第百六十四話 起きたら、記憶の大半が何故か飛んでいるんだが
璃桜が目覚めると、そこは全く知らない場所で……
―前回より―
心の中に響いた優しい声に諭されるままに走り出した竜属種の女・建逆璃桜は、見知らぬ一室のベッドで目を覚ました。
「(……ここは、何処だ? 私は一体……)」
薄暗い部屋の中で、璃桜は自身の記憶に探りを入れていくが、大した情報は出てこなかった。
思い出せることと言えば、自分が誰であり、今までどんな出来事に遭遇したかという、基本的な事ばかり。自分の今居る状況を説明出来そうな類の記憶は、幾ら考えても一切思い出せないで居た。
唯一それらしいと定義できそうな記憶と言えば、未だ脳内に残り続ける、あの優しげな声だけだった。
天使か、或いは母性や生命を司る女神とも例えられる、耳にするだけで精神が浄化されるかのような、温かで清らかな若い女の声。それを思い返すたび、ふと璃桜の脳裏に存在するはずのない記憶が蘇る。
「(これは……何なんだ? 心地良い、誰かに抱き抱えられているような……。
明らかに未知のものだが、しかし何故だろう、全く知らないとは言い切れないこの感覚……)」
本能では理解していながら、経験も理解も皆無である『母性』の心地よさに思わず感情の高ぶった璃桜は、思わず両腕で身体を抱くような姿勢になり、そこでふと気付く。
「(――ん? この服は何だ?私が何時も着せられている寝間着とは明らかに違うし、そもそも確か今日は予定日でもないのにあの場所へ駆り出されて、ボロ布を着せられていた筈なんだが……)」
等と璃桜が考え込んでいると、ふと部屋の戸をノックする音が聞こえてきた。
璃桜は慌てて返答しようとするが、何と返答すればよいのか解らず口籠もってしまう。
しかしそんな璃桜の狼狽などお構いなしに部屋へ入ってきたのは、読者諸君からすれば意外とも思えそうな人物であった。
「おや、目が覚めたようですね。体調の方はどうです?」
緑のポニーテールにスーツ姿という出で立ちの女・小樽桃李は、柄にもなくそんな事を聞いてきた。
「え、あ……はい。何ともありません、どうも……」
「そんなに堅くならないで下さいよ。もっと気を緩めたらどうです?」
「え、あ……すみません。実は私、今一自分の置かれている状況が解らなくて……。
何せ今朝から色々な事が一度に起こりすぎていて、何がどうなっているのか理解が追い付かないと言いますか……」
「あらら……それはそれは、とんだ失礼を。確かにあんな状況下では、記憶の一つや二つ飛んでしまってもおかしくはありませんね」
「あ、はい。別段、記憶喪失とかそういったものではないのですが……出来れば説明して頂ければ、などと」
「説明、ですか。まぁ、其方から頼まれるまでもなく、私がここへ来たのはあなたに今の状況について事細かく説明する為なのですがね。
さて、そうなると何から話せば良いのやら……」
桃李が璃桜に説明した話の内容を箇条書きで纏めると、以下のようになる。
・自分達は六大陸を駆け巡る移動式ラジオ番組『ツジラジ』の制作スタッフらしき集まりである。
・番組には毎回異なる場所でロケを行うという取り決めのようなものがあり、今回のロケ地はヤムタの貴族政治国家・真宝の首都万宮に決定した。
・番組の司会を勤める二人組が、事前に情報収集をしようと真宝について調べた所、月に一度の処刑大会と、そこで執行者として酷使される女――即ち璃桜の存在が明らかになる。
・そこに司会兼制作総指揮担当である男の狂った発想が加わり、処刑大会をぶち壊しにして執行者達を手懐けるという、些か正気とは思えない計画が始動する。
・結果として二人の制作スタッフが万宮で犯罪者を演じ、処刑大会への潜入に成功する。
・そして処刑大会当日、解き放たれた執行者は璃桜だけではなかった。何処から捕まえてきたのか、得体の知れない黒く巨大な不定形の怪物が、狂ったように暴れ出した。
・よくよく見ればその怪物というのは、以前制作スタッフと対峙したことのある存在であった。
・しかしそれでも政策スタッフは諦めず、混乱に乗じての璃桜と不定形の怪物とを一時的に手懐け、処刑大会の会場を破壊。混乱を引き起こしながらその場から逃げ出した。
「その後運び込まれた貴女はこの部屋に担ぎ込まれ、こうして先程まで眠って居た――という訳です」
「な、なるほど。しかし凄いですね、血肉に餓えて狂った私は眉間に鉄砲弾を受けても止まらないというのに、あんな一瞬で……あの方はどんな魔術を使ったんです?」
「魔術……ねぇ。あの子はそんな洒落たものなんか使いませんよ」
「えッ」
「『タンビエン因子』ですよ。ご存知ありませんか?」
「……タンビエンならば一応知ってはいるのですが。確か黎明期よりアクサノに伝わる宗教の、教祖とされる森林の神であるとか」
「ほぼ正解です。しかし惜しい、正しくは神ではなく精霊です」
「そう、ですか。しかし、その精霊とあの方が起こした奇跡にどんな関係が?」
「直接的な関係はありません。ただ、体内にタンビエン因子を持つ者は、精霊タンビエンがそうであったように、禽獣虫魚あらゆる動物類と対話する事が出来るのですよ」
「動物と対話、ですか。確かラビーレマにそんな獣医が居たような……」
「Dr.ロストゥーレのあれは生来の音感と眼力が極限まで昇華したものですよ。
実際彼自身、タンビエン因子については『俄には信じがたいが認めざるを得ない奇跡の力』なんて言ってましたし。
タンビエン因子の力は、そういった才覚とは別次元のものです」
「と、言うと?」
「これはあくまで私個人の推測ですが、本質が違うのですよ。一般的には『あらゆる動植物と対話・同調し、使役する異能の根源』なんて言われてますが、恐らくその根源にあるのは『精神への干渉』です」
「精神への干渉?」
「はい。相手に自身の胸中をさらけ出すリスクを負ってでも、その精神へ直に干渉し、根底へと介入する……」
「なるほど……」
「言い方は悪いでしょうが、直接的な会話による交渉を出血毒とするならば、タンビエン因子による『対話』は、神経毒かリシンのようなものでしてね」
「は、はぁ……」
生まれついての侍従として育てられてきた璃桜にとって、その比喩は余りにも理解しがたいものだったが、一応口裏を合わせておかなければならないと思い適当に返しておいた。
「まぁ何にせよ、あなたが無事で良かった。うちの者は皆性格や経歴に問題のある奴らばかりでしてね、その所為か時たま余計な事をしでかして事を厄介にしたりするのですが」
「いえ、そんな事はありませんよ。皆様は私を救い出して下さった訳ですし――そういえば、あなた方は何故私などを助けて下さったのですか?」
「それについては、後程私達を率いている男に吐かせると言うことでどうか」
「え?」
「いえ、あの健全天然ジゴロ気取りの外道ヤンデレ眼鏡めは、何か作戦を立てたとしてもその理由をろくに説明しないという事が偶にありまして……」
呆れたような仕草の後、桃李はふと璃桜に言う。
「そういえばお話に夢中で忘れていましたが、貴女のお名前を教えて頂いて構いませんか?
私は小樽桃李。見ての通り霊長種です」
「璃桜です。建逆璃桜。それが、私の名です」
次回、やっぱりあの三人も動き出す