第三十五章 流れる者 Ⅱ
空を見上げていたムスタファーは、ゆるやかな動作でイムプルーツァとパルヴィーンに向き直った。
「そうだな……。だが、罪もない民を傷つけるわけにもいかんし。山賊どもをこらしめたところで、得るものは小さかろう」
「そうです。いかに落ちぶれようとも、ほんとうに山賊になってしまっては、元も子もありません」
「それで、お前はどう考えているんだ」
「はい。いっそ、ソケドキア領となった西へいってみてはと思うのです」
「西へ」
ムスタファーは、このとき明るい笑顔を見せた。なにか、胸の隙間が埋められたような明るさであった。
その笑顔が、イムプルーツァとパルヴィーンには、一瞬まぶしく感じられた。
「お前もそう考えていたか」
「お前も、とは。獅子王子も、そうお考えでしたか」
「そうだ。同じ流れるのなら、追われるのであろうなら、いっそソケドキア領となった西へゆこうか。と考えていた」
西へ。
タールコ西方はシァンドロスの侵攻をうけ、ソケドキア領となってしまった。ムスタファーにイムプルーツァは、その西へゆこうと考えていた。
故国であるタールコにあっても、身を落ち着けられぬであろうし、追っ手もあるだろうし。それなら、こんな境遇になったのを逆手にとって、いっそソケドキア領となった西へゆこうか、と。
山賊稼業のようなことをするにしても、タールコ国内にいては同国人同士で争うことになる。そんな愚はおかしたくなかったが、ソケドキア領となった西方ならば。
ムスタファーはそれを考えてはいたが、エスマーイールの死によって考えはしても行動にうつそうとする気力に乏しくなっていたようだ。それが、イムプルーツァの言葉によって、行動にうつそうという気力が起こってきたか。
「ゆくか」
ムスタファーは瞳を光らせてイムプルーツァに言った。その瞳の光りは、さっきのようにまぶしさを感じさせず、どこかやわらいでいるように思えた。
新皇帝マルドーラはシァンドロスと戦いの果てに敗れて、ほうほうの体で都エグハダァナに逃げ帰った、というなんとも無様なものをさらしてしまった。
エグハダァナに落ち延びるや、守りを固めソケドキアの東征に備えたが。周囲からの評判は、いいものではない。どころか、これもむごいことにふしだらな獅子皇よりその落ちっぷりは急なものだった。
「新皇帝はソケドキア軍に敗れて、臆病にも逃げ惑っていたというぞ」
「なんとも不甲斐無いことではないか」
「ソケドキアが東征をはじめてから、タールコは敗戦続き。いったいどうしたことだ」
「神美帝も崩御の直前まで、ご様子がおかしかったが」
「それでもご存命なら、どうにかなったであろうが。後を引き継ぐ御曹子が……」
「兄はふしだら。弟は臆病。こんな様で、国がたもてるのか」
などなど、エグハダァナの官民こぞって、陰口をたたく有様だった。
マルドーラは宮廷に引きこもり、ガーヌルグをそばに置き、片時も放さぬとばかりに、ガーヌルグよ、ガーヌルグよ、と宰相に相談をもちかけるというより、不安を矢継ぎ早に語るのであった。
ガーヌルグは、この若い新皇帝に呆気にとられるとともに、失望させられる思いだった。
(なんという不甲斐無いお方であろうか)
ガーヌルグの胸のうちにうずまく渦巻きは、渦巻きの刺激する復讐心は、神美帝ドラグセルクセスに向けられこそすれ、タールコの国そのものに向けられたわけではない。
神美帝の後を継いだ獅子皇ムスタファーを追い、己の立てた新皇帝を樹立し、国を立て直すことが、ガーヌルグの望みであり、渦巻きの刺激するところであった。
だが、当てが外れたという失望感が、渦巻きをあらぬ方向にみちびき、刺激はいやがうえでも失望へと向かわざるを得なかった。
その失望は新皇帝マルドーラから、タールコの国そのものへと広がってゆく。
(この国は、もう終わりだ)
一瞬、ガーヌルグはそう考えたが。さすがにタールコの国そのものに失望を覚え滅びを望むのは怖れるところではあったが、その望みは、渦巻きは抗いようもなく、胸を突くのであった。
ともあれ、マルドーラが臆病風に吹かれて宮廷に引きこもって、イルゥヴァンやガーヌルグら臣下や人民からの評判を落そうとも。アーベラ要塞の包囲網から姿を消したムスタファーをそのままにしておくことはなく。
「国を乱そうとしたムスタファーを探し出し。エグハダァナに引っ立てよ。生死は問わぬ」
と己のことを棚に上げて、ムスタファー捜索隊及び討伐隊を編成して、派遣したのであった。
これは、ガーヌルグが呆れながらもマルドーラに進言したことでもあった。宰相にしてみれば、己の立てた皇帝であるし。まだ若い。と自分に言い聞かせて、胸のうちはどうあれどうにか見捨てることなく、宰相として皇帝を支えようとしていた。
となれば、連座で宰相の評判も悪くなる。
「そもそも、新たな皇帝を立て獅子皇を追うようことを進めたのは宰相のガーヌルグではないか」
そんなことが、宮廷内外の官民にささやかれていた。
そんな都や宮廷のことなど知らず、ムスタファーは西へゆく旨をついてきた百余名の騎士や兵士に告げた。
そうすれば彼らは、
「いかなる境遇になろうとも、ソケドキアに一矢報わずにいられるものか」
と、ことのほか意気も高かった。
彼らはこのまま山賊風情に堕ちてしまうのであろうか、と不安を抱いていた。だからなおさらだった。
どのような境遇にあっても、彼らはタールコの戦士でいたかったのだから。




