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第十二章 獅子王子と神雕王 Ⅷ

 無念ながらもタールコ軍は態勢を立て直すために退却し、後方四万の軍勢と合流した。

 すでに日が暮れて、夜空には月が光り空気は肌を刺すように冷たい。

 しかしアスラーン・ムスタファーは身体中から湯気が出るほどの怒りと屈辱に身を震わせていた。

 幕舎の中で、ひとりにしてくれ、と言ってひきこもったかと思うと。ややあって、侍女のエスマーイールを呼びつけた。

「エスマーイール、このたびはそなたにはよく助けられた。なんと礼を言えばよいのか」

 と頭を下げた。

 もしエスマーイールがあのとき手綱を引かなければ罠の奥深くに入り込み、ファランクス隊の長槍の餌食となっていたかもしれぬ。

「そなたをはたいて、悪かった。許してくれ」

 とも詫びた。

「そんな。出すぎた真似をし、わたくしこそ……」

「いや、そなたの心を知らぬオレにこそ非があった」

 気がつけば、エスマーイールの手を握りしめていた。

 その頬は赤い。お互いに、頬を赤くし、お互いにみつめあっていた。

 気がつけば、アスラーン・ムスタファーはエスマーイールを抱きしめていた。

「なにをなされます」

「こうさせてくれ」

 王子としての権力をもって女を抱きしめるのは、獅子王子アスラーンとしての矜持が許さぬことであった。

 しかし、今は、ただの十八の少年であった。

 いかに神美帝ドラグセルクセスの子息といえど、そこは人の子。どうにもなぜか、胸より湧き上がる感情が昂ぶり。なぜか、エスマーイールを求めている自分がいる。

 突然抱きしめられて、エスマーイールは心臓が爆発しそうで思わず身もだえした。それから、獅子王子アスラーンの心臓の鼓動も激しく波打っていることを知る。

「わ、わたくしごときに、もったいのうございます」

「いいや、オレにこそ、そなたはもったいない」

「そのようなことは……。宮中にもっとふさわしきお方がおられましょうに」

「オレには、そなたこそがふさわしい」

 お互いの唇が触れた。

 エスマーイールは目を見開き、たいそう驚き、思わずアスラーン・ムスタファーの腕を振りほどこうとした。

 だが強く締め付けられて逃れることはかなわぬ。

「オレは、そなたが、好きだ!」

「ええッ!」

「初めての、いいや、オレの、ただ一人のひとになってくれ」

 そう告白されてから、頭の中は真っ白になり、記憶はなかった。

 ただ、ひどく悩乱し。

 エスマーイールはアスラーン・ムスタファーに初めての、乙女の全てを捧げた。


 生まれて初めてのひどい敗北と屈辱ののちに、初めての女をもとめるアスラーン・ムスタファーの心境はどうであろう。

 イムプルーツァやイルゥヴァンをはじめとするタールコの勇士たちは、アスラーン・ムスタファーの様子がいつもと違うことが気がかりであった。

 ろくな軍議や総括もならぬまま、幕舎に引きこもりエスマーイールを呼びつけてふたりきり。無礼と思いつつ、いかなる事態になっているのか、容易に想像がついてしまうのが怖かった。

 とはいえ、実際のところ、アスラーン・ムスタファーはエスマーイールの腕の中で、まるで赤子のように安らかに眠っていた。

 闇の中でわれを取り戻したエスマーイールは、初めての、乙女の全てを捧げた男に対し、胸が痛くなるほどの愛おしさを感じてやまなかった。

(まるでもう母親になったみたい)

 と思ってから、はっと自分がひどく無礼なことを考えているような気分になった。

 だがそれは、ごまかしようのない感情で。

 我知らず、瞳を閉じて安らかな寝息を立てるアスラーン・ムスタファーの頬を撫でていた。

 

 翌朝、アスラーン・ムスタファーは幕舎を出て、澄み切った朝の青空の下で軍議をひらき。

 前日の無様さを正直に告げて、また態勢を立て直し、下手な矜持をたもつより実質的な勝利を求めてソケドキアを攻略することを告げた。

 イムプルーツァらタールコの将軍勇士たちは、おお、と喚声をあげた。昨日の敗北の落ち込みようからどうなることかとひどく心配したのだが、それは杞憂に終わったようだ。

獅子王子アスラーンとしての傲慢が、多くの勇士を無駄に死なせてしまったこと、我は慙愧ざんきえぬ。ソケドキアを制するまでは、オレはタールコには帰らぬ。もしそれが叶わずとも、お前たちとともに死ぬ覚悟だ」

「よくぞ言われました!」

 一晩で気を持ち直したアスラーン・ムスタファーに、皆は喝采を送った。アスラーン・ムスタファーは、男たちの心も知らぬうちに強くつかんでいた。

 もし性別が違えば、自分こそエスマーイールの役割を果たしたいくらいである。

 ひどい敗北をしても一晩女を抱いただけでこうまで立ち直るとは、単純といえば単純だが、それくらいの肝がなければ将来タールコの皇帝はつとまらないだろう。

 タールコの勇士たちは、将来の皇帝の勇敢さと図太さに、夢と希望をたくさん胸いっぱいに抱いていた。

 その夢と希望こそが、忠誠と闘争心の原動力であった。

 

 さてシァンドロス。

 ギヤオゴズィラの戦いで勝利したものの、数の不利が変わるわけではなく。

 まだ四万の軍勢があることを知り、さすがに慎重策をとらざるを得なかった。

 ギヤオゴズィラの手前にアギラスという地があり。その中にまたラウドネという砦があり、ひとまずはそこに軍勢を篭らせた。

 ラウドネの砦はさほど高くはない、小高い岩山の上に旧ヴーゴスネア時代に建てられた砦だが守るに頑強に造られており、そこでタールコ軍四万余を迎え撃つ気であった。

「さて神はオレをどうするだろう」

 よくよく考えれば、こういった戦いは援軍を当てにしてするものだ。

 しかし援軍を頼みたくとも唯一味方になってくれそうなドラゴン騎士団擁するリジェカ公国が雪に閉じ込められて当てにならぬ。他に当てはない。となれば、砦の軍勢のみでタールコ軍四万余と戦うのは、ひどく不利どころか決定的な敗北が待ち受けているとしか思えぬのであった。

 あのとき、アスラーン・ムスタファーを討ちそびれたのは、痛かった。幸い中の大不幸としか言いようがない。

 おそらくタールコ軍四万余はいらぬ矜持をかなぐり捨てて全力で攻めてくるだろう。

 だがシァンドロスは己の身に降りかかる命運を楽しんでいるようだった。

 気を揉む者は多く、イギィプトマイオスなどは、

「なぜこのような時に笑っていられるのです」

 と不敵な笑みの神雕王にいぶかしげに問うた。

「ここで助かればよし。さもなくば、オレはそれだけの男だったということだ」

 それがシァンドロスの答えだった。

 大いなる野心を胸に抱く神雕王シァンドロスは、命運すら己の実力のうちであると考えている。

 もし己の大いなる野心を、タールコのような大帝国を打ち建てる野心を遂げるだけの実力があるのなら、神は味方し命運もそれに従うはずである、と。

 そんなことを平然と、当たり前に考えていた。

 だから、夜もバルバロネを激しく求めることが、平気でできた。

 一見絶望的に思える状況が、シァンドロスを激しく燃え立たせるようで。護衛も兼ねた愛人であるバルバロネはそれに完全に焦がされてしまって、悩乱させられるがままだった。

 このことを従軍史家ヤッシカッズは、


 神雕王、危機に当たってよき遊び場を見つけたる童子のごとく心ときめかせて。


 と書き記し。 

 そしてその考えの正当性をしめすようなことが起こったのだった。

 斥候が息を切らして砦に来て、シァンドロスに息も絶え絶えに報告する。

「アスラーン・ムスタファー率いるタールコ軍は、反転しソケドキアより北のアヅーツ以北の征伐軍の援軍に向かった模様」

 にやりと、シァンドロスは白い歯を見せて、わかったと言い。斥候に褒美を与えた。

 さらに詳しく調べてみれば、アスラーン・ムスタファーのと別の五万の軍勢は旧ヴーゴスネアの五ヵ国を平定するために出征したはいいが思いのほか苦戦し。やむなく神美帝にこのことを詫びつつ報告し、援軍を乞うたところ。

 神美帝は援軍に息子のアスラーン・ムスタファーを当たらせることにしたのだった。

 ギヤオゴズィラでのことはすでに神美帝の耳に入っている。

「言わぬことではない」

 と眉をひそめたものの、やはり情のある可愛い息子でもあり、また勇士イムプルーツァも処刑するには惜しい。

 そこで、ギィウェンとヨハムド率いる五ヵ国遠征軍と合流させてアスラーン・ムスタファーの指揮下に置き換え、雪辱の機会を与えようという魂胆だった。

 それと同時に、合わせて十万の軍勢がなんら戦果を上げられぬことに強く遺憾の意を抱いたのは言うまでもない。

 もしこれでも負けて帰ってくるようであれば、断固とした処置をほどこさねばならぬであろう。

 ともあれ、ひとまずソケドキアは捨て置き援軍にゆくべしという報せを受け取ったアスラーン・ムスタファーは不服ではあったが、父であり君主の命となればゆかねばならない。

 イムプルーツァは内心ほっとしていたのは秘密だ。

 これにより、ソケドキアはタールコの侵攻の危機は免れ得たのだった。

「なんという強運か」

 臣下ながらガッリアスネスも師匠に習いこのことを記録として書きとどめるとともに、書きながらシァンドロスの強運に舌を巻く思いだった。

 とりあえず、新興国であるソケドキアは、アノレファポリスのような弱小都市国家を滅ぼしても、それ以上のことは現実的にはできない。まだまだ力を蓄えねばならぬ、ほんとうに若い国である。

 南のエラシアは都市国家同士で牽制しあっているのでソケドキアに攻め込む心配はない。タールコにしても、冬の間は五ヵ国征服に専念するだろうから、とりあえず攻められることはないであろう。

 その間隙を突いて、ソケドキアはじっくりと国固めに専念することができた。

 そしてシァンドロスは高らかに宣言するのである。

「守られた。オレは神に選ばれ、守られているのだ」

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