第十話 止まり木に帰る日
霧の街。
いつものように朝靄が湖を包み、遠くで小鳥の鳴く声が響いていた。
――僕たちは、ようやく帰ってきた。
「ふう……長かったなぁ」
リリアが店の扉を開け、懐かしそうに店内を見渡した。
「この匂い……やっぱり“止まり木”のコーヒーは落ち着くな」
セオドールが笑いながらカウンターに腰を下ろす。
僕はゆっくりとカウンター越しに湯を注ぎながら、静かに言った。
「本当に、ただいま、ですね。」
数か月前、僕たちは王都地下で“呪いの始祖”ミレイアを赦し、
世界を覆っていた呪術の連鎖を解き放った。
以来、世界は少しずつ穏やかになっていった。
呪いの被害は減り、人々の祈りが再び届くようになっていく――。
けれど、その代償もあった。
僕の右腕に刻まれていた【大呪術】の紋様は消え、
今ではただの人間と変わらぬ力しか残っていない。
それでも、不思議と不安はなかった。
リリアも、セオドールも、そしてこの“止まり木”も――僕の帰る場所がある。
それだけで十分だった。
「レント、開店準備は終わったか?」
リリアがエプロンを締めながら声をかけてくる。
「はい。今日から再開です。」
「まったく、英雄がコーヒーを淹れてるなんてね。」
「僕は呪術師ですよ。カフェのマスターのほうが性に合ってます。」
リリアはくすっと笑う。
「……いい顔をするようになったな、レント。」
「え?」
「昔はいつも、自分の価値を信じられずにいた。
でも今のお前は、“ここで生きる自分”を大切にしてる顔をしてる。」
その言葉に、僕は少し照れくさくなりながら笑った。
「……多分、あなたのおかげですよ。」
リリアが頬を染め、視線を逸らす。
「な、何を言ってる。私はただ、ここで皿を洗ってるだけだ。」
「いや、時々剣で皿も割ってますけどね。」
「うるさい!」
店の中に、穏やかな笑い声が広がった。
昼過ぎ。
ドアベルが鳴り、見慣れた三つの影が現れた。
――勇者アレス、賢者ソフィア、聖騎士ライオネル。
「……お前たち。」
思わず息を呑む。
以前のような傲慢さは消え、三人ともどこか疲れた顔をしていた。
「レント……久しぶりだな。」
アレスの声は静かだった。
「まさか、生きていたとは。」
僕は微笑みながら答える。
「ええ。呪われた王女と一緒に、カフェをやってます。」
「……カフェ、だと?」
ソフィアが驚いたように目を瞬かせる。
彼女の腕には包帯が巻かれていた。
「ミレイアの呪いを止めたのは、あなたなのね……?」
「ええ。彼女はもう、安らかに眠っています。」
三人はしばらく沈黙し、やがてアレスが深く頭を下げた。
「……すまなかった。俺たちはお前の本当の力を見抜けなかった。
お前がいなければ、今の世界はなかった。
本当に……すまない。」
リリアが立ち上がりかけたが、僕は手で制した。
「顔を上げてください。もういいんです。」
「……許して、くれるのか?」
「許すも何も、僕はあなたたちのためにやったわけじゃありません。
ただ、“誰かを救いたい”と思っただけです。」
アレスは小さく息を吐き、穏やかな笑みを浮かべた。
「そうか……やっぱりお前は強いな。」
「いいえ。僕はただの呪術師で、今はカフェのマスターです。」
ソフィアが懐から何かを取り出した。
それは、古びた金属製の徽章――勇者パーティーの紋章だった。
「これを返すわ。あなたが本当の“仲間”だった証。」
「……ありがとうございます。」
僕はそれを受け取り、カウンターの奥にそっと飾った。
「この店に来る人たちは、みんな傷ついた旅人です。
だからこの徽章も、ここに飾っておきます。
“誰かがまた立ち上がるための止まり木”として。」
アレスたちはしばらくその言葉を聞き、そして深く礼をして去っていった。
夕暮れ。
橙色の光が湖面に反射し、店の看板が静かに揺れていた。
リリアがそっと僕の隣に立つ。
「レント……もういいのか?」
「ええ。過去は過去です。
でも、彼らがまた歩き出せるなら、それでいい。」
リリアは少し笑って、空を見上げた。
「……やっぱり、お前は優しすぎる。」
「呪術師は、そういうものですよ。
“呪い”を受け入れて、“赦し”に変えるのが仕事ですから。」
リリアはカップを手に取り、軽く掲げた。
「じゃあ、今日の一杯は“祈りのカプチーノ”だな。」
「……そんな名前、メニューにありましたっけ?」
「今作った!」
二人で笑い合い、店の外を風が通り抜けた。
どこからか、銀色の羽がひとつ舞い降りてくる。
それは、ミレイアが残した“祈り”の欠片。
僕はそっとそれを掌に受け、微笑んだ。
「おかえりなさい、ミレイア。……そして、ありがとう。」
その瞬間、店のベルが鳴る。
新しい客の気配。
「いらっしゃいませ。“止まり木”へようこそ。」
僕は穏やかに笑い、カウンターの向こうで湯を注いだ。
――今日もまた、誰かの“心の呪い”を癒すために。




