第十二話 止まり木の奇跡 ― レントとリリア、その後 ―
春が深まる頃、ミストハウンドの街は淡い花霞に包まれていた。
湖のほとりを歩けば、草の香りと珈琲の香りが風に混ざる。
“止まり木”の小さな看板も、いつもの位置で静かに揺れていた。
「今日は市場の祭りだってね。出店も多いみたいだ」
リリアが白いエプロンの紐を結びながら言う。
その背中には、かつての剣聖の面影と、今の穏やかな生活の佇まいが同居している。
「ええ。いくつか“止まり木”の分店開設の話も進めてますし、僕はこの店で手伝いをしてます」
僕はカウンター越しに湯気の立つポットを差し出す。湯音が小さく鳴る。
数ヶ月前までは想像もつかなかった日常。
王都での騒動、古代の真相、そしてミレイアの赦し――
すべてが過去の一頁になり、残ったのは「赦し」を分かち合う小さな輪だった。
◇◇◇
午前、店の扉が開く。見慣れた顔のほかに、見慣れない者も混じる。
「いらっしゃいませ、止まり木へようこそ」
僕はいつもの調子で迎え、注文を受ける。
魔術的な治癒や因果を書くような大技は今は滅多に使わない。代わりに、聞き上手に、必要な時だけ静かに助ける。それがこの場所の流儀になった。
「レントさん、こちらでいいですか?」
小さな声。見ると、幼い兄妹がひざまずいている。兄の腕には、かつての呪印の残滓らしき薄い紋が見える。
「うん、こちらへ。何かあったのかな?」
兄はこくりと頷き、震える声で告げた。
「村の井戸が呪われて、水が飲めなくなったんです。みんな困ってて……」
僕は深く息を吸い、掌をかざす。
目に見える派手な詠唱はしない。因果の小さな糸をほどき、井戸の水脈と土地の祈りを結び直す。
《小祈術・水脈還し》。それだけで、かつての冷たさがやわらぎ、透明な流れが戻る。
兄妹が目を見張り、唇を震わせて笑った。
「ありがとう……!」
それを見たリリアの頬が柔らかくなる。彼女は皿を拭きつつ、優しく声をかける。
「行ってらっしゃい。今日は祭りで美味しいものを食べるといいわ」
小さな奇跡が、また一つこの村で生まれた。
◇◇◇
午後。店の外は祭りの賑わい。屋台の鈴、子供の歓声、軽やかな音楽。
だが、賑わいの中で、一つの噂が僕の耳に届く。
「止まり木の屋台を、各地で見かけたよ。あれって……チェーン店なのか?」
「そうなんだ。止まり木の思想に賛同した者たちが、各地で“寄り添う場所”を始めてるらしい」
僕はそれを聞いて、不思議な温かさが胸に広がる。
止まり木はいつの間にか単なる店を越え、ネットワークになっていた。
小さな店同士が情報を交換し、困った時は互いに手を差し伸べる。
「呪いに困る者が来たら、一つの止まり木が助け、次の止まり木が見守る」――そんな輪郭を帯びてきている。
夕方、店の裏手で古ぼけた箱を開けると、中からは各地の店主たちからの手紙や小さな品物が出てきた。
「ミストの蜂蜜を分けます」「北の港の保存食を送ります」「助けが必要なら呼んで」
リリアが目を潤ませながら箱を抱く。
「みんな、すごく頑張ってるんだね」
「うん。僕たちが最初に始めたことが、誰かの勇気になったなんて」
その夜、僕たちは簡単な祝杯を上げた。
セオドールは酒に顔を赤らめ、ソフィアは謎めいた微笑みを浮かべる。アレスは遠くで剣の手入れをしているという噂があるが、今では訪れる時に静かな礼を交わしていく。あの日の険悪さは、もう過去のものだ。
◇◇◇
数日後、遠方の支店から救援要請が届く。
北西の村で、不思議な“眠り病”が再発したという。かつて僕たちが遇った封呪石と似た欠片が見つかったらしい。
「行くか?」リリアが尋ねる。彼女の目に迷いはない。
「もちろん。止まり木は逃げない場所でなければならない」
馬車を出し、数人の若き店主とともに向かう。道中、手紙で繋がった他の止まり木の者たちと合流し、いつの間にか小さな隊列ができていた。
「止まり木の一座だな」一人が笑うと、皆が自然と笑顔になる。
現地に着くと、眠り病にかかった者たちのそばには、確かに黒い欠片が落ちていた。だがそれは“攻撃”のための器ではなく、誰かが故意に撒いた『忘却の種』のようだ。誰かはまだ、呪いを傷みにしか見ていない。
僕たちは手分けして調査を行い、僕は欠片の残滓を集めて解析する。短時間でわかったこと――欠片は古代の文字を写した“偽装品”で、真の術式は既に劣化している。つくり手は傷付けるのが目的ではなく、困惑させ混乱を起こす“情報テロ”のようだった。
「誰がこんなことを?」セオドールが眉を寄せる。
「かつての研究院の残党、あるいは混乱を好む業者かもしれない」僕は応じる。だが、僕にとって大切なのは原因を罰することよりも、被害者を癒すことだ。
僕とリリア、他の店主たちは協力して、寝ている者たち一人一人に“穏やかな祈り”を届ける。薬草、手作りの護符、昔話――祈りの形は多様だ。やがて、少しずつ、閉ざされていた瞼が開いていく。
目を覚ました老女が、僕の手を握る。
「あなたたちが来てくれて、本当に助かった」
その言葉に、胸が熱くなる。止まり木のネットワークは、ただの連携ではなく“希望の分配”になっていた。
◇◇◇
ある夜、僕は店の軒先で一羽の小さな鳥を見つけた。羽根が片方だけ薄く光っている。手に乗せると、鳥は軽く鳴いた。小さな存在にも祈りが宿る。僕は無意識に呟く。
「ミレイアの祈りも、こうして少しずつ世界に散っていくのだろうか」
リリアが隣に座り、小さな鳥を見て微笑む。
「そうだね。祈りは人の中で生きる。形を変えても、人の優しさを伝えるよ」
僕は手の中で鳥をそっと撫で、考えた。
世界は完全には変わらなかった。歪みは残るし、古い怨念は消えない。だが、毎日誰かが小さな善を積み重ねれば、その均衡は少しずつ戻る。止まり木はその“積み重ね”の一つの形だ。
◇◇◇
季節が一巡し、僕たちは小さな“祝典”を開いた。止まり木の年に一度の集い。各地の店主、助けられた人々、仲間たちが集まり、焚き火を囲んで話し、歌い、笑う。短剣を置いたライオネルが子供たちに昔話を語り、ソフィアが皆に薬草茶を振る舞う。アレスはふとした瞬間にやってきて、遠くから拍手を送る。みんなが互いを認め合っている。
その夜、リリアが僕の目の前で杯を掲げる。
「レント。あなたが始めたことが、こんなに広がるなんてね」
「ええ。でも、これは始まりに過ぎません」
「ふふ、相変わらず向こう見ずね」
リリアの言葉に、僕は真剣に答える。
「向こう見ずでいいんです。誰かのために進む気持ちがある限り、止まり木は止まらない」
周囲から小さな拍手が湧く。誰もが、ほんの少し誇らしげだ。
◇◇◇
夜が更け、焚き火の火が細るころ、リリアがそっとつぶやいた。
「ねぇ、レント。いつか、止まり木が世界中にある日が来るのかな」
「来ますよ。小さな祈りがつながれば、きっと」
彼女の瞳に月光が反射する。僕はその瞳を見つめ、ゆっくりと答えた。
「世界が変わるのは一夜ではありません。でも、人は変われる。祈りは、誰かが受け取り、別の誰かに渡していくから」
リリアが笑い、僕の手を取った。冷たくも温かい、その感触が確かにここにある。
「じゃあ、これからもずっと一緒に歩こう。止まり木の主人として、隣にいてくれますか?」
僕はすぐに頷いた。言葉に力はいらない。行動こそが約束だから。
「ええ、ずっと」
遠くで、誰かが笛を吹いた。小さな音が夜空にふわりと溶けていく。
止まり木の灯は静かに、しかし確かに、次の朝を灯すために燃え続ける。
終章のように幕は下りない。だが、物語はまた次の朝を迎える。
小さな店がつないだ祈りは、いつしか街の暮らしとなり、人々の勇気となる。
それが“止まり木の奇跡”だった。
ー完




