第三十二章 報復と反逆 Ⅲ
反乱が起こった。いまのところこれを知るのは獅子皇ムスタファーら近しい臣下らであったが。
これを皆に伝えれば、ひどく動揺しよう。
しかもその内情が、内情だけに。
獅子皇ムスタファーがエスマーイールと愛し合っていることは確かだった。獅子皇は愛する女性の身分などに頓着しなかった。内心、エスマーイールを正式に妻として迎え入れるつもりだった。
だがそれが、帝国を、兄弟を分断することになろうとは。
(侍女だからなんだというのだ。エスマーイールは美しいだけでなく、聡明で勇敢な女性だ。彼女が皇后になることに、なんの不都合があるのだろう)
皇后になれば、きっと立派に皇后としてのつとめもはたすであろう。
それは許されないことなのか。
エスマーイールはうつむき。身を震わせながら沈黙していた。
(弟君のマルドーラ様が立ち上がられたのは、私のせいなのだろうか……)
獅子皇ムスタファーの寵愛を一身に受け。それだけでも、彼女は幸せだった。だからといって、皇后になってやろうとは思っていなかった。それはとても畏れ多いことだ。やはり皇后はしかるべき身分の女性から選ばれるべきであろう。
(私のせいで。私がいなければ……)
エスマーイールは自問し、苦悶した。
自分の存在が帝国を分断したと思うと、心は八つ裂きにされたように苦しかった。
「どうなさいますか……」
イルゥヴァンがおそるおそる獅子皇ムスタファーに今後のことを尋ねた。
こうなっては、アーベラの要塞に篭るシァンドロスにかまっているどころではない。獅子皇ムスタファーは決断を迫られていた。
どうするべきか。
腹心イムプルーツァも、ことがことだけに、何も言えず押し黙っている。彼も侍女であるパルヴィーンを可愛がっているが、彼の場合侍女を正式に妻に迎え入れても問題ない。事実、いままで付き合った女性の中でパルヴィーンが一番相性がよいようで、正妻に迎え入れることを考えていたが。
獅子皇ムスタファーがそんな風に侍女のエスマーイールを皇后に迎え入れる気持ちがあったなど、考えもしなかった。だから、いまの獅子皇ムスタファーとエスマーイールを交互に見据え、驚き戸惑いを隠せなかった。
(オレでさえ驚くくらいだから、他の者たちは驚くなどというものではないだろう)
イルゥヴァンを見れば、怪訝そうに獅子皇ムスタファーを見ている。彼は侍女が皇后になることを許しはすまい。
「オレはエスマーイールを皇后にするつもりなどない。マルドーラやガーヌルグの言うことは、まったくの言いがかりであり。彼らこそ私心あって反乱を起こしたのであろう」
イルゥヴァンは、イムプルーツァが思うとおり、獅子皇ムスタファーがそう言うことを期待していた。
だが、獅子皇ムスタファーは、それを言わずに黙っているばかり。
(まさか、弟君や宰相の言うことは、まことなのか。ならばタールコの歴史に泥を塗ることになるのではないか)
侍女が皇后になるなど、前代未聞だ。タールコは西方の新興国のような粗野な国ではない。戦乱のどさくさに紛れて一兵卒から王になるなど、タールコではありえぬことであり。それと同じように、皇后も一介の侍女や平民の女がなることなどありえないことだ。
血筋の信仰は、タールコの人々の心に根を深くおろしていた。侍女が皇后になるのは、汚れる、とまではいわぬが、清らかな水が濁るような感覚におそわれるのだった。
イルゥヴァンだけではない。騎士の話を聞いて、獅子皇ムスタファーの様子をうかがっている近しい臣下たちは、まさか、と獅子皇をじっと凝視している。
皇帝の血筋に濁りを加えるのか。ことによっては、心底そう思うだろう。
「獅子皇……」
イムプルーツァはやっとの思いで口を開いた。
「なにがあろうとも、それがしは、獅子皇に忠誠を誓い、お仕えもうしあげますぞ」
それは獅子皇ムスタファーを励ますのみならず、己も励まし。怪訝な目で獅子皇ムスタファーを見る臣下たちを牽制するためであった。
分裂が分裂を呼ぶことだけは避けたかった。せめて、いまアーベラの要塞を包囲している軍勢にだけは、獅子皇の軍勢であってほしかった。
なにより、イムプルーツァとしては、なにがあろうと獅子皇ムスタファーに対する気持ちは変わらなかった。変えたくなかった。彼にとって、皇帝は獅子皇ムスタファーに他ならなかったし。
エスマーイールを皇后にしたいなら、すればいいと思っていた。
(マルドーラに、ガーヌルグめ……)
獅子皇ムスタファーの身が震える。拳を握りしめている。
(ソケドキアの蛮族も憎いが、マルドーラにガーヌルグも憎い……)
内外から、心から憎いと思う者が出ようなど、獅子皇ムスタファーは夢にも思わなかったことである。ことに、内から、どころか弟と宰相が反乱を起こすなど。それも、エスマーイールを理由に。
愛憎というべきか。弟のマルドーラも宰相のガーヌルグも、獅子皇ムスタファーによく仕えタールコを支えてくれていたことに、親愛の情も感じていたというのに。それを裏切られるのは、ソケドキア兵に民を虐殺されるのと同等の衝撃と憎しみを覚えざるを得なかった。
国が乱れてしまっては、他国との戦争どころではない。ソケドキア軍はある程度叩くことができたことであるし、ここは、エグハダァナへ向かうのがよいだろうか。
獅子皇ムスタファーは悩み、苦悶した。
エスマーイールも、同じだった。
(私は、過ちを犯したのだろうか)
そう思うと、己の存在が疎ましかった。自分さえいなければ。そんな思いが強まってゆき。
咄嗟に獅子皇ムスタファーの帯剣を抜き取ると。
その剣で、己の胸を貫いた。
「エスマーイール!」
獅子皇ムスタファーの悲痛な叫びが響いた。