第百十八話 赤銅色の誤算:前編
謎の水槽部屋にて繁を待ち受ける脅威とは!?
―前回より―
「ぐっ、クソッ! どんどん水嵩が増して動けなっ! つか、これは流石におかしくねぇ!?」
繁は尚も溺れ続けていた。水苔に脚を取られて動きが取れなくなっているという訳ではなく、当然泳げないと言うこともない。衣類の重みと精神的な焦りに体力を奪われ続けていたのである。そもそも現時点での繁は既に水底に足が着いていない、所謂『立ち泳ぎ』の状態であり、手足を動かして必死に身体を浮かせている状態だった。
突如、そんな彼の背後から数本の黄色い触手が現れた。鈍い金属光沢を放つ細くしなやかなそれらの裏面には吸盤があり、イソギンチャクやクラゲなどの刺胞動物というより、イカやタコといった頭足類を思わせる。触手は隙を突くようにして素早く繁の身体に巻き付き、彼を水中へ引きずり込みにかかる。当然繁がそれを許すわけもなく、隠し持っていたナイフでどうにか触手を切り落として逃げようとする。
しかし切り落とされた触手は独立した生物のように動き回り、尚も繁を束縛せんとする。
「ええい、めんどくせぇ奴めがっ! こうしねぇと駄目だってか!?」
繁は全身から溶解液を分泌し、触手そのものを消滅させる事で何とか束縛より逃れる事に成功する。溶解液に伴う激痛には流石に触手の持ち主も参ったのか、束縛を解除しそそくさと逃げ去った。
「そろそろ水位がヤバいな……潜るか」
繁は懐から小さなガスボンベのような物体を取り出し、酸素マスクのような形をした先端部を顔に装着。チューブで繋がれた本体を腰に据え付けた。
「(こんな事も有ろうかと、ホームセンターで携帯式アクアラングを買っておいた甲斐があったってもんだ)」
繁は眼鏡をケースに納め、水中へと潜っていった。
―水中―
「(……それにしてもこの部屋、何なんだ? こうして見ると熱帯雨林か山岳地帯の秘境にある透き通った湖って所だが、まさか水棲生物の飼育水槽って訳じゃねぇだろうし……ん?)」
その時、ふと繁の真横を黄色い何かが通り過ぎた。
「(あれは……)」
"何だ?"と、繁が思考を巡らせるより前に、彼の眼前を黄色い膜が覆い尽くた。
「(ぐぉ!? ぬっ、こいつは……タコかっ!?)」
繁は溶解液で顔面にへばり付いた黄色いタコのような生物を瞬時に撃退し、漸くその全貌を確認する。
「(成る程……こいつはさっきのちっこい奴らと同じような代物か? そういや供米のおっさんが、廃洋館の周辺に流れてる川に何か居るって言ってたな。もしかして川とここは何かで繋がってるんじゃねぇのか? 例えばそう、太い地下水路みてぇな奴で……)」
そう思った繁は辺りを見渡しそれらしき場所を探そうとするが、そうはさせまいとして黄色い蛸のような生物が現れては襲い掛かってくる。しかもその数は尋常でなく、最初は三匹や四匹だったものが、今や十や二十を軽く超えるほどになっていた。
しかしそれでも繁は諦めず、襲撃してくる蛸の群れを撃退していく。
蛸の群れを粗方撃退した繁の疲労状態はかなりのものであったが、それでも尚気力を振り絞って出入り口にあたるものを探そうとする。休み休み暫く泳ぎ回る内に、繁は幾つかの排水口のような水の出入りする穴を発見したが、何れも扉で硬く閉ざされており、素手で開く気配は見られなかった。
「(畜生、どうやら溶かして開けるしかねぇようだな……)」
繁は頭を抱えた。空気中でこそ自身の意のまま自由自在に動き回るアサシンバグの溶解液だが、水中などではどうにも動きに乱れやブレが生じてしまうのである。
「(何にせよ早急に扉をブチ破って外に出ねぇと……空気中に出さえすりゃ、あとはこっちのもんだ)」
繁は排水口を塞ぐ金属製の扉に手甲鉤の刃先を引っ掛け、慎重に溶解液を這わせていく。
「(何がどうでも焦っちゃなんねぇ。精神の焦りは無駄な水流を産み、無駄な水流は溶解液の操作を狂わせる……。そうだ……落ち着くんだ……眼鏡を外した遠○君が相手の線を、点を見極めてナイフの刃を滑らせるように……そーっと、そーっとッ!?)」
扉の破壊に向かっていた繁の右脚臑部分に、太い紐状のものが絡み付いた。ズボン越しに伝わるそれの感触は硬くもあり柔らかくもあり、そして何より凄まじいパワーを誇っている。
太い紐状のものはそのまま彼の身体を扉から引き離し、水中へ引きずり込もうとする。繁は咄嗟に右脚臑の辺りから溶解液を出す事で難を逃れ、振り向きざまに相手を見て驚愕した。
「(んなっ……こ、こいつ……)」
そこにあったのは、流線型のフォルムと、肩や股関節から手足代わりとばかりに生えた数本の太い触手が特徴的な赤銅色の生物だった。
「ペ、ペイジ……?」
【こんな姿になりながらも思い出して頂いて光栄ですよ、Mr.ツジラ・バグテイル。如何でしたか? 我が子等の部屋は。中々に乙なものでしょう?】
「お前のガキ共の、部屋だと?」
繁はマスク越しにくぐもった声で言葉を紡ぐ。
【えぇ。我々兄弟姉妹は母上様との間に子を授かり、その『孫達』は自ら望んで我らの兵となった。先程あなたが必死に撃退していた、あの黄色い頭足類のような愛嬌溢れる生物達……あれは私と母上様の元に産まれた孫達ですよ。彼らは我が家の側を流れる河川の中と周辺を見張っているのですが、非番の時や休憩時などはこの部屋で休んでいるのです。この辺りは環境が豊かでしてね、その辺りでとれた水苔を敷き詰めて河から水を引き寄せるだけで斯様に素晴らしい空間が出来上がるのですよ】
「さっき水が無かったのはどういう事だ?」
【意図的に抜いたのですよ。あなたを罠にはめ、油断させる為にね。幸いにもここに住み着いている生物は何れも元から水陸両用なようでして、ほんの数分水を抜く程度はどうという事もありませんでした】
「……そうか。で、俺をここに閉じこめてどうする気だ? また戦うつもりか?」
【勘弁して下さいよ。私はあなたとやり合うつもりは無いんです。ただ、少々平和的に事を解決させたく思いましてね……】
「何をするつもりだ?」
【こうするのですよ】
ペイジの右肩から生えた触手二本が素早くしなり、繁の顔面からマスクを引き剥がすと同時に腰の酸素ボンベをも奪い取ってしまった。
「がばっ? ぼごぼばっ!?」
【私にはこの通り水中でも機能する声帯や鰓がありますが、あなたを初めとする霊長種の皆さんにそれは備わっていないのでしょう? ならば、このマスクとボンベさえ奪い取ってしまえばあとは此方のものという事……想定よりは遅れましたが、これならば穏やかに、そして平和的にあなたを始末し戦いに勝利できるという訳です。Mr.ツジラ……失礼ながらこの勝負、私が頂きましょう】
辻原繁、絶体絶命!次回、繁はこの危機をどう脱するのか!?