第三十三章 西方戦線 Ⅰ
ラハントはコヴァクスとニコレットを見据えて言った。
「その気になれば、不可侵条約など破棄し、オンガルリ・リジェカの二ヶ国に攻め込めるのだぞ」
「その物言いは、どういうことだ。脅迫か」
コヴァクスはラハントを睨み返す。が、ラハントも歴戦の勇士なのであろう、ふたりを前に一向にひるまないどころか大きく出る。
「そう思うなら、思ってもよろしい。そもそも、この不可侵条約、受けてやったのだ。その好意に応えるため、牽制などせせこましいことはせず、一部でも領土を奪うべきではないか」
革命起こり、皇帝が代わる事態があったタールコだが。ラハントは愛国心が強いのか、なにがあろうとタールコが大帝国であると信じているようだった。
オンガルリ・リジェカを取り戻されたが、その気になればまた征服できる、とも思っているようだ。
「もし勅旨にしたがわぬのであれば、このこと本国に報告し、しかるべき処置をしてもらわねばならん」
しかるべき処置、とはオンガルリ・リジェカの二ヶ国に攻め込むことだろう。ソケドキアと渡り合っている最中でも、タールコはその余裕があるとみえる。
どうあれ、不可侵条約を破棄され、攻め込まれて困るのは確かだ。思えば、この不可侵条約は皇帝が神美帝ドラグセルクセスに獅子皇ムスタファーだったからこそ締結できたのかもしれない。
もしそうでなければ、蹴られていたということだろうか。ラハントは不可侵条約にはいい印象を抱いていない。おそらく、他にも同じ思いの者は多いだろう。
コヴァクスは拳を握りしめ、ニコレットは色違いの瞳でラハントを見据えた。
さてどうするべきか、と思ったときだった。
「申し上げます。ソケドキアより使者!」
と臣下が幕舎に入ってきた。
「なに、ソケドキアから……」
コヴァクスにニコレット、ラハントは意外な思いで臣下を見た。
「は、是非小龍公と小龍公女にお取次ぎを、とのことでございます」
「……。通せ」
「ははっ」
臣下は一旦下がると、ソケドキアの使者を連れて幕舎に入ってくる。使者はうやうやしく一礼し、書簡を読み上げた。
「我が国タールコと渡り合い。また条約により貴国らも我が国に侵攻すること。予は恨みに思わず。むしろ予は西方の国々とは誼を通じたしと願うものなり。よって、我が国と貴国らと誼を通じるため、小龍公女に婚礼を申し入れたし。その応えいかんにより、予は西方の処遇を考えるものなり」
書簡が読み上げられるのを聞いて、特にニコレットは唖然とした。シァンドロスは西方の国々、オンガルリとリジェカと同盟を結ぶことを望んでいるようだが。なんとそのために、ニコレットに求婚するとは。
あのとき、同盟が決裂したとき、シァンドロスは「我が妻になれ」と言ったが。きっぱりと断った。にもかかわらず、あきらめずにまた求婚を申し入れるとは。
しかも、その応え次第で処遇を考えるということは、断れば攻め込む、ということなのだろうか。
ソケドキアの使者を怪訝そうに見据えるラハントだが、書簡読み上げられるをきき、知らずにほくそ笑む。どうあってもオンガルリ・リジェカはソケドキアと戦争をせねばならぬ状況になってきているからだ。
それにしても、タールコに東征する一方で西方にも出兵できる余裕がソケドキアにあるとは。そこまで兵力は大きいものになっていたのか。
それにひきかえ、オンガルリにリジェカは……。
強大な二ヶ国と国境を接し、再興を果たしたとはいえ征服される危機が常につきまとう。
「以上でございます。この書簡をお受け取りあれ」
使者はコヴァクスに書簡を手渡す。雕の紋章の蝋印が押されている。
「それでは、よき応えを期待しておりまする」
と言って、使者は帰っていった。
いまこそと、ラハントはソケドキアへ攻め込むことを説きまくる。
それにしても、なぜシァンドロスはこんな求婚をいまになってしてきたのだろう。タールコ東征の最中ではないのか。
ニコレットは一旦断ったのをまた申し込まれ、憮然としている。しかも断れば攻めるなどと言われて、胸糞の悪い思いにさせられていた。こんな告白をするような男と、どうして結婚などできようか。
「私は、シァンドロスなどの妻にはなりません」
ニコレットは強い口調でそう言った。無論、コヴァクスも首を縦に振る。
「あいつめ、東征をしながらも西方も見据えているということか。抜け目のない奴よ」
ニコレットに求婚をしても結果はわかっているはずだ。シァンドロスもそこまで節穴ではないはずだ。ならなぜ、と考えれば。
理由は簡単だ。オンガルリ・リジェカの二ヶ国に攻め込み征服するため。なにより、その二ヶ国には音に聞こえしドラゴン騎士団がある。
求婚を受け入れればよし。さもなくば、潰す。シァンドロスにとってドラゴン騎士団は、やはり後顧の憂いだということなのだろう。