第十章 樹立 Ⅴ
「哀しくも、人々は憎しみに駆られて、戦乱の広がりとどまることを知らず。いや、人のみならず自然も人の戦争に巻き込まれ、野の熊は怒りのあまり戦場の屍を食らう有様」
「なに……」
コヴァクスの話を聞き、モルテンセンは耳を疑った。戦争が広がっているのは知っているが、自然までもが、とは咄嗟に想像がつかない。しかし、戦争により野は荒れ、人も野の動物たちも、食うに困ることが起こるのであろう。
「それで、そなたは、予はどうすればよい。どうすれば、リジェカに安寧をもたらすことが出来る?」
今まで会った大人たちも、世のため人のため、ということを随分と語ってきた。が、それを実感したことはなかった。
自分たちはかごの中の鳥のようになり、外で何が起こっているのかさっぱりわからない。時折、ポレアスとダメド王を名乗るコントレがやってきて、最善をつくしている、いつか王子には王位についていただく、と語るものの、彼らの笑顔のうちに何かが見えて、なかなか信じられなかった。
なにより、閉じ込められて外に出してもらえない、というのが、一番大きかった。
マイアが羽ばたく小鳥を見るたびに、羨ましそうな顔をするのが、哀しく、悔しかった。
それで、この騒ぎ。
メガリシの人々は王宮に迫り、衛兵と激しく渡り合っている。これが何を意味するのか。
(僕たちは、騙された。そして、憎まれている。殺されるんだ……)
何も悪いことをしていないのに。
王子や姫として生まれたために。
まだ十一である、顔をくしゃくしゃにして大泣きに泣きたかった。でも、マイアがいる、自分たちによく仕えてくれた召使いやメイドたちがいる。
(僕は守らないといけない。妹を、この人たちを)
それがせめてもの、王子としてのつとめだと思い。だから、勇を鼓して扉を開け、ドラゴン騎士団を出迎えた。
だが、どうにも様子がおかしい。
目の前の騎士は、てっきり自分たちにひどいことをするだろうと思ったのに、跪き礼儀正しく接してくれる。
自分たちを見る目も、今までの大人と違い、優しさを素直に感じられるものだった。
肩を握りしめていたマイアの手から、すこし力が抜けた。
「お姉さまは、お名前はなんというの?」
女騎士の色違い瞳が珍しいようで、興味をそそられたようだった。
モルテンセンは、こんな時になにを言うんだ、と驚き慌てて妹を見返した。その妹の顔は、微笑んでいた。
「ニコレットと申します。どうか、以後お見知りおきを」
「ニコレットお姉さまは、お目目の色が、違うのね」
「はい、父と母の瞳をひとつずつ、受け継いでおります」
「そうなんだ、すごいなあ。そうだ、ニコレットお姉さまは、お年はいくつなの。私はここのつよ」
「わたくしは十八になります。それと、わたしくのことは、ニコレットと呼びください」
安心しきったマイアは、時も状況もかまわず、ニコレットと話をしたいようだった。
驚いたモルテンセンであったが、妹の無邪気な様子に胸が張り裂けそうであった。
が、いつまでも脱線するわけにもいかず。コヴァクスは内心苦笑しつつ、本題に切り込んだ。
「かくなるうえは、モルテンセン王子に王位についていただきます」
「それは、いま?」
「はい、いま、すぐに、です」
しかし、とモルテンセンは迷う。まだ十一歳だ。早すぎる、もっと大きくなってから、と思うのであったが。
「民衆はポレアスの圧政に苦しめられ、その憎しみを抑えるすべを知りませぬ」
「それで、どうすればよいのだ」
民衆の憎しみが自分たちに向けられているのはわかるが、抑えるにはどうすればよいのか、わからない。
「王子、いや、王の思いのたけをありのまま、民衆に伝えるしかありません。なまじ誤魔化そうとしても、火に油を注ぐだけです」
「ありのままに伝えても、同じことになったら」
「……。そのときは、我らドラゴン騎士団が命に代えてもお守りいたします」
今ソシエタスがフィウメ独立軍を率いて治安の安定につとめているが、さてどれほどの効果があるだろうか。これは賭けにもひとしい。
モルテンセンとコヴァクスは、ニコレットとマイアとは違い、互いの目を厳しく見据えて一触即発状態だ。いまだ幼くともモルテンセンも男だった。
「わかった、そなたの言うとおりにしよう」
言うが早いか、モルテンセンは歩き出す。マイアは戸惑い兄の背中にしがみつこうとするが、
「僕に触るな!」
気が立って、つい厳しいことを言ってしまった。マイアは顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙をこぼす。
「ごめん」
気の毒に思いつつ、歩き続ける。幼い兄妹に仕えていた召使いやメイドたちに衛兵らは王子、王子と繰り返しながら引きとめようとするが、またたく間にモルテンセンをドラゴン騎士団が取り囲んだ。
「王子は我らが守る。ご安心くだされ!」
モルテンセンの隣で歩くコヴァクスは叫んだ。彼も必死だった。己の、一国の、数多の人々の命運がかかっているのだ。その重荷が肩にずっしりとのしかかっている。その顔は、二十の若者にしては、年寄りのように厳しかった。
マイアはドラゴン騎士団に取り囲まれて兄の姿が見えないことに不安を覚え、へなへなと座り込んで声を出して泣き出す。
「大丈夫よ、泣かないで」
セヴナが片膝をつき、優しく肩に手を触れる。同じようにニコレットも片膝をつき、マイアを慰める。
「怖い、怖い。どうしてみんな、私たちをいじめるの? 私たち、何か大人たちを怒らせることをしたの? みんな、私たちのことが嫌いなの?」
泣きじゃくり、途切れ途切れにマイアは必死に訴えた。部屋に閉じ込められて、いつも監視され、すこしわがままを言おうものなら「なりませぬ!」と叱責を受けたことさえあった。友達が欲しい、外で遊びたい、ということのなにが、大人を怒らせてしまうのか、幼いふたりにはわからなかった。
召使いにメイドたちはよくしてくれるが、特に仲のよかった者ほど、いつの間にか消えていなくなっていた。
言葉もなかった。
セヴナももらい泣きし、涙を一粒落とした。それから、何も言わずマイアを抱きしめた。
マイアはセヴナの胸の中で泣きじゃくっていた。
「さあ、ゆきましょう」
ニコレットは微笑みながらマイアの手を取り、優しく導きながらともに歩き出す。
しばらく歩けば門にたどり着き、そこでは赤い兵団が門を固く閉ざし、王宮に迫る民衆を押しとどめていた。
見張り台に上ったイヴァンシムとダラガナが必死に冷静を呼びかけている。その甲斐あって民衆は暴動こそ起こさないが、いつ爆発するかわからぬ一触即発の状況の、緊張感ほとばしる空気だった。
「王子、姫!」
幼いふたりが門まで姿を現し、イヴァンシムとダラガナは「時は来た!」と、歴戦の勇士のふたりもさすがに固唾を飲んだ。
いままさに、一国が完全に滅ぶか、危機を乗り越えて存続するかの瀬戸際に立っているのだ。
モルテンセンはコヴァクスとともにグリフォンに乗り、マイアも同じようにニコレットともに龍星号に乗った。
これで、民衆の中に飛び込むのだ。それで、もしどうにもならぬときは、そのまま逃げるのだ。
マイアはぶるぶると震えている。ニコレットは気の毒に思い、左手を手綱からはなしマイアの手を優しく握りしめた。
「何があっても守ってあげる。私たちを信じて」
紅馬に乗ったセヴナがそばに来て、絶えず笑みをマイアに投げかけていた。
赤い兵団もいつでも飛び出せるかまえをしていた。皆、いまから別世界にでも行くかのような緊張した面持ちだった。
中天から傾く太陽は燦々と輝きつつ夕陽へと赤く染まろうとしながら、下界を見下ろしていた。
この太陽が沈んだとき、自分たちはどうしているだろう。
「門を開けよ!」
モルテンセンが命じれば、門は開け放たれた。