第五話 天秤が作り出しきセピア色の世界
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……
天秤。天秤という道具は重さを量る。天秤という道具は重さを比べる。天秤という道具は必ず重い方に傾く。そして最後に、天秤という道具は決定的な決定を下す。
『天秤に掛ける』
それは二つを見比べて、その優劣や損得、果ては価値までをも比較すること。
「ベタな例えかもしれないけれど、ある所に一人の勇者がいました。そして、その勇者は最終場面でお決まりのように選択を迫られました」
勇者には大切な、本当に大切な何者にも代え難い一人の女性がいました。
勇者には大切な、本当に大切な何物にも代え難い一つの目的がありました。
そこで、問い。
というか選択。
「世界を救うのか、それとも彼女を救うのか。選べるのは唯一つ」
天秤。天秤という道具は重さを量る。天秤という道具は重さを比べる。天秤という道具は必ず重い方に傾く。そして最後に、天秤という道具は決定的な決定を下す。
選ぶ方を決める。
それはつまり選ばない方を決めることと全くの同義。
この場合勇者は、
決断を下さなければならなかった勇気ある者は、
いったいどちらを選ぶのだろうか。
どちらを選ぶのが正しいことなのだろうか。
私にはわからない。
私には、まったく、全然、さっぱり、皆目見当もつかない。
でも、そんな私でも天秤の定義とも天秤の法則とも言えるこのことから一つだけ言えることがある。
「二つを比べて傾いた方が、何者より何物より重いのだ」
結論。
天秤は正直だ。
それ故に優しくない。
……
……
駅前からバスに揺られて六つ目のバス停。この街にある四つの高級住宅街を軽く捻り潰す超高級住宅街の入り口で降りた私は、その中でも飛び切り豪奢でずば抜けて悪趣味な、御伽噺にでも出てきそうな巨大な洋館の前で立ち止まった。頑丈で頑強で堅牢な鉄の門扉。その傍の赤い煉瓦の壁に取り付けてあるインターホンを押すと、まるでずっとその場に待機していたかのように一瞬で返答が返ってきた。
「お帰りなさいませ、都子お嬢様」
カチッという音が一度聞こえ、その後低いモーター音と共にゆっくりと自動で鉄の門扉が開いた。私はそんな仰々しい仕掛けをやれやれと思いながら黙って見ていた。最初にこのシステムを見たときは確かにすごいと思ったけれど、どう考えてもボーリングの助走並みのスピードしか出ないモーターよりも自分で開けた方が早いし、それに自分の家に帰ってきたはずなのに誰かの許可を貰わないと敷地内にすら入れないというのは不便極まりないし、何かどこかがおかしいような、ずれているような気がしてならなかった。
「まあ、でもキミが悪いわけじゃないよ」
門扉を軽くポンポンと叩いて、私は敷地内へと入っていった。そして洋館まで続く適度に長い石畳を歩いて玄関の扉を開ける。するとそこに一人の長身の女性が立っていた。真っ白な皺一つない給仕服に身を包んだ彼女――埋呂一葉さんは、視界に私を捉えるとその長身の体躯を綺麗に折畳んで私に向けて敬礼をした。
旧称家政婦、通称お手伝い、自称メイドの埋宮一葉さん。まだ二十五歳と若い一葉さんだが、その持っているスキルはさすがプロフェッショナルとしか言いようがなく、驚くべきことに彼女は二、三十人が余裕を持って暮らせるこの恐ろしくでかい四階建ての洋館をほとんど一人で切り盛りしている。何でも一度話を聞いところによると、一葉さんの家系は代々家政婦(彼女自身はメイドと言ってきかない)なのだそうで、そのため幼い頃からそのための英才教育を受けているということだった。代々家政婦(男性は執事)というのは、ちょっと自分のメイドとしてのキャラクターを立てたいがための一葉さんの冗談という感じもするのだが、それでもそれすらも他人に信じさせてしまうほどの技術を一葉さんが有しているのは紛れもない事実であった。
「ただいま、一葉さん」
「はい、お帰りなさいませ。ただ、お嬢様、門限を十三分と二十六秒ほど過ぎておりますが」
「それは門からの距離が長い所為だね」
「左様でございますか」
一葉さんは自然な動作で、すっ、と腕を出し、私の持っていた通学用の革の鞄を受け取った。別にそこまでしてもらわなくてもいいのだが、これを断ると一葉さんは意地でも給料を受け取ってくれない(曰く、仕事を完璧にこなせないメイドなどただの愛玩奴隷です)という困った事態を引き起こしてしまうので、最初の頃ならいざ知らず最近は断ることはしないでそのまま好きなようにしてもらうことにしている。まあ、その根底にはもちろん私の一葉さんに対する信頼や親愛の情があるのだけれど……
「ん? どうかなさいましたか、お嬢様?」
「ううん。ただ、一葉さんがこの家に来てくれてよかったなあって思っただけだよ」
「そのようなお言葉を頂けるとは、奉仕する側としてこれ程嬉しいことはありません。しかし、お嬢様がどのようなことを思ってそのようなこと言ってくださったのかはわかりかねますが、私の行為も好意も所詮お金で買えるものなので、あまり誇大な妄想などは抱かない方が賢明かと思います」
「妄想なんかじゃないよ。これは何かと何かを天秤に掛けた結果出てきた、歴然とした事実なんだから」
そう、
父よりも
母よりも
兄よりも
私にとっては他人である一葉さんと一緒にいる方がよっぽど心休まるのだ。
「お父様は帰ってきた?」
靴を脱ぎながら一葉さんに尋ねてみる。特に帰ってきていたからといって顔を合わせるつもりも声を交わすつもりもないのだが、まあいわゆる事務的処理というやつだ。それをわかっていてか、一葉さんの方もこちらがいっそ清々しくなるような事務的で平坦な声で「ええ、先程お客様を連れて帰宅なさいました」と言った。ちなみに母は一週間前からイギリスの大学に留学している兄の下へ行っている。
「お客様?」
「私の記憶が正しければ、確か政治家の方だと思います」
「政治家ねぇ……どうせ、またぞろ部屋に篭って邪悪な密談でもしてるんでしょ?」
今日一番の溜息と、くだらないと思う感情。大手ゼネコン海王建設の専務取締役という肩書きを持ち、すでに一般家庭が稼ぐ金額の数十倍のお金を手にしているのに、それでも飽き足らずただひたすら仕事に打ち込みお金を稼ごうとする父、蒼井純三郎。私は経済活動自体が悪いと昔の旧教徒のように否定するつもりはさらさらないが、それでもわざわざ非合法な手段、非常識な決断をしてまでそんなことをする必要があるとは到底思えない。それに、
――しなければいけないことは、もっと他にたくさんあるだろうに。
「……でもそんな汚いお金で生活させてもらっている私が文句を言うのもおかしいよね」
「お嬢様」
自嘲的にそんなことを呟きながら自分の部屋に戻ろうとしたところ、一葉さんに右腕を掴まれて呼び止められてしまった。その声は一葉さんにしては若干いつもより大きい声だった。基本的に彼女はプロフェッショナルで、雇い主の事情などには全くと言っていいほど口も首も私情も挟まない……はずなのだが、一葉さんは真剣に私を見つめ力強く握った腕を離そうとはしてくれなかった。
「ごめん、一葉さん」
私は素直に謝った。けれど、
「でも、やっぱりこれだけは譲れないの」
「都子お嬢様……」
しばらく強い瞳で見つめていた一葉さんだったが、私の意志も相当固いらしいことを知るとまたいつもの冷静且つ事務的な声で「残念です」と一言呟いた。
「その脇に抱えたライオンにはひどく心を揺さぶられたのですが……」
「ふふふ、いくら一葉さんでもこの子にはおいそれとは触らせてあげませんから」
猛獣を狙うメイドから逃げ切った私は、四階の自室へと向かう階段を目指し長い廊下を歩き始めた。薄暗い廊下。その壁には一つ百万はくだらない絵画がいくつも飾られている。さらに廊下の途中にある台の上の花が生けられている花瓶は、一葉さん曰く人間国宝の人の作品らしいが、残念ながら私みたいな不良女子中学生にはそれらの価値が良くわからない。良くわからないから、それらの芸術作品にはさっぱり興味がなくて……いや、そんなことを言ったらこれらの作品の持ち主である蒼井純三郎、あのクソ親父だってこんなものに興味など微塵もミジンコほどもないだろう。だって私と同様、価値などわかりはしないのだから。
「あの人にとって価値があることが価値なんだから」
絵画の良し悪しという価値ではなく、誰からも認められ、高額な値がついているという二次的、副次的なものにこそ価値を置く。芸術を自分のステイタス、どれだけ金を持っているかというバロメーターとしか考えていないクソ親父。その所為か、芸術にまったく知識も興味もない私でも、飾られているいくつもの絵画におよそ統一感というものが感じられないことがわかった。油彩水彩デッサン風景画宗教画肖像画モザイク画現代アートゴシックバロック古典派ロマン派写実主義印象派ポスト印象派アールヌーヴォーえとせとらエトセトラetc。どれもが一級品で、どれをとっても高価なものであることは間違いないが、この廊下にこうも無秩序に並べられてしまうと、それはまるで小学校に飾られている子どもの絵のように思えてしまうのだ。
「もちろん子どもの描いた絵に価値がないとは言わないけど」
価値。
それはちょっとしたことでたちまち失われてしまう。
絵画だからではないが、色褪せてしまう。
煌びやかな装飾や目の惹くような原色は無くなり、
モノクロとまでは言わないものの、
全てが、
そう、
全ての世界が、
「セピア色へと変わっていく」
――あそこはもう駄目でしょう
こんな風に。
「……」
階段の近くにある応接室兼書斎の前を通るとそんな声が聞こえた。扉が少し開いていたのだ。そしてその聞こえてきた声は父のものではなかったので、それが一葉さんの言っていたお客様である政治家の先生であることはわかった。
――あそこはもう駄目でしょう
――私の元にそういう情報が入ってきています
――蒼井専務はあそこの株をお持ちだということを聞きましたので、この度は……
「……はあ」
インサイダー情報か……というかそんなこと扉を開けたままでするなよ。
「お父様」
開いていた扉をわざわざ閉めてからノックをして声をかけると、中からがさがさと何か紙が擦れるような音がした。その音からなんとなく中の光景(特に急に声をかけられた焦った政治家先生の)がわかったが、しかし部屋の中からはその音とは正反対にひどく落ち着いて静かで重厚感のある、そしてなにより本当に心の底から心が篭っていないとわかる心ない返事が返ってきた。
「都子か。遅かったな」
「申し訳ありません。いつも乗るバスに間に合わなくて遅れてしまいました」
「不便だったらやはり一葉に送り迎えを頼むが」
「それには及びません。以後気をつけますので」
「わかった。今日はアイツもいないから一葉と一緒に夕食は取ってくれ」
「はい」
父親と一年分の会話をした私はそのまま階段を金獅子と共に駆け上がった。
一段
二段
三段
階段を上がる度に段々と気持ちが沈んでいく。
視界が霞んで、
世界が色褪せて、
そして、
「あははははははは」
部屋に入った私はポン・デ・ライオンをベッドに投げつけて盛大に笑った。やましいことをしていたのを娘に聞かれたかもしれないのにあの反応か。あれだけ門限を守れと言ってきたのにあの程度か。とことん私に興味なんてないんだな。
とことん、
徹頭徹尾、
首尾一貫、
お前は、
お前は!!
「何が『今日は』だ!! お母さんは一週間前からいねぇじゃないか!!」
その昔、一人の勇者……ではなく、一人のしがないサラリーマンがいた。
彼はある日とんでもない選択を迫られた。
社運を賭けたプロジェクトのプレゼンの直前に、妻が車に轢かれて意識不明の状態であるという報告を受けたのだ。
彼の肩にのしかかる二つの選択。
一つは二度と会えなくなるかもしれない愛する者の元へ行くこと。
一つは数千を超える社員たちのためにその場に残ること。
彼は天秤を使った。己の中にある天秤に二つのものを載せ、どちらが重要なのかを量った。
その結果が……今の蒼井家だった。
父は母を含めた「家族」を捨て、
母はそれが原因で「愛」という考えを捨て、
兄はそんな二人を見て「心」を捨てて、
そして、
私は世界に対する「希望」を捨てました。
感想等ありましたらよろしくお願いします。次回が最終話かな?