第一話 辻原繁の失踪
―現代・日本国内中国地方某所―
「いやぁ、補講も代講も無いごく普通の休日ってのは良いねぇ」
都心部を意気揚々と歩く長身痩躯に眼鏡の青年。
彼の名は辻原繁。動物行動学を専攻する20歳の大学生である。
専門は昆虫学だが、動物全般に対する愛が強く『文明と自然は程よい距離を置いて共存すべき』という考えの持ち主である。こういった性格故に、時たま動物相手に人間のように接する事もある(あくまで半ば冗談のようなものなのだが)。更に元々思い遣り深い性格の彼は家族や友達など、身の回りの人々も心から愛し敬う事を美徳だと信じている。
また、真面目な性格で気遣いも上手い為周囲からの評判もそれなりに良く、奇行が玉に瑕の好青年として中々に名の知れた存在でもあった。
彼は現在、補講・代講の無い純粋な休日を堪能していた。
というのも、彼の大学ではここ最近教員の事情により平日の休講が相次ぎ、その補講や代講を毎週土曜に開いていた。日曜は別件で午前中の大半を消費する辻原にとって、土曜日には若干特別な思い入れがあったのである。
「さて、それじゃ今日は何処に行くかな」
等と地図を片手に考え込む辻原。
財布の中身や脚の具合から大方の予定を立てる彼は、洒落た飲食店での食事や路線バス・路面電車・タクシーによる移動を行わない。
移動は基本的に自転車と電車を用い、運転免許は持っているが自分専用の車を持っている訳ではないので移動手段として乗用車を用いることもあまりない。
自転車・電車の管轄でない場所は基本的に徒歩である。
これらは全て、彼が有り金をなるべく趣味に使い込みたいと思うが故であり、それ故に彼は飲酒・喫煙・賭博の類にも手を出したことはない。
酒は元々好きではなく(寧ろ中学時代自宅で食べたラムレーズン入りアイスに不快感を抱くほど)、煙草に至っては『毎日の煙草より月一のコカイン』という科学理論に基づきそもそも根底から忌み嫌う傾向にある(だからと言ってスモーカーであるという理由だけで他人を罵るような事は無いが)。
賭博を否定する考え方は幼い頃両親に教え込まれた事もあって筋金入りの域に達しており、テレビCMで魅力的な映像が流れるとそれに興味を示すも、それがパチンコ・パチスロの宣伝用に作られたものだと判るや否や途端に落胆する程である。
予定を考えながら歩みを進める辻原。
しかしその一方では、何も知らない辻原を巻き添えにある出来事が起こり始めていた。
―同時刻・異世界カタル・ティゾル―
何処にあるかも判らない次元の壁を越えた場所にある、我々が暮らす浮世とは違う異世界カタル・ティゾル。
世界の根底に超自然的エネルギー―所謂『魔力』のようなものの概念が根付き、それに伴って生物相も大きく異なるという、我々現代人の知識の斜め上を行く世界。
その一大陸、まるで中世西洋を思わせる分化の根付く大陸ノモシア。
そしてノモシアを支配する王国エクスーシアの首都中枢部に鎮座するのは、代々国を治める国王家の住まうテリャード城。
辻原を巻き添えにする出来事を引き起こし始めていたのは、この城に住まう国王の一人娘コリンナ・テリャードであった。
―テリャード城・コリンナの自室―
起伏の無い細い身体に豪奢なドレスを着込み、白金色の長いツインテールを棚引かせた王女コリンナ・テリャードは、異世界の様子を鮮明に映し出す巨大な鏡を覗き込みながら、何かを呟いていた。
「遂に見付けたわ……こいつよ……この男よ……。
この男なら間違いないわ……そう……この男なら……」
コリンナは、しゃがみ込んで上質な木材で作られた床材を素早く指でなぞっていく。
彼女の指の跡は白く光る線となり、奇妙な円陣を描いていく。
円陣を完成させたコリンナは、立ち上がって解読不能な言葉を詠唱し始めた。そして彼女の詠唱に合わせて、円陣は脈打つように光を増していく。
「(もうすぐ……もうすぐよ……もうすぐ私だけの忠実な下僕が……)」
―同時刻・日本国内中国地方某所―
「……うん、これは中々に良いな。やっぱりこの会社は安定したものを作る」
発売されたばかりの飲料を飲みながらそんな事を言う辻原は、休憩所のベンチでくつろぎつつ、街の風景を眺めていた。
二分ほどして、ゴミを処理しようかと辻原が立ち上がった、その時。
「!?」
突風が吹き荒れるかのような音がしたかと思うと、辻原の背後に何やら光り輝く球体のようなものが現れた。光の球体を元手に薄い光の板のようなものが舞っており、その姿は神秘的かつ幻想的であった。
「な……何だ?…一体何事だ……?」
咄嗟の出来事に驚いた辻原は慌てて周囲を見渡すが、どういうわけかその存在に気付いているのは辻原だけらしく、周囲の人間は寧ろ慌てふためく辻原に驚く始末だった。
「(もしかしてこの光る球体……俺にしか見えてないのか?
全く……何処の世界のファンタジーだよ、こんなもん……)」
等と考え込みながらも、辻原はコンビニで買った食料を頬張る。
「(とりあえずこういうのは、無視するのが一番だと相場が決まってる)」
根拠は無いがそうする他無いだろうと考えた辻原。
しかし世の中、そう何もかも上手く行とは限らない。
光り輝く球体のようなものは次第に肥大化していき、遂に必死で無視を決め込んでいた辻原をも巻き添えにする。
「(……ん?何だこりゃ……?やばいか?流石にやばいか?いや、確認するまでもなくやばいよなコレ?
そして何でこういう時に限ってカップ麺作ってんだ俺?何でカップ麺チョイスしてんだ俺!?しかもうどんだから五分くらいかかるわ!)」
そして、次の瞬間
「(畜生、二分余計なんだよ!そしてうどんを選ぶ俺も俺だろ!何やってんだよマジ!このままじゃ明らかにヤバ――)」
光の球体が一気に収縮するかのようにして消滅するのと時を同じくして、意識を失った辻原は手に持っていた荷物ごとその場から消え失せた。
その場に残されたのは、湯を注いでから1分も経過していないインスタントのうどんだけだった。