第六話 メイドがのたまいし言葉
前回最終回と言いましたが、すみません、もう一話だけ続きます。というか、題名が関係してくるのはいったいいつになるんでしょうか(汗)もしかしたら結局何事も起こらず終わってしまうかも……
という不安を共に感じながらどうぞお読みください。
……
……
わかってはいるのだ。それはしょうがないことだって。認めてあげなきゃいけないことだって。許してあげないといけないことだって。私一人が辛いんじゃない。私だけが被害者なんかじゃない。みんながみんなどうしようもない状況に追い詰められているんだってことを、私は、蒼井都子は大いに自覚しているのだ。
だけど、
だけど!!
「たとえそれがどうしようもないことであったとしても、人間には呆れて諦めて愛するのをやめてしまってはいけないものが絶対にあるはずなのに……」
例えば父、蒼井純三郎。あのとき彼の取った行動が間違いだったと私は思わないし、きっと母だって心の奥底ではそう思っているだろう。それは決して一人の命よりも数千の将来の方が重い、というような価値観、天秤の法則云々ではなく、私たちが父を信じていたから。父を信じていたから、私たちは彼が苦しんで出した結果がどんなものであろうと許してあげようと思っていたのだ。まあ、本音を言えばそれでも父には母の方を選んで欲しかったけれど、この際そんな些細な私の願いは関係ない。とにかく、だからこそこの件に関して言えばこれで終わりだったのだ。というか、これ以外に何かがあろうとは私たちは誰一人として考えていなかった。
父以外は。
父以外はみんな許していたのに、
父自身は自分を許さなかった。
父は数千人の有象無象よりも自分が愛したたった一人の女性を選べなかったことを、どこまでもどこまでも許せなかった。
そして許せなかった結果が今の父の姿だった。
究極の選択のとき、愛する人を選べなかった自分。
極限の選択のとき、大切な家族の方に傾かなかった己の中の天秤。
天秤は正直だ。
それ故に優しくないが、それ故にある意味絶対的に正しい。
そんな自分が、
そんな天秤を持つ自分が、
果たして家族を愛する資格があるだろうか?
それ以来父は変わった。あれだけ家族想いで、妻想いであった蒼井純三郎は豹変した。まるで自分を構成する細胞一つ一つを破壊し、置換していくかのように家族を愛することを止め、仕事と金を求めることに力を注いだ。そう、最初から自分はそんな人間だったのだと言わんばかりに。
「馬鹿なお父さん」
そんな変わり果てた父を目の当たりにした母は一気におかしくなった。快活な人ではあったけど、元々心の強い人ではなかったのだ。父に自分たちの愛を否定された母は、同じように愛すること、「愛」という概念を捨てて、他のもの――具体的には自分が産んだ息子に執着するようになった。切っても切れない血縁という鎖で繋がっている、そして父の面影を色濃く残す自分の息子、京介兄さんに。今の母の生きがいは京介兄さんの世話を焼くことと、その京介兄さんに父や父の会社を潰させることだけなのである。ホント遠回しで、それでいて飛び抜けて立ちの悪い嫌がらせだけど、優秀な京介兄さんならやれそうだからこれはこれで本気で恐ろしいことだった。
「馬鹿なお母さん」
そして、その京介兄さんは悪魔のような人だった。いや、もしかしたら人間のような悪魔だっただけなのかもしれないけど、この際そんな些細なことはどうでもいい。とにかく愛を失った両親の間で、しかも母の父への復讐のためだけに育てられた兄の性格は妹の私から見ていてもおよそ見当も目測もつかないほどにブチ切れていて、しかし性格とは正反対に心の方は深淵の闇どころか真空の虚無と言っていいほどにスカスカだった。
私は一年前、京介兄さんに留学先であるイギリスのロンドンに呼ばれた。もちろん私一人だ。空港まで迎えに来てくれた京介兄さんは、私をそのまま小洒落たレストランへと連れて行き、日本での近況を聞いてきた。私と京介兄さんは七つも歳が離れていたし、私が生まれてからすぐに家庭があんな風になってしまったので、京介兄さんと二人きりで話すことなど滅多になかった。だから私はなんだか初めて家族としっかりと話をした気がして、それがとても嬉しく感じて京介兄さんに学校のことやピアノのこと、ミスタードーナッツのことなどを色々と捲くし立てるように喋った。京介兄さんはそんなつまらない話を嫌がるそぶり一つ見せず笑顔を浮かべて聞いてくれていた。そして一通り話も終え、食事も残るところメインディッシュとデザートというところになって、悪魔は変わらぬ笑顔でこう切り出した……ううん、切り倒した。
――俺はこの数年で父さんと母さんを殺すつもりだから、お前もそのときの身の振り方を考えておくといい
私はそのときナイフとフォークを落とし、同時にどこかに希望を落とした。さらにその言葉を聞いて放心状態になっていた私に京介兄さんは「なんならそのときお前も一緒に殺してやってもいいけど、どうする?」と聞いたような、聞かなかったような……それはもう今更思い出すことのできない、思い出せたとしても絶対に思い出さない過去の記憶だった。
「馬鹿な兄さん」
そしてそんなどうしようもない家族に囲まれた私は希望を捨てた。希望を捨てざるを得なかった。というか、こんな状況のどこに希望があるというのだろうか。どこに希望が見出せるというのだろうか。
「だって、私にもみんなの苦しみは理解できるもの」
ただ単に偶然の不幸に見舞われたわけじゃないのだ。突如理不尽な扱いや無慈悲な問題に直面したわけじゃないのだ。確かに訪れてしまった結果はこの上もないくらい最悪なものだったけれど、そこに至ってしまった家庭の課程は決してわからないものではなく、むしろわかり過ぎてしまうほどわかる、当然の帰結とも終結とも言えるものなのだから。
私が父の立場だったら、おそらく私だって同じような振る舞いをするのだろう。
私が母の立場だったら、確実に自分の息子へと逃避するのだろう。
私が兄の立場だったら、自分を歪めてしまった両親を絶対に許さないだろう。
みんな理解できる。みんな共感できる。それはみんな血の繋がった家族だから。でも、理解できるから共感できるから血の繋がった家族だからこそ八方塞なのだ。
好きになりきれず、
嫌いになりきれず、
見捨てることができず、
見守ることができず、
だから、
だから私は、
「くだらない私」
最初から世界はこんなものだと、くだらないものだと口に出していかなければならないのだ。
たとえその言葉を口にする度に世界が色褪せ、
希望を失っていくとしても……
……
……
「……て、なんて夢を見るのよ、私は」
他に見たい夢はたくさんあるのにピンポイントで見たくない夢を見てしまった。
「いや、まあこれは夢なんかじゃなくて紛れもない現実なんだけど――っ、頭痛い……」
ベッドから半身だけ起こした状態でこめかみの辺りを手で押さえる。私も母と同様そこまで精神的に強いわけではない。だからこそ常に気を張っていないと自分を保つことができないし、適度にポン・デ・リングを食べてガス抜きをしないとすぐに体調を崩してしまうのだ。
「しかも追い討ちをかけるように、今回の生理はちょっとヤバイかも……重過ぎる」
お腹の奥にスイカ大の重い石がずしっとのしかかっているような感覚。マジ吐きそうで、涙が出てきてしまった。
結局、私は起きてから三十分もの間、頭とお腹の痛みと吐き気と格闘するハメになってしまった。初潮を迎えてからもう二年ほどになるが、これほどひどいのは初めてだったのでこのまま学校を休んでしまおうかとも思ったけれど、この家にいてもそれはそれで体調を悪化させるだけだと思った私はなんとか制服に着替えて一階のリビングへと向かった。すると、そこで一葉さんに出会って、しかし何故か彼女は筋トレをしていた。
「おはようございます都子お嬢様。ご気分が優れないようですが大丈夫ですか」
その半分は貴女の所為です、という言葉を必死に飲み込んだ私は、一つ十キロのダンベルを片手で一つずつ軽々と持ち上げているわけのわからない白い給仕服姿のメイドの横を通り、キッチンにある冷蔵庫から牛乳を取り出して、それをコップに注いで飲み干した。うーん、やっぱり牛乳という飲み物は素晴らしい。喉を通り、胃を優しく流れて癒していくその様は、まさに彼とバファリンにしかできない見事な芸当だった。
「朝ご飯はお食べになりますか?」
「ん、今日はもう時間がないから食べないで行くことにするよ」
「左様でございますか」
少し残念そうな声色だな、と思いながら使ったコップを自分で洗い食器棚に片付けて後ろを振り向くと、いつの間にか持っているものをダンベルから私の通学用の鞄に切り替えた一葉さんがそこに立っていた。本当、この人はいったい何者なのだろうかと不思議に思いつつも、私は彼女から鞄を受け取った。
「お嬢様、無理はなさらないでくださいね」
「ありがと、一葉さん」
そうお礼を言って私が鞄を受け取ると、不意に一葉さんの手元が光った。
「お嬢様、逃げないでくださいね」
「え?」
――闘うことから逃げないでくださいね
そして次の瞬間、ヒュンッと風切り音が聞こえたと思ったら、私の喉元には小さなバターナイフが突きつけられていた。
「お嬢様」
それは今まで聞いたことのない、本当の地獄を、本物の絶望を味わったことのある者だけが出せる、強いのに空しいという矛盾を孕んだ、それでいて何よりも真実を含んだ声だった。
「お嬢様は希望を捨てたとかおっしゃるつもりかもしれないですけれど、私からしてみればそれはただ希望を持つことから逃げているだけにしか見えません。希望を持つ重圧から、絶望する恐ろしさから、お嬢様はただ『くだらない』と言って逃げているに過ぎないのです」
ヒュン
ヒュン
ヒュン
喉元に突きつけていたバターナイフを少し引いたかと思ったら、一葉さんはそれを目にも止まらぬ……ではなく、某漫画の包帯剣士風に言えば目にも映らぬ速さでそれを振るい、私の目の辺りに垂れ下がっていた前髪を少量切り落とした。というか、よくよく見ればそれはバターナイフなんかではなく、ただの果物ナイフだった。
「何故闘わないのですか? 闘わないくせに、逃げているだけのくせに簡単に厭世家気取りで世界を否定しないでください。それはとても勿体無いことですし、ずるいことですし、ムカつくことです。もう十四歳なのですから、傷付かずに何かを手に入れられるとか、闘わずして生きていける世界があるだなんて努々考えたりしないでください。いつまでも主人がそんなクズでは、それに仕えている私までもがクズだと思われてしまうではありませんか」
「一葉さん……」
「と、まあよくわからない前フリのような長い枕詞はさておき、とりあえず時間がないのだとしても私の作った朝ご飯は食べていってください。そうじゃないと私はお給金を受け取ることができません」
「うん……そうだね。一葉さんの生活のためにもご飯は食べていくことにするよ」
その返事に納得したのか、一葉さんは果物ナイフをゆっくりと引っ込めて「大丈夫ですよ。ちゃんと私の車で送っていってあげれば間に合いますから」とニッコリと笑った。完璧主義過ぎて少し理解しがたいところのあるメイドさんであるけれど、私のことを心配してくれてそう言ってくれた一葉さんがこの家に来てくれたことを、やっぱり私は嬉しく思った。
ただ、
「一葉さん」
「はい、なんでしょうか」
「安全運転でお願いね」
リビングの窓から見えるシルバーの車。すでに車を回してある手際の良さには、やはりただただ感心することしかできないが、
ランボルギーニ ガヤルド LP560-4 Spyder
一葉さん私用のフルチューンナップした化け物のような車。
……
……
……いやいや、送迎車としてキーを渡されてるメルセデスのSクラスを使おうよ!!
「それだと間に合わないかもしれませんから」
「それはさすがに嘘でしょ!?」
「わずか4 秒で時速100キロまで加速し、最高速度は時速324キロに到達しますから安心ですよ」
「その三桁の数字のどこに安心が潜んでるの!? 完全に安心を置き去りじゃん!?」
「お嬢様、逃げないでくださいね。闘いましょう」
「え、なになに? あれってこのための前フリなの!?」
と、
まあ、
こうして私の運命の一日は始まったのだった。
次、必ず終わらせます。
感想等ありましたらいつでもどうぞ。