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第二十九章 神美帝崩御 Ⅱ

 ソケドキアの東征がの準備が着々と進む中で、タールコはオンガルリ・リジェカの二ヶ国と不可侵条約を締結し、じっくりと国力を回復させていた。

 もとが巨大な帝国である。国力の回復は問題なく進んでいた。しかし、憂うべき事態が新たに現出した。

 それは神美帝ドラグセルクセスの変わりようであった。

 精力に満ち溢れ神のごとき威厳を備えていたドラグセルクセスは、ガウギアオスでの敗戦以来変調をきたし。政務をおそろそかにし、酒と惰眠と貪るようになり、人前に出なくなった。

 タールコの臣下たちは頭を抱え、悩み、実情は秘したうえで、病にかかられたということを神美帝が人前に出ない理由として、帝国に向け公にした。

 まつりごとは皇后シャムスにアスラーン・ムスタファー以下、臣下たちが力を合わせ神美帝不在にもひとしい状況を補っている。おかげで、国が傾く、ということはないが。

 神美帝ドラグセルクセスが病である、ということは、国力回復につとめるタールコの喉にひっかかるような憂いであった。

 神美帝を慕う帝国民といえど、

「神美帝は、天に召されるのであろうか」

 と憂いを隠さなかった。

 回復の一方で、タールコにほの暗い影が覆うようであった。

「もうこれはお病といってもさしつかえないかと」

 典医が憂いて言う。話を聞いたシャムスとアスラーン・ムスタファーは、憮然とするしかなかった。

 シャムスは奥の間にアスラーン・ムスタファーと典医を招き、以後のことを話し合っていた。

「ことに、お心にお病を抱えておいでのようで」

「お心に?」

「はい、皇后様。神美帝はなにか、人に言えぬことがあるようで。それが、お心を蝕み、さらにお体まで」

「なんと」

 アスラーン・ムスタファーは拳を握りしめる。皇后にも皇子にも言えぬこととは、一体なんであろう。

 そのために心身が蝕まれ、国を危うくするなど。よほどのことだと思わざるを得ない。

「ガウギアオスにてお敗れになったことを、悔いているのでしょうか」

 皇后は典医に言うが、首を横に振られる。

「それは、どうでございましょう。先のおいくさよりも、もっと、大きなお悩みではないかと、推測されます」

「もっと大きな悩み、ですか……」

 どうも、神美帝は一人で大きなものを背負っているようだ。それは帝国よりも重いというのか。

 それからシャムスはことあるごとにドラグセルクセスに会い。悩みを聞きだそうとそれとなく話を持ってゆくのだが、何を言っても、

「言いとうない」

 ばかりであった。

 これにはシャムスもほとほと困り果てた。

「神美帝あってのタールコ。どうか、ご自愛を」

 と言えば、

「予亡きあとは、ムスタファーが獅子皇ししおうとなってタールコを背負ってくれよう。憂うに及ばず」

 とまで言うではないか。

 神美帝の心を、何が達観させ、あきらめさせるものがあるのであろう。

 その、死んだ魚のような目は、何を見つめているのだろう。

 シャムスは神美帝の変わりように衝撃をうけ、奥の間に戻ると侍女や女官をすべて払わせて。泣きに泣いた。いままでにないくらい、涙を流した。

 シャムスの悲しみは、タールコの影をよりいっそう濃いものにした。

 アスラーン・ムスタファーも父に会うが、そのたびに、

「タールコを頼む」

 ばかりであった。

 アスラーン・ムスタファーは稽古場にゆき、剣をやたらめったら振り回し、

(父の心は死んでしまったのか!)

 口にこそ出さぬが、心ではそう叫んでいた。心が死ぬというのは、身体が死ぬにひとしく、生ける屍ではないか。

 神美帝として近隣に鳴らした皇帝が、生ける屍になってしまい。アスラーン・ムスタファーも子として、皇子として、衝撃大きかった。 

 典医も心身を砕く思いで治療にあたるも、肝心のドラグセルクセス自身が治ろうと思わぬのでは、手のほどこしようがなかった。

 日に日に、顔色も悪く、顔つきも目つきも衰えてゆくのが、痛いほどわかった。

 

 神美帝病にたおれる。この報せは、周辺諸国にも伝わった。もはやタールコの帝国においても公にすることであるから、それが他国に知られぬわけがなかった。

 もっとも、病を公にするとともに獅子王子アスラーン・ムスタファーの存在感も増していった。期待されている皇子である、神美帝がもし亡くなるとも、アスラーン・ムスタファーが跡を継いでタールコを治め、父の雪辱を果たすであろう、と帝国内では期待され、ソケドキアでは警戒され、オンガルリ・リジェカにおいては静観された。

 

 神美帝は、やはり寝台に横たわっていた。

 首を何度も右に左に振り、口はかくかくと動き、なにかうなされているようであった。

「ど、ドラヴリフト……」

 口から漏れる言葉。何度も何度も、ドラヴリフト、ドラゴン騎士団と唸っていた。

 戦場にて、ドラゴン騎士団と渡り合っていた。

 ドラゴン騎士団の騎士や将卒、そしてドラヴリフトは、皆血まみれであった。それは屍を食らうとされる化け物、屍鬼グールのようであった。

 屍鬼のような軍隊は、斬っても斬っても死なず、自軍の兵士を食らいながら怒涛のことく襲い掛かってくる。

 ドラグセルクセスはやむなく退却の命を下したが。

 逃げられない。

 逃げても逃げても、追ってくる。

 やがて、タールコの騎士も戦車も兵士も、すべて食い尽くされて、ドラグセルクセスひとり取り残されて、屍鬼に取り囲まれた。

 血まみれのドラヴリフトと、その隣にはエルゼヴァス。エルゼヴァスとは会ったことがないので、その顔はぼやけいた。噂に聞いた金髪が血にぬれて真っ赤になっていた。

「ドラヴリフト、エルゼヴァス……。ドラゴン騎士団!」

 唸れば、それを合図に、屍鬼のようなドラゴン騎士団がドラグセルクセスに襲い掛かる。

 はっ、と目を開く。部屋は真っ暗であった。

「お、おおっ……」

 暗闇の中に、血まみれのドラヴリフトとエルゼヴァスが、見えた。

「おのれ!」

 ドラグセルクセスは剣をとり、ドラヴリフトとエルゼヴァスに斬りかかった。

「おのれ、おのれぇー!」

 斬っても斬っても、剣は空を切るばかり。ドラヴリフトとエルゼヴァスは消えない。そう、ドラグセルクセスは幻影を見ているのだが、もはやそれにも気づかなかった。

「なにごとでございます!」

 典医や臣下らがドラグセルクセスの叫びを聞き、寝室に飛び込んできた。

「お気を確かに!」

 暗闇の中無闇に剣を振り回すドラグセルクセスを見て、臣下がひとり止めに入った。が、しかし。

「お、おのれドラヴリフト。予をあくまでも呪うか」

 そう叫び、臣下を袈裟懸けに斬り殺してしまった。

 臣下は悲鳴を上げて、血をぶちまけ、たおれて動かない。

「神美帝ご乱心!」

 典医や臣下らにも、ドラグセルクセスの狂乱が移ったようで。それは波紋のように広がり、神美帝狂乱の騒ぎは宮廷を包んだ。

 それは皇后シャムスとアスラーン・ムスタファーの耳にも届き、急ぎ寝室に駆けつける。

 ドラグセルクセスの狂乱を目の当たりにして、シャムスは言葉も出ず口を手で覆い。アスラーン・ムスタファーは暴れる父を取り押さえにかかった。

「父よ、気を確かにもたれよ!」

 振り回される剣をよけ、背後にまわる。だが剣技において優れた腕前をほこるドラグセルクセスである。すぐに振り向きざま、横なぎにアスラーン・ムスタファーに斬りかかった。

 アスラーン・ムスタファーはすんでのところですぐによけて、遠のく。

「父よ、ムスタファーでございます。おわかりにならぬか!」

 叫べど叫べど、父の耳には入らぬ様子であった。

「ドラヴリフト、予を、呪い殺すか」

「何を言われる!」

 このとき、アスラーン・ムスタファーも皇后シャムスも、ドラグセルクセスが胸に秘めるものをさとった。

 ドラグセルクセスはドラヴリフトを策謀によって陥れたことを悔いているようだった。それが知らず知らずのうちに、大きくなってしまったようだった。

「予は、タールコを治めねばならぬ。うぬに呪い殺されはせぬぞ!」

 しっちゃかめっちゃかに剣を振り回し、誰しもが近寄れず、遠くから逃げ惑うしかなかった。

 ドラグセルクセスの足がもつれはじめた。

「父よ、父よ!」

 アスラーン・ムスタファーは何度も何度も叫んだ。叫ぶうち、ドラグセルクセスの足元はおぼつかなくなってゆく。剣を振り回すうちに疲労が出たようだ。

 あろうことか、剣を振り回しながら、足をもつれさせて、転倒した。

「あ、ああー!」

 悲鳴があたりを包んだ。

 ドラグセルクセスは転倒しざまに、己の手に握る剣は腹を貫いたのだった。

 血がとめどもなく溢れる。

「神美帝!」

 典医が駆けつけ、すぐに血止めの処置をほどこそうとする。だがドラグセルクセスは剣が腹に貫いたままで、また立ち上がろうとし、典医を突き飛ばした。

「ドラヴリフト、屍鬼となって我を食らうか」

(狂っている……)

 もはや正気の沙汰ではなかった。腹に剣を貫かせたまま、ドラグセルクセスは暴れまわり。周囲を呆然とさせた。

 血が溢れては腹から足にかけて伝い、床を真っ赤に濡らす。

 やがて、動きがとまるとともに、たおれこみ。

 ぴくりとも動かなかった。

 典医はすぐに駆け寄り、脈を取った。

 首を横に振った。

「みまかわれました……」

 典医が告げると、周囲は悲鳴につつまれ。

 皇后シャムスとアスラーン・ムスタファーも駆け寄り、ドラグセルクセスのなきがらを見つめた。目からは涙がとめどなく溢れた。

 ドラグセルクセスは顔は頬こけ、目を見開き、口も大きく開かれて何かを訴えようとしているようだった。シャムスは正視できず目を閉じ。アスラーン・ムスタファーも、目を閉じ。拳を握りしめた。

 神美帝として近隣に鳴らしたドラグセルクセスであったが、よもや最期をこのようなかたちでむかえようとは、周囲の者はもちろん己も夢にも思わなかったであろう。

 それは、ドラグセルクセスでさえいかんともしがたいほどに、歴史が激しく揺れ動いているということなのかもしれない。

 ドラグセルクセス、時に四十一。その威厳と尊称からは想像もつかぬ死に様であった。

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