角力だ。力が欲しい。夜魔幻に頼らずヒトとして生きられるなら何でも構わん、妥協する……何か無いのか……この場にっ……)」
砂中の璃桜が再び思考を巡らせようとした、その時。
「――!?」
彼女の巨体を覆い隠していた大量の砂が、爆発音と共に一瞬で吹き飛ばされた。
見上げればそこには、例の大砲を掲げたレノーギと、気味の悪い目玉模様と等間隔で生えた魚のヒレが特徴的な球体を傍らに浮かべたデトラであった。
「俺の鼻ァ回避しようと砂に潜ったのは褒めてやるがよ、しかし甘かったな。確かにそこの砂は臭気・電流・振動なんてのを一切遮断しちまう。海中稼働型召喚生物の感覚器官はサメやクジラみてぇなもんだっつーのを逆手に取って召還系魔術師共を袋叩きにしようと組み込んだもんだが……」
「どんなに上手く隠れたってね、こいつを誤魔化す事なんて出来はしないのよ」
そう言ってデトラは、自らの傍らに浮かぶ不気味な球体を手でくるくると回して見せた。
「『凝視卵塊』っていうの。全体の目玉模様を通じて標的をサーチするカメラみたいな奴なんだけどね、遠視も透視も当たり前。偶に見えない者が見えちゃったりとかする奴で……要するに、これが発動した限りもうあんたに隠れるっていう選択肢はないって事よ」
「やはり、戦わねばならんのか」
「そういうこった。まぁ心配すんな、例え負けてもそうそう死にゃしねぇよ多分」
「多分、なのか」
海底に立ち上がり無表情のまま淡々と話す璃桜だったが、それも所詮は見て呉れをそう装っているに過ぎず、内心では凄まじく焦っていた。
「(何なんだ何なんだ何なんだ一体奴のあれは何なんだ。砂の中に潜っても無駄だと一体どうすればいい。いやそもそも奴らから逃げ隠れたとしてもこの状況を打開する策がなければ結局は同じ。だがだからといって回避に集中していては作戦どころか思考さえままならぬ―――ッ!?)」
焦るように思考を展開する璃桜の脳内に、ふと何者かの声が響き渡った。
その声は冷ややかで恐ろしげながらどこか優しげで妖艶にも感じられる重厚な男の声であり、声色からして30代中盤は確実に過ぎているであろうか。
璃桜の内面に潜む『根源』を名乗る声の主は、焦る彼女を諭すように語りかけ、更に驚くべき事を提案する。その提案は璃桜にとって信じがたいものであったが、此方からの反応は一切届かないのか、声の主は一方的に喋り続ける。
声の主は最後に『私が提示したのは選択肢の一つ。そうしろと命じているわけではない』と告げ、完全に気配を消した。
同時にレノーギが大砲を放ち、無数の誘導弾が璃桜に襲い掛かる。
しかし彼女は―上辺だけのものでない、心からの落ち着きを以て―ただただ無表情のまま微動だにせず、宙を睨みつける。回避の気配さえない、所謂『捨て身の構え』という奴であろうか。
そしてレノーギの誘導弾は璃桜へ直撃し爆裂。砂地に大きなクレーターを残したものの、肝心の璃桜は姿を消しており、肉片どころか血の臭いさえも感じられないのである。25mプール一杯分の水で稀釈された酢酸一滴の臭気さえ嗅ぎ分けるほどの嗅覚を持つレノーギならば、璃桜が無傷であろうとも彼女の臭いを察知できてもおかしくはない。否、臭気の流出を完全に断とうとも神経細胞の放つ微弱な電流や気配を察知する事は十分可能な筈である。しかしながら、そのどれもがまるでないとはどういうことなのか。
「(クソッ、何処に消えた!?臭いも神経電流も気配もまるでねぇっ!仮にさっきので肉片になったんなら血の臭いがするはずだし、何でもかんでも覆い隠すよーな魔術が使えるんならもっと早くから使ってる筈だ!となりゃ奴は一体どこに……)」
混乱したレノーギは、思わず戦うことも忘れて頭を抱え込む。しかし、その瞬間。
「レノーギ、後ろっ!」
「何d―ッッ!?」
突如耳を劈く愛妻デトラの声。言われるまま慌てて振り向いたレノーギは、背後にいた何者かによって首を捕まれてしまう。その力は凄まじく、エナメル質の外皮や鍛え上げられた分厚い筋肉によって堅牢な守りを誇る彼の首をも締め上げるほどであった。
「……ッッが……てめ……」
レノーギは首を掴む骨張った―というか、色をのぞけば骨そのものであろう―深紅の右手をどうにか引き剥がそうとするが、その怪力は腕を動かすことさえ許しはしない。気付けば遠くに居たはずのデトラさえも、どういうわけか同じような腕数本によって手足を拘束されており、抵抗はおろか身動きさえ取れないでいる。
薄れ行く意識の中で、せめてその相手だけでも視認しようとしたレノーギの目に写り込んだ"何者か"の姿は、彼を絶句させるに充分なほど不気味なものであった。
次回、璃桜の身体に起こった変化とは!?