第二十八章 不可侵条約 Ⅱ
翌日、エグハダァナの宮廷広間にて。玉座に神美帝ドラグセルクセスの姿はなかった。その代理として、アスラーン・ムスタファーは玉座のそばに立っていた。
その顔は、曇りがちだった。隣の皇后の座にはシャムスが座しているが、同じように曇った顔をしていた。
オンガルリ・リジェカの使者は不思議そうにしていた。
「神美帝はご容態がすぐれぬゆえ、代わって皇太子である予がおぬしたちに昨日の返答をしよう」
アスラーン・ムスタファーは使者を見下ろし、気を持ち直して毅然と言った。だが内心は、わだかまりを払拭できず、晴れがたい。
(このような大事なときに、父は、気分がすぐれぬと休むなど)
そう、あろうことかドラグセルクセスは気分がすぐれぬと寝台から出ようとしないのだ。昨夜アスラーン・ムスタファーは父に進言をした。しかし、心ここにあらずと呆けた顔をして話を聞き、聞いているのか聞いていないのかわからぬような力ない相槌をうつのみだった。
(一体父はどうなされたのだ)
ぎゅっと、拳を握る。以前の威厳はどこへいってしまったというのか。
臣下やアスラーン・ムスタファー、シャムスは使者への返答だけでもどうにか、と言ったものの、ドラグセルクセスは頑として寝台から出るのを拒んだ。
やむなく典医に様子を見させることにし、アスラーン・ムスタファーが代理に返答することになった。
使者は神美帝になにがあったのだろうと不思議がりながら、跪いてアスラーン・ムスタファーの返答を聞いた。
「我が国と貴国らと、不可侵条約を結ぶこと、受け入れてもよい。だが、ひとつ条件がある」
「条件とは……」
使者は不安そうに聞き返せば、アスラーン・ムスタファーは獅子王子のふたつ名にふさわしい、獅子吼のような威厳を込めた声で言った。
「にわかにソケドキアが興り、我が国に挑むこと、そなたたちもよく知っているであろう」
「は、はい」
知っているどころではない。かつてはリジェカとソケドキアは連合軍をもってガウギアオスにてタールコ軍と渡り合い、数の不利を押しのけて撃破したのみならず、帝都トンディスタンブールまで陥落させたのだ。
だがその連合も、シァンドロスの不義によって反故になってしまった。雕のごとく大空に飛び立とうとせんがばかりの勢いに乗っているソケドキア神雕王は、心からリジェカとの同盟を望んでいなかったのだ。
ともあれ、リジェカの使者は、聞いていて肝の冷える思いだった。タールコはあの敗戦の恨みをいだきつづけているのか、と。
ならばどのような条件を突きつけられるというのであろう。
「オンガルリ・リジェカの二ヶ国をもって、ソケドキアを討伐してもらいたい。これが、不可侵条約の条件だ」
「そ、それはあまりにも」
使者は言葉を失った。なんという無理な条件を押し付けるものだろう。オンガルリ・リジェカは戦争を望んではいない。確かにソケドキアは脅威であるし、ソケドキアから見ればオンガルリ・リジェカは後顧の憂いであろうが。
オンガルリ・リジェカの二ヶ国はあくまでも専守防衛につとめ、自ら他国へ攻め入る意図はないのだ。だからこそ、その意を示し、タールコと不可侵条約を結ぼうとしているのではないか。
にも関わらず、ソケドキアへ攻め込むようなことをすれば、本末転倒だ。
「どうした、いやだというのか。ならば不可侵条約を結ぶことはできぬ。早々に帰国せよ」
アスラーン・ムスタファーは獅子が獲物を見据えるような目で使者をにらみつけた。ここは、侮られてはいけない。神美帝なくとも、獅子王子あることを示さねばならない。
「お待ちを。なぜにそのような条件を出されるのでござろうか。我らが国は……」
「自ら他へ攻め入るようなことはせぬ、というのであろうが。我が国の弱り目につけこみ、不可侵条約を締結せんとするうぬらの腹は読めているのだぞ!」
「つけこむなど、決してそのような。これは、リジェカ王モルテンセンおよびオンガルリ王女ヴァハルラともに、これまでの歴史を顧みてのことで、あくまでも相互の共存共栄が……」
「お前たちに慰められずとも、タールコは試練を乗り越え、栄えてみせる! はっきり言えばよいではないか、我が国に攻め込まれたくないのだ、と」
使者は口ごもり、何も言えなかった。アスラーン・ムスタファーの威厳に気圧されてしまったようだった。
シャムスは静かにことのなりゆきを見守っている。
「そのとおり、貴国を畏れてのことでございます。ならばこそ、和睦し共存共栄の道しるべをつけようとするのです。ただ、畏れはしても敵意はありませぬ。どうかお信じくだされ」
使者は勇を鼓して語った。なんとしても不可侵条約を締結させねばならない、という必死の思いだった。が、アスラーン・ムスタファーに見透かされているようでもあった。
「信じてやろう。ソケドキアを討てばな」
アスラーン・ムスタファーはこの条件を絶対に付加しようとしていた。
(獅子王子は、いや神美帝はリジェカ・オンガルリにただならぬ敵意を持っているようだ。無理もあるまいが、どうしたものか)
オンガルリ・リジェカとも再興し復興の道を歩み始めたばかり。ただでさえ乱多く、犠牲も少なくなかったというのに。さらに戦争をするなど、いたずらに国を疲弊させるばかりではないか。それを、タールコはせよという。
これも、敵意、憎悪なくしてつけられる条件ではないではないか。
「獅子王子、ひとつ、よろしいでしょうか」
「なんじゃ、言うてみよ」
「はい。オンガルリ・リジェカ両国は再興したばかり。まだ戦争をする力はございませぬ。ですがソケドキアの脅威は貴国と同じくしております。いずれ戦わねばならぬでしょうが、今は、無理でございます」
「ならばどうするのだ」
「ご猶予をくだされ」
「猶予、だと」
「はい、ご猶予をくだされば、その間に復興も進みソケドキアに攻め入ることもできるでございましょう」
「もし早々にソケドキアがタールコに攻め入ればどうする」
「そのときは、オンガルリ・リジェカは貴国のためにソケドキアと戦いましょう」
使者は必死だった。なんとしても不可侵条約を結ばねばならぬと。だが条件をそのまま呑むことはできない。ならば、条件を緩めてもらうしかない。
「……」
アスラーン・ムスタファーはじっと使者を見据えている。
そして、
「よかろう」
と言った。
「ありがたき幸せ。この和睦、不可侵条約をもって三ヵ国共栄の道を歩まんことを」
使者はひれ伏し、アスラーン・ムスタファーに何度も礼を述べた。シャムスは、我が子の強い態度にやや不安を覚えていた。歴史を顧みて、共存共栄の道を、というのは、シャムス自身は賛同するところである。
が、アスラーン・ムスタファーはオンガルリ・リジェカとの戦いを、まるで望んでいるかのようだ。
(ムスタファーは、ドラゴン騎士団を雄敵と見ている。どうしても、戦いたいのであろうか)
できれば思いとどまらせたい。戦争をせずに済むなら。なにより神美帝の容態が気がかりであった。どうにも、嫌な予感がしてならず。杞憂であればよいが、と何度も己に言い聞かせていた。
「では、書簡に獅子王子のご署名を……」
あらかじめ提出されていた二枚の書簡、モルテンセンとヴァハルラの署名および蝋印つきの書簡を侍従はアスラーン・ムスタファーに差し出せば。
アスラーン・ムスタファーは筆をとり、それぞれの書簡に、神美帝ドラグセルクセスに代わり獅子王子・ムスタファー署名す、と書き記した。
タールコの書記が三ヵ国による不可侵条約の締結がなったことを書き記す。
こうして、オンガルリ・リジェカとタールコの三ヵ国間不可侵条約は正式に締結された。
使者は書簡を戻されると、丁重に礼を述べ、広間を辞して帰国の支度にとりかかった。
アスラーン・ムスタファーも、シャムスも、使者を見送ったあとその場を去ってそれぞれの私室へと戻っていった。
使者は支度を整え、帰国の途についた。
数日してオンガルリに入り、さらに数日して都ルカベストに入り。オンガルリの使者はヴァハルラに書簡を差し出し。アスラーン・ムスタファーより出された条件を伝えた。
リジェカの使者も速急に都メガリシにもどり、モルテンセンに書簡を差し出し、アスラーン・ムスタファーの条件を伝える。
「ソケドキアを牽制せよ、と……」
ヴァハルラもモルテンセンも、同じような反応をしめした。そして同じように、無理難題を、と思った。
復興はまだはじまったばかり。確かにソケドキアは脅威だが、わざわざこちらから挑発することはない。シァンドロスが重視するのは東方であり、西方のリジェカ・オンガルリは後回しにされるか、牽制にとどまるか、というのは調べがついている。
「ニコレット、いかがいたしましょう」
女王ヴァハルラはニコレットに悩みを打ち明ける。
「さて、いかがいたしましょう……」
ニコレットもしばし考え込んだ。無理難題をふっかけるものだ、と。ちなみにニコレットは今は赤いドレスを身にまとっている。戦争がなく女王のそばに控えるときにまで、鎧姿というわけにはいくまい。
ドレスをまとえば、母親譲りの金髪も映えて。金の薔薇のを思わせる美しさと凛々しさがあった。が、美しい薔薇には棘があるというもの。ひとたび戦場に出れば剣を振るい勇戦すること男勝りなこと、まさに小龍公女の称号にふさわしかった。
リジェカにおいても、モルテンセンはアスラーン・ムスタファーの条件に頭を悩ませていた。
リジェカの国情はオンガルリよりも複雑である。ソケドキアと国境を接し、いつ攻め込まれるかと警戒を怠れず。また先の民族主義思想も、わずかながらでも残って、「目覚めた」者たちがいまだ過ぎ去りし我が世の春を忘れられず、不穏な動きがあることも調べがついているのだ。
つまり、ソケドキアのみならず、国内の不穏分子にも神経をとがらせねばならないわけだ。
これは王として負担多きことであった。
「過ちは繰り返さぬゆえに」
と無念の死を遂げた者たちに交わした誓いを守るために、モルテンセンはイヴァンシムら臣下の助けを受けながら懸命に王としてのつとめを果たしていた。
モルテンセンはイヴァンシムやコヴァクスをともなって、使者と面会し詳細を聞き出していた。
「アスラーン・ムスタファーが、つよくこの条件を付与したのだな」
「は、ソケドキア討伐はぜがひでもオンガルリ・リジェカ両国に委ねるつもりでございます」
「神美帝は容態がすぐれぬと、獅子王子が代理で出席して、この条件を出したのだな」
イヴァンシムは何度となく、そのことを使者に確認した。
「はい。その威光並ぶものなきなはずの神美帝は、初日こそ姿を見せましたが……」
「ふむ……」
コヴァクスも話を聞いて、にわかには信じられない。ガウギアオスにおいて神美帝ドラグセルクセスと一騎打ちをし、剣を折られあやうく討たれそうになっただけに。
あのとき、シァンドロスの軍勢がなだれこまねば、と思うと今でも胆の冷える思いをするのであった。
「予も、どうも腑に落ちぬところがある。イヴァンシム、コヴァクス、お前たちも同じか?」
「はい。どうも様子がおかしいと思わざるを得ませぬ」
イヴァンシムは応えて、考え込んだ。コヴァクスもイヴァンシムと同意であることをを示し、胸に妙な予感が走るのを禁じえなかった。
タールコになにかあったのだろうか、いや、なにか起こるのか、と。