死人の初診料
戸が開いた時、老人は薬鍋を火から下ろしていた。
診療時間はとうに過ぎている。
地上の呑み屋から三味線の曲が漏れ聞こえた。
地下へ続く階段を転がるように降りてきた男は、戸口で一度つまずいた。
腹を押さえた両手の隙間から、黄緑色の滲出液が垂れている。
「先生、診てください」
先生と呼ばれた老人は都の闇医者である。
しかし、患者より先に床を見た。掃除が増えると言わんばかりだ。
「そごさ座れ」
壁際に控えていた絡繰人形が、ぎこちなく首を回した。
《初診受付を開始します》
《掌を照合板へ置いてください》
男は長椅子へ腰を下ろし、言われるまま右手を板へ乗せた。
淡い光が指の骨まで透かす。
一拍。
二拍。
絡繰人形の首が、かくりと少し傾いた。
《照合完了》
《都医療台帳:死亡登録済》
《診療対象:該当なし》
「……はい?」
間の抜けた声と共に、男が顔を上げた。
《死亡登録済みの方は通常診療を利用できません》
《生存されている場合、生存復旧手続きを先に行ってください》
腹の傷からぼた、と落ちた。
「先生」
「なんだ」
「……俺、死んでます?」
「帳簿ではな。死人ならもう少し行儀よぐしろ。服さ脱げ」
老人は診察台を顎で示すが、そこに絡繰人形が割り込んだ。
人形の目が赤く光り、電子的な警告音が鳴る。
《警告:診療対象外です》
《死亡個体への医療行為は記録できません》
老人は人形の後頭部から通信線を一本抜いた。
目から光が消え、その動きが固まった。
「今日はよぐ壊れる日だ」
男は診察台へ横になりながら、不安そうに人形を見た。
「……大丈夫なんですか、それ」
「おめぇよりは軽傷だ」
傷は思ったより深い。
脇腹から腹直筋の手前まで、鋭利な何かが斜めに入っている。
老人は薬液を染み込ませた布を押し当て、男の背中が跳ねた。
「いだァ、だだだだ!!!」
「死人にしちゃ元気だな」
「生きてますって!?」
「それ、役所さ言え」
傷口を開く。裂けた皮膚の奥に異物は残っていない。
ただ、傷の縁が不自然に黒ずみ、黄緑色の液がじわりと滲んでいた。
「何やった」
「荷運びです」
「どごの?」
男が黙る。老人は鼻を鳴らした。
「認証なしの日雇いってのは、死んだ奴まで使うんだが」
「……死んでるから使うんですよ。名簿に載せなくていいし、怪我しても労災にならない」
なるほど。死人は安上がりだ。
この都は人間を捨てるのも拾うのも、なかなか無駄がない。
老人は傷口を洗い、縫合糸を用意した。
「おめ、前にもやったな」
老人が腹ではなく左脚を指すと、男の目が揺れた。
脛から太腿へ走る古い亀裂痕。治療の雑な圧迫損傷。
針を刺すと、男の腹が強張った。
「あいッ!だだだぁぁ!!
……これは、三ヶ月前です。雨季の終わり頃、南の倉庫街で」
男は痛みを紛らわせるように話し始めた。
古い荷蔵を地下へ拡張する工事だったという。
彼は正規の職人ではなかった。
人手が足りない日に呼ばれ、荷を運び、瓦礫を退けるだけの臨時人足。
事故の日は工程が遅れていた。
翌朝には新しい荷が入る。現場を止めれば、元請けが違約金を払わされる。
本来なら地下の支持構造を確かめながら、古い梁を一本ずつ外すはずだった。
「親方が平気だって言うもんだから」
一本を抜いた。何も起きなかった。
二本目も抜いた。それでも何も起きなかった。
三本目で落ちた。
老人は糸を引いた。
一度無茶が通れば、二度目からはそれが段取りになる。
よくある話だ。
「下さ何人いた?」
「俺と、もう一人。そいつはどうなったかわかりません」
崩落した瞬間、資材棚が斜めに倒れて梁代わりになったらしい。
その隙間へ押し込まれた男は、左脚が潰れるだけで済んだ。
事故後、救助活動が始まった。
最初のうちは外から掘る音が聞こえたという。
男の説明を聞きながら、老人は端末に展開された演算歴へ視線を走らせた。
彼の認証キーは崩落直後まで何度か応答している。
やがて地下との通信が途絶え、その後は照合不能。
救助打ち切りと現場からの死亡推定を根拠に、職場が死亡届を出した。
「その後のことは覚えてなくて……気づいたら、横で婆さんが芋煮てました」
老人は針を止めた。
「婆さん?」
「地下に住んでた浮浪者です」
工事記録では、地下区画は無人になっていた。
「水飲まされて、脚を板で固定されて」
「医者か」
「いや。『昔、荷車に轢かれた時にこうされた』って」
その婆さんとやらは、未だ地下にいるという。
「『役所に見つかる方が面倒だ』って。
俺は古い排水路を教えて貰って、そこから上がってこれました」
老人は笑った。都というのは広い。
帳簿に存在しない人間だけで、もう一つ町が作れそうだった。
男が地上に出たのは事故から四日後のこと。
救助側は既に掘削を中断。
事故現場は板と漆喰で塞がれ、札が一枚立てられた。
《局所演算事故につき工事中止》
死亡者二名。そこに男の名もあった。
「親方は?」
「いましたよ。腰、抜かしてました」
「そりゃそうだべな」
親方は男の生存を喜び、その後で声を落とした。
二次崩落の危険があり、認証応答も消えた。
日雇い二人の遺体回収に、正規の救助員まで潰すわけにはいかない。
そりゃそうだ、と男は納得した。
だが、親方は沈痛な顔で続けた。
死亡届はもう出ている。家族への補償も動いている。
今さら生存復旧すれば、事故調査も補償も全部やり直しになるという。
「『女房と娘、金受け取ったんだろ』……って。
家賃の滞納と借金を片づけて、今は都の西にいるそうです」
診察台で男は天井を見上げたまま呟いた。
事故前から滞納していた家賃を、死亡補償で払ったのだろう。
関係者にも都合が良かった。
工事遅延の損害を抑えられる。
最初の梁を誰が抜けと言ったかまで、詳しく調べられずに済む。
「それで?」
「それだけですよ」
脅されたわけではない。
口止め料も出ていない。
生存復旧すれば、補償も再審査になる。場合によっては返還を求められるだろう。
「役所さは行ったんか?」
生存復旧には時間がかかる。
まず本人性の照合。次に死亡後の認証履歴と異常経文の検査。
場合によっては、妖怪化の検めも必要だろう。
共済、雇用、住居、医療……それらが元通りになるまで最短でも二週間はかかる。
その間の衣食住は自分で賄う。医療台帳も死亡のままなので、通常診療は受けられない。
男は今縫われている腹を見た。
「死亡登録中なので通常診療は使えません。だからここへ……」
老人は糸を結んだ。
生きていることを証明するために、このまま何日も耐えろということらしい。
役所仕事としては満点だろう。
最後に包帯を巻く。
「三日は重い物持つな」
「無理です。今は金がなくて……」
「なら五日だな」
「増やしてどうするんですか」
「おめぇ、死ぬぞ」
「もう死んでます」
老人は男を睨んだ。
「そういう便利な使い方すんでねぇ」
男は少し笑い、腹の痛みで顔をしかめた。
処置が終わった。老人は手袋を外し、木桶へ放り込む。
「三日後、また来い。黒いの広がってだら縫い直しだ。
金は急がんでいい。んだども、死体割引はねぇぞ」
老人は絡繰人形の通信線を差し戻した。目が再び点灯する。
《業務を再開します》
「こいつ、三日後に再診だ」
《患者ID:死亡登録済》
《診療対象が存在しません》
「目の前さいるべ」
老人は舌打ちしながら端末を叩き、診療区分を開いた。
外傷。
認証障害。
異常経文。
どれを選んでも拒否される。
その下で、一つだけ白く点灯した。
《遺体保全》
老人の指が止まった。
「……これならどうだ」
《遺体保全 → 予約可能》
《遺体の状態を良好に保ち、指定時刻までにご来院ください》
男はしばらく表示を見ていた。
「……俺、死体として通うんですか」
「生ぎでるより話ぁ早ぇな」
男は戸口まで歩いて、ふと振り返った。
「歩いて来ても?」
絡繰人形が明るい音を鳴らした。
《問題ありません》
この短編では、「生きている」という事実と、制度から「生きている者」として扱われることのズレを扱いました。
『電脳虚界合戦』本編では、認証や契約、組織の仕組みを通して、個人が制度の論理によってどう定義され、そこから何を取り戻せるのかを別の人物たちの視点から描いています。




