第二十九章 神美帝崩御 Ⅰ
陽も高く、窓から陽光差し込む寝室で。神美帝ドラグセルクセスは寝台に横たわり、深い眠りについていた。
だが、がばっと突然上半身起き上がり。
「ドラヴリフト……」
とつぶやくと、わなわなと身体を震わせるではないか。
夢を見た。
戦場でドラヴリフト、ドラゴン騎士団と渡り合い。ドラヴリフトと一騎打ちとなった。火花散るほどに剣を交えている最中、ドラヴリフトはくるりと背を向け、遠ざかってゆく。
「待て!」
と言っても耳を貸さず、ドラヴリフトは遠ざかり。やがて見えなくなった。
何度も何度も、「待て!」と呼びかけたが。呼びかければ呼びかけるほど、ドラヴリフトは遠ざかってゆく。遠ざかってゆきながら、こちらを振り向くその目つきは冷たいものだった。
「いかにドラヴリフトを望もうとも、手に入れること叶わず。雌雄決することもなく……」
ドラグセルクセスはドラヴリフトを配下に欲していた。それができずとも堂々と渡り合い、雌雄を決したかった。しかし、オンガルリ攻略を急ぎ策を弄した。
それはうまくいったかに思えた。しかし、ドラヴリフトのふたりの子の働きによって再興。タールコの征服は水泡に帰した。
これは、策を弄した罰なのだろうか。
「神美帝と呼ばれ畏れられた予だが……。なにが神美帝なものか」
こんなことなら、策を弄さず、堂々と雌雄を決すべきであった。ならば敗れるともそれを受け入れることもできたであろう。
さすがドラヴリフト、ドラゴン騎士団である。我が雄敵である、と。
「予は、予は取り返しのつかぬ過ちを犯してしまった」
そう思うようになったのは、ガウギアオスの戦いにおいてドラヴリフトの子息と一騎打ちをしてからであった。
あの時は一騎打ちを優位に進め、相手の剣を折り、討ち取る寸前までいった。そのときの、あの子息の、小龍公の眼差し。
憎しみのこもった眼差しであった。神美帝として敵を討つに、ここまで憎しみのこもった眼差しで見つめられることは、はじめてのことだった。
いや憎しみの眼差しを向けられることは、これまでの戦いの人生において決して珍しいことではない。にもかかわらず、小龍公の眼差しにこもる憎しみは、深く胸に突き刺さったのだ。
「よくぞ策を弄し、我らをもてあそんだ」
あの眼差しにこめられた憎しみを言葉にすれば、そんなところであったろう。
その眼差しを受け、一瞬金縛りにあったようだった。
あの一瞬にためらわず剣を振り下ろせば、小龍公は討てたろう。だができなかった。そうする間に、ソケドキア軍の乱入され、退却のやむなきにいたった。
それまでの一瞬、小龍公の後ろにドラヴリフトを、その妻エルゼヴァスを見た思いだった。
ドラヴリフトも、エルゼヴァスも、
「無念」
と言いたげな眼差しだった。
堂々と雌雄を決するのではなく、策に陥れられたこと、ドラヴリフト、エルゼヴァスもさぞ無念であったろう。
その子ら、小龍公および小龍公女は父母の無念を晴らさんと幾多の試練を乗り越え、オンガルリのみならずリジェカまで再興させたではないか。
ならばあの策は、ドラヴリフトとエルゼヴァスのふたりの子を英雄にするために弄してしまったようなものではないか。
一瞬だけ見た、ドラヴリフトとエルゼヴァスの幻影。ドラグセルクセスは、それからできるだけ遠くへ逃げるために、帝都トンディスタンブールを捨てエグハダァナへと駆けた。兎にも角にも、遠くへ逃れたかった。
当時は冷静に判断していたつもりだったが、振り返ってみれば、それは錯乱していたのではないか。
帝都トンディスタンブールに逃れて篭城戦で持ちこたえ、エグハダァナをはじめとする諸都市からの援軍を待てば、リジェカ・ソケドキア連合軍を追い払うことができたではないか。
一体、己はどうしてしかったのであろうか。
「滑稽だ。まさに滑稽ではないか」
と、ドラグセルクセスは、己を責めた。
責めるうち、気力や精力が全身から抜け出てゆくような感覚に襲われ。なにをするにも、億劫になってしまった。
それは誰にも言わず、己の胸のうちにしまいこんでいた。
「このようなことなら、策など弄せず、ドラヴリフト、ドラゴン騎士団と堂々と渡り合い、雌雄を決すべきであった」
そう思うと胸が張り裂けそうだった。その悔いは膨張をして、まさに胸を破裂させるようだった。
神美帝ドラグセルクセス、生まれてはじめて抱く悔いであった。
その悔いは、ドラグセルクセスの心身を蝕んでいた。
さてソケドキア領となったトンディスタンブール。
シァンドロスは都をヴァルギリアからトンディスタンブールに遷した。そのため、ヴァルギリアに居住していたソケドキアの武官、文官ら臣下たちは、新しき都へと大掛かりな引越しをせねばならなかった。
それはやはり時間を要し、その間は他国へ攻め込むなどできなかったが。シァンドロスは東征を見据えて、軍の増強、訓練を怠らなかった。
軍の増強においては、出自を問わず、トンディスタンブールはもちろん旧都ヴァルギリアをはじめとする各地で兵を募った。それができるのも、トンディスタンブールをソケドキアのものとできたのが大きかった。
それまでのソケドキアの富にトンディスタンブールの富が加われば、十万の軍勢を養うことができた。
各地から様々な者たちが、新兵の募集を聞きつけソケドキアに、そしてトンディスタンブールに集結する。
無論、都の中に全てを入れることができないので、城壁の外では新たに集落ができたかのように兵舎が造営されていった。
シァンドロスの夢見る東征に、大帝国建国は実現に向けて着々と進められていた。
それとともに、タールコに探りを入れているのは言うまでもなく。タールコがオンガルリ・リジェカと不可侵条約を結んだこと、条約を結ぶ条件として、オンガルリ・リジェカの二ヶ国はソケドキアの動向を注視し、事があれば出征して背後を突くことが、シァンドロスの知れるところとなった。
また、神美帝ドラグセルクセスの容態に変化があったことも、シァンドロスの知れるところとなった。
「タールコは、いままさに落日を見る思いであろう」
とシァンドロスは言った。
神美帝の変化は、いまやタールコ帝国中に知られることであった。政務をおそろかにし、酒と惰眠を貪る様はどうにか隠しているものの。容体悪化ばかりは、人前に出ないために、隠そうとして隠せるものではなかった。
このためやむなく、皇后シャムスにアスラーン・ムスタファー、臣下たちは協議のすえに、神美帝の容体悪化を公にせざるをえなかった。
しかし、
「神美帝亡くなるとも、獅子王子、獅子皇になりて帝位につかんとする、か」
臣下たちと協議の最中、シァンドロスはそう言った。
たとえ神美帝の容態が悪化し崩御しようとも、その後にはアスラーン・ムスタファーがいる。そのため、人々にさほどの動揺はないという。
「落日ののち満月のぼり、そして朝に新しき朝日を迎えましょう」
ガッリアスネスはこれからのタールコをそんな風に表現した。
「神美帝崩御に期待するのは、愚かなことだな」
つまり、タールコを治める者が変わろうとも、強敵であることに変わりはない、ということだ。
皇后シャムスも聡明な女性である。一時は悲しみに暮れようとも、皇后としての責務を怠るとは思えない。
皇后と獅子皇となったムスタファーが力を合わせ、神美帝亡きタールコを治めるだろう。
「して、不可侵条約が締結されることによって、後顧の憂いはさらに大きなものになるでしょうか」
「ならぬ」
シァンドロスはペーハスティルオーンの問いに即答した。
「ならぬでしょう。両国とも再興を果たしたばかり。これから国造りに励まねばならぬときに、他へ攻め入る余力があるともおもえませぬ」
シァンドロスに代わり、イギィプトマイオスがそう言った。協議のおこなわれる天宮の広間の片隅では、従軍史家ヤッシカッズが他の文官とともに協議を記録していた。
協議はこれからのタールコがどうなるのか、が主な議題であったが。どうも、大きな混乱はなさそうだ。
むしろ、ガッリアスネスが表現したように、新しき朝日が昇るように、ムスタファーが獅子王子から獅子皇になってタールコを治めるであろう。
若く溌剌とした獅子皇のもとで、タールコは国力を回復し、雪辱を果たそうとするのは容易に想像できることだった。
「むしろ、神美帝にはいまのままで、長生きしてもらわねばならんな。皆の者、神美帝の余命ながらえさせよと、神に祈るがよいぞ」
諧謔を含んだ不敵な笑みで、シァンドロスは一同に言うと。笑い声が起こってあたりを包んだ。
そこで、これからのタールコについての協議は終わった。
それから、オンガルリ・リジェカをどうするかについてに協議はうつった。
シァンドロスはガッリアスネスを一瞥する。
「西方は、予はさほど興味はないゆえに、わざわざこちらから攻め入って労力をもちいることもあるまいが。東征をすれば、あのドラゴン騎士団だ、律儀にも、無理を押してソケドキアに攻め入るやもしれぬ」
イギィプトマイオスは、オンガルリ・リジェカに余力なく心配ないと言ったが。シァンドロスはそう思ってはいなかった。
「イギィプトマイオスよ、忘れたかドラゴン騎士団を」
「や、これは、迂闊でございました」
イギィプトマイオスは己の不明を恥じ入った。そう、オンガルリ・リジェカの両国にはドラゴン騎士団がいる。不敵なシァンドロスも、ドラゴン騎士団ばかりはなめてかかることはできなかった。
「東の獅子、西のドラゴン。畢竟、羽ばたく雕はその両雄との戦いは避けられぬ」
己を羽ばたく雕にたとえつつ、シァンドロスは両者に思いを馳せていた。
両雄並び立たず、と言われる。が、この場合、三雄並び立たず、であろうか。
間に挟まれる格好である神雕王シァンドロスは、西方に興味はないと言いつつ、ドラゴン騎士団のことを思うと、まったく無視もできなかった。
とはいえ、自身の東征は揺るがない。ならば西方の守りには、それなりの者を配さなければならぬ。一時は西方の地理や風俗に明るいガッリアスネスに西方の守りを任せようと思っていたが。
どうも、ガッリアスネスは以前のような武辺さを失いつつあるようだ。
(師のヤッシカッズめが、余計なことを吹き込んだか)
シァンドロスはガッリアスネスの変化をそう見ていた。ヤッシカッズは王の方針に批判的なきらいがある。ガッリアスネスもその影響を受けているようだ。
ならば、彼に西方の守りという重責を任せるわけにはいかない。
西方に話がおよんだとき、ガッリアスネスを一瞥したのは、そのためだった。
ガッリアスネスは、東征に連れてゆく。そこでの働き次第で、彼の処遇を決めようと、不敵なシァンドロスは考えていた。
「イギィプトマイオスよ、西方の守りはそなたに任せる」
「はッ! 喜んで」
西方の守りにつくことを任命されたイギィプトマイオスは、喜び勇んで任を引き受ける。
(王に拳を見舞ったこと、後悔させてくれよう)
決別のとき、コヴァクスは怒りに任せてシァンドロスに拳を見舞った。そのことは忘れていない。
「よく守ってくれよ」
そう言うと、シァンドロスは玉座から立ち上がり、広間を退出しようとする。いま郊外では軍の訓練がおこなわれているはずだ。
その訓練の視察にゆくのだ。東征の日取りを決めるのは、訓練次第。さてどの程度、増強した軍は、ソケドキア軍こと神雕軍は使い物になっているであろうか。
事を運ぶに迅速を尊ぶシァンドロスだが、このときばかりはじっくりと時間をかけて軍の強化をはかっていた。