第三十六章 神雕王来たる Ⅵ
ニコレットがメガリシ入りして、あらためてイヴァンシムはいかにシァンドロス率いるソケドキアの大軍と戦うのかをニコレットに話した。
話を聞き、頷くニコレットであったが。モルテンセン王自らが戦場に赴くということには、驚きを隠せなかった。
「王……」
ニコレットはモルテンセンに案ずる眼差しを送るが、その王は、笑顔でニコレットを見つめている。
まるで、物見遊山にでもゆくかのような。戦場にゆくということがわかっていないのか。それとも、勇気がそうさせるのか。
戦法自体は異論はない。イヴァンシムの立てた策ならば、たとえ火の中水の中である。しかし、モルテンセンが自ら戦場に赴くのは、危惧を抱かざるを得なかった。
神美帝ドラグセルクセスにその子ムスタファーに、シァンドロスと、国家元首であろうと戦場で騎士や兵士たちと戦う勇気ある者もある。モルテンセンもそのような王になるとはいえ、まだ十をすこし過ぎたばかり。近衛兵やコヴァクスを指南役に剣技などの武芸をたしなんでいるとはいえ、戦場で戦うには心もとない。
兄王が戦場に赴く、というところになると、マイアも心配そうな眼差しを向けるのであった。
だが、これはイヴァンシムが考え出したことで、モルテンセンはそれを受け入れた。
「予のことが心配か。無理もあるまい。予が戦場にいても頼りなさそうだからな」
「いえ、そういうわけでは」
いたずらっぽくニコレットをからかうように言ったモルテンセンだが、ニコレットは咄嗟の演技ができず、目で本音を語ってしまった。
(なぜイヴァンシム殿はそんな危険なことを王にさせるのだろう)
ニコレットはイヴァンシムを見た。老練な赤い兵団の元団長は、表情を変えず、ふたりを見下ろしている。
モルテンセンはやれやれと、くすりと笑った。
「やはりそなたは心配するか。たしかに言いたいことはわかる。しかし、このたびばかりは、予も城にて安閑と過ごすわけにはいかぬのだ。我が国は、言うなれば袋小路に追い込まれている」
ニコレットの色違いの瞳を見つめながら、モルテンセンは己が戦場にゆくことの必要性を説いた。
「シァンドロスとの戦いに敗れれば、予も命はあるまい。命を惜しんで逃げ惑ったところで、追っ手を恐れ、惨めな逃亡生活があるだけだ。それは死ぬよりも辛いことであろう。そうなるくらいなら、王として潔く振舞いたい。だが、敗北を前提に戦うわけでもない。万に一つでも勝てる見込みがあるなら、それに賭けねばならん。そのためには、予の存在が必要なのだ」
ニコレットは思わず息を呑んだ。モルテンセンがそこまで覚悟を決めていたとは。思った以上に勇気のある王だと感銘を受け、あらためて忠誠を誓うのであった。
「予が戦場に出れば、シァンドロスのソケドキア軍はそこに戦力を集中させるであろう。そうさせる必要があればこそ、予は戦場に赴くのだ。これは決して蛮勇ではないぞ」
モルテンセンは終始笑顔であった。ニコレットはその笑顔を見つめるのが、やや辛かった。それはコヴァクスもイヴァンシムも同じことであった。
これを考えるにいたったイヴァンシムとて、平然と思いついたわけでもない。敢えて心を鬼にして、考え付いたのである。それほどまでに、リジェカは追い込まれているということだった。
「お兄さま、どうかご無理をなさらないで」
マイアは不安そうに言った。その脳裏には、モルテンセンが戦場で剣を振るう様が描かれている。が、同時に、どうしても、戦死する様も描かれてしまうのであった。
「お兄さまが死んでしまったら、わたしはどうすればよいのでしょう……」
いまにも泣き出しそうな顔で、マイアはモルテンセンを見つめた。
王女は十になったばかり。不安を抑えることがなかなかできない。モルテンセンはいつくしむ眼差しで王女を見つめた。
王女は無論戦場に赴かない。もし敗れた場合、まずオンガルリに避難し。オンガルリも滅んだときは、オンガルリ王族とともに西方の同盟国に避難する、という手筈になっている。
それをさせないためにも、モルテンセンは戦場に赴くのである。
「情けない話だが、予はそこにいるだけだ。いかに勇気を出したところで、剣を振るって戦うことにおいて目の前のふたり、ドラゴン騎士団には敵わないよ」
安心させようと、モルテンセンはマイアに言った。
「王女様、王の御身はこのニコレットがお守りいたします。どうかご安心を」
同じようにマイアを安心させようと、ニコレットは笑顔で言った。
その言葉を聞いて、マイアは我知らず立ち上がり、王座の下に跪くコヴァクスとニコレットのもとに歩み寄った。モルテンセンとイヴァンシムはそれを静かに見守っている。
マイアはふたりのそばまで来ると、コヴァクスとニコレットはさらに頭を下げたのだが。マイアは跪き床につけられているふたりの左手を取って、
「コヴァクスも、ニコレットも、死なないで。きっと戻ってきてね」
と、泣きそうな顔で言ったかと思えば、ついに抑えきれなくなって、目から大粒の涙がこぼれだした。
手甲に覆われた手に、それを握る小さな手に、涙が落ちてはじけた。
コヴァクスとニコレットは顔を上げて、マイアの泣き顔を笑顔で見つめた。
「はい、きっと戻ってまいります。どうか王女様におかれましては、お心を安んじられますよう……」
優しく、コヴァクスは言った。ニコレットも兄に続いて、
「お約束します。きっと戻ってまいります」
と、優しく言った。
さて、シァンドロスによって壊滅させられたベラード。
数多のしかばねが横たわり、家屋などの建物も焼かれたり、破壊されたりして。
あるのはそれこそしかばねと、残骸と、絶望に打ちひしがれた生き残った人々のみであった。もはや、都市としての機能はなかった。
中心地にある城だけは攻めなかったので無事に残ってはいるが、破壊された都市にたたずむ城は、まるで悪魔の城が地獄界から現世に現れたかのようであった。
ソケドキア二十万の軍勢はもはやベラードにはいない。
リジェカに向けて、べラードを捨て、進軍を開始していた。
軍鼓管楽勇ましく奏でられ。神雕の旗と太陽をあしらったソケドキア国旗が、風を受けてはためいていた。
馬や兵士たちの足取りも軽く勇ましい。
それは、次の戦場を、そして次の破壊を求めて歩んでいるかのようでもあった。